弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

裁判の経過が教えてくれること(NGT裁判)

1.NGT裁判の弁論準備手続
 ネット上に、

「NGT裁判、次回4月8日にも和解成立へ…双方が『積極的に検討』」

という記事が掲載されています。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200327-00000076-dal-ent

 記事には、和解を進めている理由として、

「今回の訴訟でAKS側は当初、『公開法廷の中で、事実を白日の下にさらす』と宣言していたが、結果としてほぼ公開されないままでの和解となる見込み。これについて遠藤弁護士は『今までの準備書面のやりとりで、被告の主張は出尽くしている。確たる客観的な証拠は出てきてないが、証人尋問をやったからといって出てくるかはわからないし、なるべく争いごとは長く続けるべきではないという考え方もある』と理由を語った。」

「加えて『真実発見の見地からは、(山口以外の)他のメンバーが本件には関与していないという、身の潔白が証明できた』と説明。山口への暴行事件に関わったとして警察から事情を聞かれたメンバーもいたことなどから、『メンバーには精神的ショック大きかったし、再出発できないかもというのがあったので…。そこは裁判の意義の一つで、一定の効果はあったのかなと思う』と話した。」

と書かれています。

2.本当に一定の効果はあったのか?
 AKS側の主張は敗戦の弁に近い印象を受けます。
 証人尋問(おそらく被告らの当事者尋問のことを言っているのだと思います)を実施したからといって被告らが真実を語るとは限らないことは、当初から予測できていたことです。そもそも、山口氏の協力を取り付けられないまま訴訟提起した時点で、AKS側には被告らの主張の信用性を吟味・検討する方法はなかったはずです。裁判が被告らの言いっ放しになることは、想定の範囲内の出来事でしかありません。
 また、本件は統計上「その他の損害賠償」という項目で括られている損害賠償請求事件に該当すると思われますが、その平均審理期間は11.2か月です(「地方裁判所における 民事第一審訴訟事件の概況及び実情」12頁参照)。

https://www.courts.go.jp/toukei_siryou/siryo/hokoku_08_hokokusyo/index.html

https://www.courts.go.jp/vc-files/courts/file4/hokoku_08_02minji.pdf
 本件の提訴は昨年4月26日です。そこから第1回口頭弁論(昨年7月10日)までが結構長いことを考えると、弁護士的な感覚では、それほど長く争っているという印象は受けません。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190528-00000125-kyodonews-soci
 本件で判決を言い渡すために残された作業は人証調べだけです。法廷の空き具合や尋問調書(尋問の文字起こしのことです)の作成までの時間にもよりますが、判決までにそれほど時間のかかる手続段階ではないと思います(主張と書証が出尽くした後の普通の流れは、人証調べ→判決 か 人証調べ→最終準備書面の提出→判決 のいずれかで、途中で和解協議が入らない場合、実質審理が行われる期日は1~2回です。判決言い渡し期日は、文字通り判決が言い渡されるだけで、何か具体的なやりとりをするわけではありません)。
 「真実発見の見地からは、(山口以外の)他のメンバーが本件には関与していないという、身の潔白が証明できた」というのも、単純に原告も被告も他のメンバーが関与したという主張をしなかっただけで、何かの事実を勝ち取ったというのとは少し意味合いが違っているように思われます。それに、原告も被告も他のメンバーが関与したとは主張していなのだから、この点を獲得目標にするのであれば、尋問を実施した方がより成果が明確になるはずです。

 更に言えば、元々、訴訟の目的は「このような事態に陥った原因を究明し、再発防止につなげたい」ということであり、他のメンバーの潔白の証明に焦点があるとは言っていなかったようにも思います。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190710-00000095-kyodonews-soci
 以上の理由から、原告が掲げる和解を決意した理由は、あまり実質的であるようには見えません。
 おそらくは原告にそれほど好ましくない心証が裁判所から開示され、このまま公開法廷での人証調べ(非公開の弁論準備手続では証人尋問はできません。当事者尋問も同じです。)や判決を言い渡されるよりは、現時点で和解をしてしまった方が、まだダメージが少ないと判断したのではないかと思います。

https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_minzi/minzi_01_02_02/index.html

3.裁判の経過が教えてくれること
 民事裁判の経過が逐一報道されて行くことはあまりないと思います。
 民事訴訟法自体が技術的で読みにくいこともあり、一般の方が民事裁判の実体を知る機会はそれほどなかったのではないかと思います。
 この裁判の顛末は、次の二つのことを、一般の方に分かりやすく実証してくれたように思っています。
 一つは、訴訟戦略のない裁判は、大抵うまく行かないということです。真実はこうだという確信や具体的な立証計画が持てないまま、何となく訴訟を提起したところで、期待通りに物事が進むことはありません。創作の世界では「真実を知るために・・・」という言葉が語られることがありますが、そういう感覚で現実の民事訴訟を提起すると、火傷することが多いように思われます。訴訟提起時はいいにしても、終わらせるのに苦労します。自分で裁判を起こす時、弁護士に裁判の依頼を考える時の参考になればと思います。
 もう一つは、事件報道に接するには冷静な目が必要なことです。裁判や法律のことに限って言えば、メディアにはあまり専門性はないと思っています。明らかに法律や裁判のことを分かっていないと思われる記者が書いた記事は少なくありません。プライバシーへの意識が希薄な記事、事件の当事者の人生に与える影響を顧みない記事も多いと思います。これを機に、事件報道の実体がどのようなものか、今後どうあるべきかの議論が深まれば、この裁判にも一定の意味があったと言えるかも知れません。

