弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

タイムカードのない期間の残業代を、タイムカードのある期間の平均値から推計することが認められた例

1.実労働時間の主張立証責任

 割増賃金(残業代)を請求するにあたっての実労働時間の主張立証責任は、原告である労働者の側にあります。したがって、割増賃金を請求するにあたっては、労働者の側で始業時刻・終業時刻を特定し、その間、労務を提供していたことを立証する必要があります。

 しかし、使用者の側で労働時間を把握・管理する責務・義務が懈怠している場合、働いた各日について何時から何時まで働いたのかを明確に主張・立証することは、現実問題として極めて困難です。そのため、使用者の側で労働時間を証する資料をきちんと提出できない場合、労働者側で乗り越えなければならない立証のハードルを下げるべきではないのかという議論があります。

 こうした議論に対し、裁判所は、次のような姿勢をとっています。

「使用者側が調整し、保管すべき賃金台帳その他の書類を保持せず、あるいは証拠提出しないために、労働者において正確な残業時間が不明である場合には、それは使用者の責任であるから、労働時間の立証の評価にあたっては、このことも考慮し、使用者の不利益に扱うべきであるとする主張も実務上されることがある。」

「この点については、行政法規である労基法108条・109条の存在を理由として、労働契約上の賃金請求権に関する主張立証責任を労働者から使用者に転換することは困難であり、勤怠管理が適切に行われていない場合であっても、実労働時間を推認できる程度の客観的資料がない場合には時間外労働時間の存在を認定することは困難である・・・。もっとも、労働時間の適切な主張立証とともに、労働時間数についても、労働者の側が一応の立証をしたと評価される場合には、使用者の側において有効かつ適切な反証ができていなければ、労働者の提出資料によって、労働時間性及び労働時間の認定がされることになる。」(佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務Ⅰ』〔青林書院、改訂版、令3〕165頁参照)。

 噛み砕いて言うと、

①主張立証責任の転換はしない、

②客観的資料がなければ、時間外労働の存在が認定できないのは仕方ない、

③ただし、労働時間数について、労働者側で一応の立証がされ、使用者側から有効な反証活動がなければ、労働者側提出資料に基づいて労働時間の認定を行う、

というルールを打ち出しています。

 上記文献には③のようなルールが書かれていますが、個人的な実務経験の範疇でいうと「一応の立証」のハードルは結構高いように思われます。特に、推計を行うことにより「一応の立証」がされたと認めてもらえたことは、あまりありません。

 しかし、近時、公刊物上で、推計による割増賃金の請求を認める例が、散見されるようになっています。例えば、東京地判令4.2.25労働判例ジャーナル125-24 阪神協同作業事件は、タイムカードのない期間の労働時間について、労働時間を特定可能な期間の平均値で推計することを認めました。

タイムカードのない期間の労働時間について、労働時間を特定可能な期間の平均値で推計することが認められた例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

 これと似たような発想のもと、近時公刊された判例集に、タイムカードのない期間の残業代について、タイムカードのある期間の平均値から推計することが認められた裁判例が掲載されていました。京都地判令4.5.11労働判例1268-22 社会福祉法人セヴァ福祉会事件です。

2.社会福祉法人セヴァ福祉会事件

 本件はいわゆる残業代請求事件です。

 被告になったのは、保育園を経営する社会福祉法人です。

 原告になったのは、被告との間で労働契約を締結し、平成17年4月1日から令和2年3月31日までの間、保育士として勤務していた方です。退職のタイミングに合わせ、割増賃金(残業代)の支払いを請求したのが本件です。

 原告の方はタイムカードに基づいて労働時間を立証しようとしました。

 しかし、被告が一部期間のタイムカードを開示しなかったため、タイムカードのない期間の割増賃金をどのように計算するのかという問題が生じました。

 この問題について、裁判所は、次のとおり判示し、タイムカードのある期間の平均的な割増賃金の額から推計を行うことを認めました。

(裁判所の判断)

原告のタイムカードが開示されないことから、平成30年4月度から同年6月度までの未払時間外・深夜割増賃金額を推定すると、上記・・・のとおり、同年7月度から令和2年3月度までの21か月間の期間に総額633万7251円の未払時間外・深夜割増賃金が生じていることからすれば、概ね月額30万円の未払時間外・深夜割増賃金が生じていたものと推定される。そうすると、平成30年4月度から同年6月度までの期間に、総額90万円の未払時間外・深夜割増賃金が生じていたものと推定され、上記の計算結果と合わせると、平成30年4月度から令和2年3月度までの期間では、総額723万7251円の未払時間外・深夜割増賃金が生じていたものと推定される。また、平成30年4月度から同年6月度までの各月に月額30万円の未払時間外・深夜割増賃金が生じていたとした場合、各月分の未払時間外・深夜割増賃金に対する各支払期日(毎月25日)の翌日から原告の退職の日である令和2年3月31日まで民法所定の年5分の割合による確定遅延損害金を計算すると、別紙2の2のとおり、合計8万3269円となり、上記・・・の計算結果と合わせると、平成30年4月度から令和2年3月度までの期間では、確定遅延損害金は総額35万7933円となる。」

3.推計を許容する方向に舵が切られつつあるのか?

 労働時間立証にあたり推計が許容されないとなると、資料を破棄したり、資料を出さなかったり、そもそも資料を作成しなかったりする使用者が得をすることになります。

 この結論は不合理ではないかと何度も主張してきたのですが、個人的経験の範疇では、裁判所の反応は芳しくありませんでした。

 しかし、本件や阪神協同作業事件のように、一部でもタイムカードなどの客観的証拠が揃っている事案では、そこから残部を推計することを許容する裁判例が、近時、公刊物に掲載されるようになってきています。

 裁判例の傾向が、推計をより柔軟に認める方向に舵を切ったのか、それとも、タイムカードが揃っている事案についてのみ立証の厳格さを多少緩和したのか、今後の裁判例の動向が注目されます。