 

精神障害の発症を問題とする労災事件のポイント-具体的出来事の関連性

1.労災事件

 労働者が労働災害により被った損害をカバーする制度には、

労基法および労災保険法に基づく労災補償制度

と、

被災労働者又はその遺族が使用者に対して行う損害賠償制度

が併存しています。

 後者の損害賠償制度は、一般に労災民事訴訟(労災民訴)と呼ばれています。

https://www.jil.go.jp/hanrei/conts/07/69.html

 労災補償制度では全ての損害が填補されるわけではないため、労災民訴は、労災補償制度とともに、会社の違法な行為によって損害を受けた労働者の保護に重要な役割を果たしています。

2.精神障害の発症と労災

 労災の主要なテーマの一つに精神障害の発症があります。長時間労働、不正行為の強要、ハラスメントなど、不適切な行為によって心理的な負荷を受け、精神障害を発症した労働者は、労災補償制度の適用を受けるとともに、使用者に対して損害の賠償を求めることができます。

 こうした事件では、しばしば使用者側の負荷要因・不適切と目された行為と、精神障害の発症との間の業務起因性・因果関係が問題となります。

 実務上、業務起因性・因果関係がどのように判断されているかというと、労災の不認定処分の取消訴訟・労災民訴の別を問わず、多くの裁判例では、行政が設定した労災補償制度の業務起因性の認定基準を参照、流用して判断しています。

https://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/rousaihoken04/090316.html

https://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/rousaihoken04/dl/120118a.pdf

 行政が設定した労災補償制度の精神障害の業務起因性の認定基準(基発1226第1号 平成23年12月26日 心理的負荷による精神障害の認定基準について)は、具体的な出来事毎に平均的な心理的負荷の程度を定めています。

 例えば、重度の病気やケガをした場合、標準的な心理的負荷の強度は「強」になるといったようにです。業務起因性・因果関係は、一般に、強い心理的負荷が発生している場合に認められます。

3.心理的負荷が「中」「弱」の具体的出来事は幾ら集めても「強」にならない?

 この種の事件の見通しを考えるうえで、心理的負荷が「中」「弱」の具体的出来事を幾ら集めても、負荷は「強」にはならない・精神障害の業務起因性・因果関係は認められないとする俗説があります。

 確かに、裁判例を分析していると、心理的負荷が「中」「弱」の具体的出来事しかない場合、それが複数認定できる事案であったとしても、容易には業務起因性・因果関係が認められない傾向があることは否定できないと思います。

 しかし、心理的負荷が「中」「弱」の具体的出来事しかない場合であっても、業務起因性・因果関係が認められた裁判例も一定数は存在します。

 では、何が業務起因性・因果関係の存否を認定する鍵になっているのかと言うと、具体的出来事の関連性です。

 関連性の概念は行政が設定した労災補償制度の業務起因性の認定基準の中でも次のとおり言及されています。

(基発1226第1号 平成23年12月26日抜粋)

「いずれの出来事でも単独では『強』の評価とならない場合には、それらの複数の出来事について、関連して生じているのか、関連なく生じているのかを判断した上で

①出来事が関連して生じている場合には、その全体を一つの出来事として評価することとし、原則として最初の出来事を『具体的出来事』として別表1に当てはめ、関連して生じた各出来事は出来事後の状況とみなす方法により、その全体評価を行う。具体的には、『中』である出来事があり、それに関連する別の出来事(それ単独では『中』の評価)が生じた場合には、後発の出来事は先発の出来事の出来事後の状況とみなし、当該後発の出来事の内容、程度により『強』又は『中』として全体を評価する。

②一つの出来事のほかに、それとは関連しない他の出来事が生じている場合には、主としてそれらの出来事の数、各出来事の内容(心理的負荷の強弱)、各出来事の時間的な近接の程度を元に、その全体的な心理的負荷を評価する。具体的には、単独の出来事の心理的負荷が『中』である出来事が複数生じている場合には、全体評価は『中』又は『強』となる。また、『中』の出来事が一つあるほかには『弱』の出来事しかない場合には原則として全体評価も『中』であり、『弱』の出来事が複数生じている場合には原則として全体評価も『弱』となる。」

 心理的負荷が「中」「弱」の具体的出来事を幾ら集めても、負荷は「強」にはならないと諦観をもって嘆かれているのは、分析をしてみると、具体的出来事相互に関連性がない場合で、心理的負荷が「中」の具体的出来事が1つしかないケースであるだとか、心理的負荷が「中」の具体的出来事が複数あっても時間的近接が認められないといったケースが多いように思われます。

4.裁判所も関連性を見ている

 近時公刊された判例集にも、裁判所が「関連性」に着目して心理的負荷の強弱を判断していることが伺われる裁判例が掲載されていました。

 東京地判令元.8.26労働経済判例速報2404-15 三田労基署長事件です。

 本件で原告になったのは、医療画像情報システム並びに関連するソフトウェア及び機材の販売等を営む会社(Z1)の従業員であった方です。

 本件は、原告が、転職先であるZ1から転職前の説明とは異なる処遇を受けたとして処遇の是正を求めて話合いを続けていたところ、突如話合いを打ち切られて深い絶望を感じ、適応障害を発症したとして、療養補償給付の支給を認めなかった三田労基署長の処分の取消を求めて訴えを提起した事案です。

 本件の争点は業務起因性です。

 裁判所は、「上司とのトラブルがあった・・・」「仕事内容・仕事量の(大きな)変化を生じさせる出来事があった・・・」の具体的出来事に該当すると解する余地のある事実を認めたうえで、次のとおり判示し、業務起因性を否定しています。

(裁判所の判断)

「前提となる事実について原告に最大限有利に判断した場合には、認定基準別表1(別表略)の『上司とのトラブルがあった(項目30)』及び「仕事内容・仕事量の(大きな)変化を生じさせる出来事があった(項目15)』に当たる出来事があtったとみる余地があるものの、各出来事は関連なく生じたものであり、その心理的負荷の強度は、それぞれ『弱』及び『中』であるから、全体としては『中』にとどまると評価するのが相当である。」

(中略)

「以上のとり、認定基準を当てはめた場合、原告の主張を最大限踏まえ、かつ、原告に最も有利に検討しても心理的負荷の程度は『中』にとどまるから、本件精神障害の発病に業務起因性は認められない。」

5.労災は弁護士によって見通しが変わり得る

 心理的負荷が「強」である具体的出来事が認められない労災事件では、関連性をどのように論証するのかがポイントになってきます。関連性を立証するための理論構成を思いつくかどうかで、事件に対する見通しが変わることが有り得ます。この意味において、労災は同一の事案であったとしても、相談を担当する弁護士によって、見通しの変わり得る事件類型だと思います。

 個人的には、労災はセカンドオピニオンをとることが推奨される事件類型だと考えています。他の法律事務所・弁護士から厳しい見通しを告げられたとしても、本当にそうなのかと疑問に思われている方は、ぜひ、一度、ご相談頂ければと思います。

 

規則違反の常態化が懲戒処分の処分量定に与える影響

1.規則違反が常態化している中で下された懲戒処分

 少し前に、

「違法行為を理由に懲戒された場合、『みんなやっている。』『ここでは常態化している。』は抗弁になるか?」

という記事を書きました。

https://sskdlawyer.hatenablog.com/entry/2020/03/19/010727

 この記事では、民間病院において医師法に抵触する可能性のある行為が行われていたこと等を理由とする懲戒処分がなされた事案で、当該行為が常態化していたことが懲戒処分を妨げる要素になったことを紹介させて頂きました。

 この「違法行為は常態化していた。(だから、法違反があったとしても、懲戒処分を受けるいわれはない)」との立論は、公務員の勤務関係でも通用するのでしょうか。

 この問題を考えるにあたっての例となる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。

 高松高判令元.11.22労働判例ジャーナル96-84 鳴門市事件です。

2.鳴門市事件

 本件は、

「現在の職務とは関係のない鳴門市女性子ども支援センター(ぱぁとなー)での相談記録等をUSBメモリを使って持ち出し、学校給食センターの業務用パソコンに保存していたこと」

などを理由に停職6か月(ただし、鳴門市公平委員会の裁決により停職4か月に修正)の懲戒処分を受けた原告・控訴人が、懲戒処分の効力を争って提起した取消訴訟です。

 請求を棄却した一審の判断を受け、原告が控訴した事件の二審判決です。

 原告はUSBメモリの持ち出しを、後任者からの質問に備えるためであったと供述し、その供述は高裁でも信用することができると認められています。

 こうした情報の持ち出しは鳴門市のセキュリティポリシーに違反するものでした。しかし、当時、後任者からの質問に備えて、前任者が異動時に移動前の職場の業務に関する情報をUSBメモリで持ち出すことは、一般的に行われていました。

 こうした状況のもとで、原告に懲戒処分を科することが許容されるのかが問題となりました。

 裁判所は、次のとおり述べて、非違行為としての重大性を否定しました。

 また、それだけが原因ではないにしても、減給を超える懲戒処分は裁量権の逸脱であるとして、懲戒処分を取り消しました。

(裁判所の判断)

「被控訴人に無断で持ち出された相談等情報は、DV等の被害者支援事業や相談事業を行う『ぱぁとなー』において扱われ、保管されていた被害者ないし相談者の氏名、住所、連絡先、相談内容、相談対応等であって、これらが当該被害者等に対する加害者、ストーカー等に知られた場合、当該被害者等の生命・身体に対して危害が加えられるという具体的かつ切迫した危険を生じさせるものであり、極めて秘匿性の高い個人情報であるといえ、このような相談等情報が被控訴人に無断で持ち出されるという事態は、被控訴人内部の遵守事項であるセキュリティポリシーに違反する。しかしながら、前記3で説示したとおり、当時においては、後任者からの質問に備えて、異動時に異動前の職場における業務に関する情報をUSBメモリで持ち出すことは、控訴人のみならず、他の職員も一般的に行っていたものであり、控訴人も持ち出した情報を他に漏洩したり、悪用したりしたわけでもないことからすれば、控訴人USBメモリによる情報の持ち出しについては、非違行為に該当はするものの、それほど重大な違反とまではいえないというべきである。

3.内部の遵守事項への違反ではあるが・・・

 本件で常態化していたのは内部の遵守事項への違反であって、法令違反ではありません。したがって、厳密に言えば、本件は法令違反の常態化が懲戒処分を妨げる理由になるのかという問題に直接答える事案ではありません。

 しかし、本件も一般社団法人竹田市医師会事件と同様、違反行為の常態化を非違行為の重大性を否定する方向の事情として指摘しています。

 刑事事件では「みんなやっている」系の弁解は無視・黙殺されるだけという感がありますが、企業秩序・組織秩序との関係が問題になる労働法領域での懲戒処分との関係では、あながち無理筋の主張というわけではないのかも知れません。

 

求人票や採用時に交付される労働条件通知書は捨ててはいけない-労働条件通知書のすり替えとその救済法理

1.労働条件の明示

 労働基準法15条1項は、

「使用者は、労働契約の締結に際し、労働者に対して賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならない。この場合において、賃金及び労働時間に関する事項その他の厚生労働省令で定める事項については、厚生労働省令で定める方法により明示しなければならない。」

と規定しています。

 これを受けた労働基準法施行規則5条4項本文は、

法第十五条第一項後段の厚生労働省令で定める方法は、労働者に対する前項に規定する事項が明らかとなる書面の交付とする。

と規定しています。

 これらの規定に基づいて、労働者に明示すべき労働条件をまとめた書面は、慣行上、労働条件通知書と呼ばれています。

 労働基準法15条の規定から分かるとおり、労働条件通知書の交付は法律上の義務です。違反すれば30万円以下の罰金に処せられます(労働基準法120条1号)。

 そのため、労働契約書・雇用契約書が作成されていない場合であったとしても、多くの事案で労働条件通知書は存在しています。この労働条件通知書は、就業規則と並んで、労働契約の内容を把握する重要な資料となります。

 近時公刊された判例集に、この労働条件通知書のすり替えが問題となった事案が掲載されていました。名古屋地判令2.1.21労働判例ジャーナル96-84 解雇無効地位確認等請求事件です。すり替えの手口は、不正防止の観点から一般に周知された方が良いと思われたため、当該裁判例をご紹介させて頂きます。

2.解雇無効地位確認等請求事件

 この事件で被告になったのは、衆議院議員であった方です。

 原告になったのは、平成29年9月に被告に採用され、議員秘書の補助として来客対応等の庶務を担当していた方です。

 平成30年6月1日に被告から解雇を通知されたため、その効力を争い、地位確認等を求める訴訟を提起しました。

 本件では、

① 労働契約の期間の定めの有無、

② 解雇の有効性、

の二つが争点となりました。

 期間の定めの有無が争点になるのは、解雇無効とされた時の未払賃金の発生の終期に関係してくるからです。

 有期契約であれば、基本的には、期間満了までが未払賃金の発生の終期となります。

 他方、無期契約であれば、特に終期はないことから、原告の請求を認容する判決が言い渡される場合、判決確定の日までに蓄積した未払賃金の支払いが命じられるのが通例となります。

 期間の定めの有無が争点になったのは、原告に交付されていた労働条件通知書の記載と、被告に保管されていた労働条件通知書の記載とが異なっていたからです。

 面接時に被告から原告に手渡された労働条件通知書には、「期間の定めのない雇用である。」という旨の記載がありました。

 しかし、被告に保管されていた原告の署名・押印入りの労働条件通知書には、「期間の定めあり(平成29年9月19日~平成30年9月18日)」との記載がありました。

 こうした状況下で、原告・被告間の労働契約の期間の定めの有無をどのように理解するかが問題となりました。

 裁判所は、次のとおり、事実を認定をしたうえ、原告・被告間の労働契約は期間の定めのない労働契約であると判示しました。

(裁判所の事実認定)

「原告は、平成29年9月14日、被告のP4事務所に、ハローワークで印刷した被告の求人票を持参し、被告の採用面接を受けた。その求人票には『雇用期間の定めなし』と記載されていた。その翌日、原告は、被告から電話で採用する旨伝えられた。・・・」
「原告は、平成29年9月19日、被告のP4事務所に初めて出勤した。同日、被告は、原告に対し、『期間の定めなし』との記載が丸で囲まれた当初労働条件通知書を手渡し、本件労働契約が期間の定めのないものである旨を説明した。さらに、その際、被告は、原告に対し、『これ(当初労働条件通知書)』と同じものを社会保険労務士に作らせますので、出来たものにサインをお願いします』と述べた。・・・
「原告が入所してから2週間ほど経過したころ、被告は、原告に対し、社会保険労務士作成の本件労働条件通知書を送付した。本件労働条件通知書には当初労働条件通知書と異なり『期間の定めあり(平成29年9月19日~平成30年9月18日)』と記載されていた。しかし、そのころ、被告が原告に対して当初労働条件通知書からの記載内容の変更につき説明することはなかった。・・・
「そのため、原告は、当初労働条件通知書と同じ内容のものが送付されてきたものと考え、平成29年10月10日に公示される選挙の準備が既に始まっていて忙しかったこともあり、送付されてきた本件労働条件通知書に目を通すことなく、『期間の定めあり』とされていたことに気付かずにそのころ署名押印して被告に提出した。

(裁判所の判断)

「本件では、原告が入所してから2週間ほど経過したころ、被告が原告に対して『期間の定めあり』とする本件労働条件通知書を送付し、平成29年10月20日ころ、原告がこれに署名押印している。この事実に基づいて被告は、期間の定めのある労働契約の成立を主張するところ、この主張は先に期間の定めのない契約として成立を認定した本件労働契約の変更合意を主張する趣旨を含むものと解される。」
「しかしながら、・・・本件労働条件通知書に原告が署名押印した行為をもって、期間の定めのない労働契約から1年の有期契約への変更を原告が十分に認識したうえで自由な意思に基づいて合意したものと評価することはできないから、労働条件の変更合意を認めることはできない。
「被告は、原告に対して期間の定めのある労働契約となる旨を説明した上で、本件労働条件通知書を交わし、原告の承諾を得たと主張するけれども、本件労働条件通知書に原告が署名押印している以外にこれを裏付ける証拠はなく、・・・証拠に照らして採用することはできない。」
「したがって、本件労働契約には期間の定めがあったとは認められない。」

3.労働条件通知書のすり替えに対抗するには・・・

 本件の被告は、最初、期間定めのない労働条件通知書を示しながら、「これ・・・と同じもの」であるとして期間の定めのある労働条件通知書を送付し、最初に示された労働条件通知書と同じ内容だと誤信した原告から署名・押印を取り付けています。

 民法95条は、

「意思表示は、法律行為の要素に錯誤があったときは、無効とする。ただし、表意者に重大な過失があったときは、表意者は、自らその無効を主張することができない。」

と規定しています。

 これに基づいて、錯誤による意思表示は、無効だと主張することができます。

 しかし、書面に期間の定めが明記されいてるとなると、誤信するわけがないだろという突っ込みが入りますし、誤信したとの主張・立証が通りそうになっても、

「重過失があるから錯誤無効の主張は制限される」

との反論が提示されることが予想されます。

 では、本件のような場合に原告の方は救済されないのかというと、そのようなことはありません。

 裁判所は、

「自由な意思に基づいて合意したものと評価することはできないから、労働条件の変更合意を認めることはできない。」

という救済法理を用いてすり替えられた労働条件通知書による労働条件変更(期間の定め無し→有りへの変更)の合意の効力を否定しました。

 素朴な公平感に照らせば、裁判所の判断は当然のことであるように思われます。

 しかし、裁判所の救済法理の適用を受けられたのは、求人票や最初の労働条件通知書を原告が保管していたため、労働条件通知書のすり替えを比較的容易に立証できたからです。

 求人票や最初の労働条件通知書を捨ててしまっていて、被告から、

「当初から期間の定めを明記した労働条件通知書を交付していました。」

と言い張られていたら、結論はどうなっていたか分かりません。

 使用者から渡される書類は、紛争になった時に、重要な役割を果たすものが少なくありません。採用されたからもう使わないと判断するのは早計で、退職するまでの間、求人票や労働条件通知書などの使用者から交付される書類は、なくさないようにきちんと保管しておくことが大切です。

 

出来高払制(歩合制)の労働契約と最低賃金

1.歩合制の労働契約

 労働基準法27条は、

「出来高払制その他の請負制で使用する労働者については、使用者は、労働時間に応じ一定額の賃金の保障をしなければならない。」

と規定しています。

 こうした規定があることから分かるとおり、賃金を出来高払(歩合)で支払うことは、法律上、許容されていないわけではありません。「労働時間に応じ」た「一定額の賃金の保障」さえ設定されていれば、出来高払制(歩合制)で賃金を定めることは可能です。

 しかし、出来高払制(歩合制)の労働契約の中には、

「労働時間に応じ」た「一定額の賃金の保障」

が適切に設定されていない契約も珍しくありません。

 単価が低く設定されていたり、成果が上がりにくい業務であったりする場合、信じられないほど長時間働いているにもかかわらず、賃金が低額に抑えられているケースがあります。

 こうした方は、往々にして成績を上げることができない自分自身を責めがちですが、一度、最低賃金との関係を見直してみると良いと思います。労働時間との関係で賃金が最低賃金を下回っている場合、差額を請求することができるからです。

 近時公刊された判例集に掲載されていた、大阪地判令元.12.27労働判例ジャーナル96-56 税経コンサルティング事件も、出来高給(歩合給)と最低賃金との関係が問題になった事件の一つです。

2.税経コンサルティング事件

 本件で被告になったのは、保険業務等を目的とする合同会社です。

 原告になったのは、被告のもとで保険の営業業務等に従事していた方です。

 原告と被告との間で交わされた雇用契約書では、給料について、

「最初の期間は、フルコミッション制。労働時間に応じ一定額の賃金は保障。一定期間後は、固定給と業績給制へ移行する。」

と記載されていました。

 こうした契約のもとで稼働してきた原告が、最低賃金に満たない賃金しか支払われていないとして、最低賃金額に基づて計算した賃金額と実際に支給された賃金額との差額を請求する訴えを起こしたのが本件です。

 被告は、原告との契約は雇用契約ではなく委託契約だと主張しました。しかし、裁判所は、次のとおり述べて、契約の性質を雇用契約であると認定したうえ、原告の請求の殆どを認容する判決を言い渡しました。

(裁判所の判断)

「原告及び被告は、平成27年4月1日頃、それぞれ自己の意思に基づき、本件雇用契約書に原告が署名押印し、Bが被告代表者として押印してこれを作成した事実が認められる。これによれば、原告及び被告の間では、同日、本件雇用契約書に記載の契約が成立したものと認められ、これを覆すに足りる証拠はない。そして、本件雇用契約書は、その表題が『雇用契約書』であるのみならず、雇用契約を締結する旨が明記され、原告が被告のもとで保険業務等の労務を提供し、その対価として給料(フルコミッション制(完全歩合制)であるが労働時間に応じた一定額の賃金が保障される)を支払うことを内容としている上、賞与や健康保険、雇用保険、厚生年金の加入についても併せ定めているのであり、雇用契約としての実質を備えた内容となっている。他面、雇用契約であることと明らかに矛盾する内容は見いだせないことにも鑑みれば、原告と被告との間で成立した契約が雇用契約であることは明らかである。」

(中略)

「原告の請求に係る平成27年5月から平成29年5月まで(ただし、平成27年12月を除く。)の間の勤務に関し、被告は、原告に対し、最低賃金と同様の賃金の支払義務を負い、同賃金額の算定は、対応する期間の大阪府の最低賃金・・・に労働時間数を乗じて算出することになる」

3.出来高払制(歩合制)の賃金と最低賃金の関係は覆い隠されやすい

 出来高払制(歩合制)と最低賃金の関係は気付かれにくいことも珍しくありません。

 最低賃金との関係の覆い隠され方は、大きく言って二つあります。

 一つは、業務委託・フリーランスといった形での偽装です。業務委託だから最低賃金法は適用されない、自営業者間の契約だから最低賃金とは関係ない、そういった形での偽装の仕方です。

 しかし、労働者性は実質に基づいて決められます。税経コンサルティング事件は契約の文言すら委託契約ではなかったケースですが、委託契約・請負契約といった表題で契約が締結されていたとしても、当該契約が労働契約としての実質を備えている場合、最低賃金法などの労働者を保護するための法律の適用を受けることになります。

 もう一つは、労働契約としての形を維持しながらも、「労働時間に応じ」た「一定額の賃金の保障」の設定が甘いケースです。

 長時間労働を意識せずに「一定額の賃金の保障」が決められている場合、賃金を実際の労働時間をもとに割り算してみると、最低賃金額を下回っていた事実が判明することがあります。

 労働者に近い働き方をしているフリーランスの人、やたら労働時間が長い出来高制(歩合制)労働者の方は、一度、報酬・賃金と最低賃金との関係を調べてみても良いのではないかと思います。

4.最低賃金とはいえ、それなりの金額になることも珍しくない

 税経コンサルティング事件では、

「被告は、原告に対し、118万1959円及びうち116万8272円に対する平成29年6月1日から、うち1万3687円に対する同年6月21日から、各支払済みまで年14.6%の割合による金員を支払え。」

との判決主文が言い渡されています。この判決からも分かるとおり、最低賃金とはいえ、かなりの長時間の労働を強いられていた場合、ある程度まとまった金額になる可能性があります。

 気になる方は、ぜひ、一度ご相談ください。

 

私傷病休職からの復職にあたり配置転換を求めることはできるのか?

1.私傷病休職からの復職の可否

 私傷病で一定期間就労できないことは、本来は労働契約における債務不履行であり、解雇理由になります。しかし、直ちに解雇するのは酷であることから、多くの企業では、解雇猶予の目的で私傷病休職制度が設けられています(佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務』〔青林書院、初版、平29〕306参照)。

 元々、解雇猶予の制度でしかないことから、復職の要件である「治ゆ」のハードルは高めに設定されています。具体的には、

「『治ゆ』(休職事由の消滅)とは、原則として、従前の職務を通常の程度に行える健康状態に回復したときを意味し、それに達しない場合には、使用者が当該労働者の就労を拒絶し、解雇又は自動退職扱いにすることが直ちに違法とはいえない」

と理解されています(前掲文献312頁参照)。

 しかし、労働者側としては、従前の職務に従事していて傷病に至ったのであるから、従前の職務には戻りたくないという気持ちになることもあるだろうと思います。特に、休職の理由が精神的な疾患である場合には、そうした気持ちになる方は少なくないと思います。

 それでは、復職にあたり、従前の職務に復帰することが不安である場合、安全配慮義務の内容として、配置転換を求めることはできないのでしょうか。

 この点が問題となった近時の裁判例に、大阪地判令元.11.27労働判例ジャーナル96-78 京都市事件があります。

2.京都市事件

 本件で原告になったのは、京都市の中央斎場で勤務している方です。保健福祉局の衛生業務員の募集に応募して採用された方です。募集案内で衛生業務員の職務内容は中央斎場での火葬業務とされていて、実際、原告は採用後に保健福祉局の生活衛生課で中央斎場の管理運営及び関連業務に従事していました。

 中央斎場の敷地内においてトラックの荷台に乗って移動中、交通事故にあって重篤な傷害を負い、それをきっかけに適応障害に罹患しました。

 そこからの復職にあたり、被告が配置転換等の負担軽減措置をとらなかったことが安全配慮義務に反する違法行為であると主張して、京都市を相手取って慰謝料を求める国家賠償請求訴訟を提起したのが本件です。

 裁判所は、次のとおり述べて、配置転換によって負担軽減措置をとるべき義務への違反を否定しました。

(裁判所の判断)

「本件疾病の診断を受けた平成27年5月11日以降、原告は、一貫して、本件事故の現場となった中央斎場への復職に対する強い不安を訴えたり、中央斎場を回避するといった状況が見られていたこと、平成29年1月6日の診察時までの間、主治医等は、環境を変えることで改善が期待できるとして、異動が『必要である』との意見を述べていたことが認められる。」
「しかしながら、

〔1〕原告は、E課長らとの復職に向けた平成29年1月24日の面談の後、医務衛生課での時短勤務の後に中央斎場での勤務を織り交ぜる内容のリハビリ勤務を希望し、これを踏まえた同年2月3日の診察・面談時に、主治医は、現職場への不安が強いとしつつ、異動については『望ましい』とし、予定されているリハビリ勤務の計画については特に問題がない旨の意見を述べていたこと・・・、

〔2〕原告は、リハビリ勤務開始後の同年3月2日、中央斎場での午後の勤務に向かう際に体調の急変、悪化を来したが、翌日の診察・面談時に、主治医は、不安症状が出現しており、馴化は未知数である旨述べる一方、『環境変化不可能なら不安への内服を継続』するとし、前日の一件によってリハビリ勤務を中断したり復職を不可と判断することはできない旨の意見を述べていたこと・・・、そして、

〔3〕原告は、同月24日にも中央斎場への出勤中に体調の急変、悪化を来し、また、同月28日以降に本件事故現場付近に赴いた際の強い不安や緊張感を実施記録票に記載したことはあるものの、中央斎場への通勤・出勤を含むリハビリ勤務を概ね計画に沿って完了し、同年4月1日付けでの復職に至っていること・・・、以上の事実が認められる。」
「以上のとおり、原告が、中央斎場への復職につき強い不安や緊張を訴えており、これに伴う体調の急変、悪化等という出来事があったことを踏まえても、原告は最終的に予定されたリハビリ勤務を概ね完了し復職が実現しており、その経過の中で、主治医において、リハビリ勤務の計画を中止すべきであるとか、中央斎場への復職が不適当である等の判断をしていない。
このことに、原告が、中央斎場での火葬業務に従事する衛生業務員として採用され、その後、本件事故までの約12年間にわたり、同業務に従事してきたこと・・・を併せ考慮すると、平成29年4月1日の復職時に原告を中央斎場の勤務に復帰させることが不相当であったとまではいえず、被告の原告に対する安全配慮義務として、原告の復職に当たり、被告が原告を中央斎場以外の勤務場所に配置転換しなければならない法的義務を負っていたとは認められない。

3.結論は消極であったが、あながち無理な立論ではないかもしれない

 裁判所は結論として原告の請求を棄却しています。

 しかし、配置転換を求めるというのも、あながち無理のある立論ではないのだろうと思います。なぜなら、裁判所は、配置転換しなければならない法的義務を負っていたとは認められないとの結論を導くにあたり、比較的詳細な理由付けを行っているからです。

 従前の職務を通常の程度に行えないのであれば、そもそも復職が認められないのだから、復職して従前の職務を通常の程度に行える程度にまで回復している労働者に対して配置転換を行う義務など生じるはずもない、そうしたドライな理解に立つのであれば、個別事案の内容に立ち入った判断はする必要がありません。

 本件で特徴的なのは、採用時に職種が限定されていた節のある点です。

 職種限定特約がない場合、

「最一小判平10・4・9集民188号1頁・労判736号15頁〔片山組事件〕・・・判決の趣旨からは、休職後の復帰に際し、現実に配置可能な業務の有無を検討すべきであろう。」(前掲文献312頁)

と、一定の場合に、配置転換の可能性を検討すべきであるとされています。

 他方、職種限定特約がある場合、

「当初軽作業に就かせれば程なく通常業務に復帰できる場合には、使用者にそのような配慮を行うことが義務づけられる場合がある」(前掲文献同頁)

との見解は存在しても、特約に抵触してまで配置転換を検討すべきとする見解はあまり一般的ではないように思います。

 本件は、職種限定特約があったとしても、労働者が求めるなどの一定の場合には、配置転換義務が生じる余地があるかのような判断がなされているところに特徴があります。

 主治医によって復職不相当の意見が述べられると、そもそも復職の可否との関係が問題になることから、配置転換が必要な場面として具体的にどのような場面が想定できるのかは不分明ではあります。

 しかし、理論上先ず無理(主張自体失当)だといった請求の切り捨て方に特徴的な判示をしていないことからすると、職種限定特約付きの労働契約においても、復職は可能だけれども配置転換の検討が必要だといった領域を考えることは出来るのかも知れません。

 

精神的な不調があるときは、職場に明示的に相談しておいた方がいい

1.予見可能性

 精神的な不調について、限界まで職場に相談しない方がいます。

 事柄の性質上、職場に伝えたくないことは分かりますが、精神的な不調を感じた場合には、できるだけ早く職場に配慮を求めることをお勧めします。深刻な被害が生じることを回避するとともに、万が一の時、損害賠償を請求し易くするためです。

 法律の世界では、しばしば「予見可能性」という概念が用いられます。

 過失責任を問うにあたっての「過失」は、予見可能性と結果回避義務の二つの要素から構成されると理解されています(我妻榮ほか著『我妻・有泉コンメンタール民法-総則・物権・債権』〔日本評論社、令元、第6版〕1467頁参照)。予見可能性のない結果に責任を問うことはできません。

 また、予見可能性は因果関係の存否を問う場面でも問題になります。民法416条2項は、

「特別の事情によって生じた損害であっても、当事者がその事情を予見し、又は予見することができたときは、債権者は、その賠償を請求することができる。」

と特別損害に因果関係を認めるためには予見可能性が必要であるとしています。

 時折、いじめで子どもが自殺した時、明らかに原因-結果の条件関係のある場合でも、「因果関係が認められない。」と言って学校の責任が否定されることがあるのは、法律上の因果関係が上述のように理解されるからです。平成30年度には54万3933件のいじめが認知されていますが、自殺等の悲惨な事態に至る件数は極めて少数です。そのため、通常生じることのない自殺という結果について、予見が難しかったといえるケースでは「因果関係」が認められるかが普通に争点になります。予見可能性が認められない場合、自然的な条件関係には争いがなかったとしても、裁判所では「因果関係が認められない。」という判断がなされることになります。

https://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/31/10/1422020.htm

https://www.mext.go.jp/content/1410392.pdf

 予見可能性は損害賠償を請求するうえで避けては通れない、「過失」「因果関係」といった法律要件と結びついている極めて重要な概念です。

 そして、賠償義務者に予見可能性があったことを主張していくにあたり、最も直截的な橋頭堡の築き方は、予め被害を受けそうなことを相談・申告しておくことです。言っておけば何でも予見可能になるというほど単純であるわけではありませんが、予め相談・申告をしておけば、危険が顕在化して損害を受けた場合にも、危険を放置した加害者に対して責任を問い易くなります。

 それは職場で精神的な不調を感じた時も同じです。そのことは、近時公刊された判例集に掲載されていた、札幌高判令元.12.19労働判例ジャーナル96-70 北海道二十一世紀総合研究所事件 という裁判例からも読み取れます。

2.北海道二十一世紀総合研究所事件

 本件で一審被告となったのは、企業経営に関するコンサルティング等を目的とする株式会社です。

 一審原告になったのは、一審被告の正社員の方です。残業が嵩んで鬱病になったとして、一審被告会社らを相手取り、安全配慮義務違反に基づく損害賠償を請求する訴えを起こしました。

 一審では総額約3500万円の損害賠償請求が認められましたが、高裁は次のとおり述べて一審被告会社の予見可能性を否定し、一審原告の請求を棄却しました。

(裁判所の判断)

「一審被告会社が発症前3か月間における一審原告の労働時間が長時間に及んでいることを把握しつつ、その業務負担について、格別、軽減の措置を執っていない一方、この間における一審原告の担当業務は、主として一審原告の専門分野に属する本件調査義務であり、データの集計等に時間を要したという長期化要因について、相談の機会はあったものの、これを利用することはなかった等の事情を指摘することができる。一審被告会社としては、一審原告の業務がうつ病の発症をもたらしうる危険性を有する特に過重なものと認識することは困難であり、単に労働時間が長時間に及んでいることのみをもって、一審原告のうつ病の発症を予見できたとはいえないというべきである。そして、本件において、他に一審原告のうつ病発症の予見可能性を基礎付ける事実は認められない。」
「また、一審原告は、平成17年度当初、複数の調査研究業務を担当していたが、前記認定事実・・・のとおり、最終的には主な担当業務が本件調査業務のみとなっており、ここから更に一審原告の担当業務を減らすのは困難であったというべきである。そして、一審被告会社では、毎週、意見交換のための全体会議が開催されており、一審原告は、その機会に、業務遂行上の課題を伝え、上司や同僚に相談することができ、これが困難であったとは認められないのに、相談等をしなかった。そうすると、一審被告会社は、一審原告の業務を更に削減することが困難であった上、特に一審原告から業務の遂行が困難であることの申告もなかったことから、早期に心身の健康相談やカウンセリングを受診する機会を設けたり、休養を指示したりすることを含め、一審原告のうつ病の発症を回避するために具体的な対応をすることも困難であったというべきである。
「以上のとおり、一審被告会社が一審原告の時間外労働が長時間に及んでいることを把握していたとしても、一審原告の担当していた業務の内容等の事情を考慮すれば、一審原告がうつ病を発症することを予見できたとは認められず、また、一審原告のうつ病の発症を回避するために具体的な対応をとることも困難であったというべきである。一審原告がうつ病を発症したことについて、一審被告会社に安全配慮義務違反は認められない。

3.言わなければ、伝わらない

 高裁は事前の相談・申告の機会が活かされていないことを理由に、一審原告の鬱病の発症について、職場(一審被告会社)に予見可能性はなかったと判示しました。

 相談・申告を受けた会社が負担を軽減してくれる可能性はそれなりにありますし、仮に相談・申告を無視するような会社であったとしても、事前に相談・申告をしておけば、損害が顕在化した時に、賠償責任を問い易くなります。少なくとも、予見可能性がないという形での逃げ道を塞ぐことに役立ちます。

 言いにくいことであるとは思いますが、言わないことは伝わりません。精神的な不調は長引いたり繰り返したりすることも珍しくないので、限界を迎える前に、きちんと職場に相談・申告しておくことが推奨されます。