弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

アカデミックハラスメント-学生の態度に問題があっても、教育を放棄する姿勢を見せることは指導ではない

1.アカデミックハラスメント

 大学等の教育・研究の場で生じるハラスメントを、アカデミックハラスメント(アカハラ)といいます。

 アカデミックハラスメントとの関係で特に問題になりやすいことの一つに、学生への指導との関係があります。高等教育の場面においても、厳しい指導は許容されないわけではありません。しかし、当然のことながら、行き過ぎた指導はハラスメントになります。

 問題は何が「行き過ぎた指導」かです。許容される厳しい指導/行き過ぎた指導の境界は、それほど明確に線引きできるわけではありません。そのため、ハラスメントの成否に関する裁判所の判断を正確に予測するためには、個々の裁判例の検討が重要な意味を持ちます。

 近時公刊された判例集に、学生への指導について、ハラスメントの成立を認めた裁判例が掲載されていました。名古屋地判令3.1.27労働判例1307-64 国立大学法人愛知教育大学事件です。違法な指導がどのようなものなのかを知るための例として、ご紹介させて頂きます。

2.国立大学法人愛知教育大学事件

 本件で被告になったのは、国立大学法人法に基づいて設立された国立大学法人です。

 原告になったのは、被告のA学部で教授職にあった方です。

 学生に対する複数のハラスメント行為を理由に停職6週間の懲戒処分をされたことを受け、処分の無効確認、停職期間中の賃金、慰謝料等の支払を請求したのが本件です。

 本件で処分事由とされたのは、次の五つの事実です。

① 原告は、平成29年5月8日4限目『声楽ゼミナールⅠ』にて、学生に対し、発音が間違っていることを理由に100円の罰金を要求した(本件懲戒事実①)。

② 原告は、平成29年5月22日4限目「声楽ゼミナールⅠ」及び平成30年5月8日4限目「特別研究Ⅰ」・・・にて、学生を強く怒鳴った(平成29年5月22日の事実=本件懲戒事実②-1、平成30年5月8日の事実=本件懲戒事実②-2)。

③ 原告は、平成29年10月23日4限目「声楽ゼミナールⅡ」にて、学生の大学院入学試験の英語の点数が受験生の中で一番低かったと、本人及び他の学生らの前で話した(本件懲戒事実③)。

④ 原告は、平成30年5月7日2限目「声楽演奏法研究Ⅰ」にて、学生に対し、発音が間違っていることを理由に洋菓子の購入を要求した(本件懲戒事実④)。

⑤ 原告は、平成30年5月21日2限目「声楽演奏法研究Ⅰ」にて、学生が休学に至った理由はAへの就職や岡崎市の公務員試験に失敗したためであると、他の学生に話した(本件懲戒事実⑤)。

 行き過ぎた指導との関係で問題になるのは、本件懲戒事実②ですが、裁判所は、次のとおり述べて、本件懲戒事実②のハラスメント該当性を認めました。

(裁判所の判断)

「原告は、平成29年5月22日4限目『声楽ゼミナールⅠ』において、学生O(当時学部4年生)に対し、その発声に気持ちが乗っていないなどと指導したところ、学生Oがこれに対し返事をすることなく、次の小節に進めるよう述べたことから、『返事しろよ、お前はー。』、『俺の言うことが信じられないなら、来るな、もう!お前全然俺が言うこと信じようとしてる顔してねえやないか!来んな、ぼけえ!腹立つ奴やなあ、お前は。』と強く怒鳴った。学生Oが『もう1回お願いします。』と述べると、原告は、『もっかいじゃねえわ。俺の言うこと信じようと思ってるのか、お前は!』、『なんでそんな顔になるんだお前は。返事もしやがらんし。』などと強い調子で述べた上、『たく、気分悪いな。今度そんな態度出したら、もう教えんからな。』と述べて授業を再開した(本件懲戒事実②-1)。」

(中略)

「原告は、平成30年5月8日4限目『特別研究Ⅰ』において、学生O(当時大学院修士課程1年生)に対し、上を向いて歌っていることを注意した後、『お前なんでさ、人が言ったらそんな不貞腐れたみたいな顔するんだよ。』とその態度を指摘した。これに対し、学生Oが『してないです、そんな顔。』などと応答すると、原告は、『してたやないか、お前は!いい加減にしとけよ、お前は。』と述べた上、『してたわ!どうせ後期からBさん行くんだから、前期から教えんわ、俺は、お前は。気分の悪い。』、『言っとくけど俺が教えてる、声の、声の出し方は、そんなもんはBさん教えれんからな。』、『俺の耳でしか、分からんことなんだよ。くそったれ、もう、本当に。いい加減にしとけ!』、『誰がお前さ、気分、気分よく教えてると思ってんだ。後期からどうせお前Bさんとこ行く人を。』、『お前、相談、相談とか言って、何言ったんだよ、お前。曲の相談だ、なんだかんだって言って、こっちが真剣に考えてやって。で、最後にお前、何?後期からB先生のところに行きますとか言って、そんな失礼な話あるのかよ。最初に言うべきことじゃねえのかよ。』、『言い方の順番があるだろうが。』などと、学生Oが修士課程1年生の後期からB准教授の講座に戻ることを指摘した上、学生Oがその事実を原告に伝えた順序が礼を失することを詰った。これに対し、学生Oが、原告に上記事実を伝える順序については色々検討していた、早めに伝えれば原告から怒られたり、相談に乗ってもらえなくなったりするのではないかと考えていた旨回答したところ、原告は、『じゃあ、俺、もう今俺、レッスンしなくていいよな?』、『本当だったらお前、自分の生徒でもない奴にさ、教えたくもないわ。』などと述べたものの、その後、『もう手を抜いて教えてやろうなんていう人間ではないんです。』、『その時は、怒っても、お前、手を抜いて教えたりはしてません。目の前にさ、お前、病気で、病気の奴がいるのにさ、手を出さない、手を貸さないような人ではありません。病気って分かる?お前の発声だよ。俺からしたら、お前の発声は病気なんだって。俺は発声のお医者さんだと思ってるからさ、発声が悪い奴のさ、発声をさ、治さないでさ、ほっとく訳にはいかないんだよ。』などと、それでも学生Oに対する指導に手を抜くことはない旨述べた。その後、原告は、学生Oが原告から見て不貞腐れたような顔をしていること、B准教授の講座に戻ると原告の指導内容を忘れてしまうであろうこと、声楽の指導には師弟関係、信頼関係が必要であるが学生Oの態度は失礼であることを詰り、学生OがB准教授の講座に戻っても、B准教授と相談の上、原告からの指導を活かしていく旨回答したことに対し、『そんだけ人が言うことに色々文句が言えるんだったら、適当にやってください。』と述べた。上記やり取りは、約35分続き、学生Oは涙声で対応していた。また、その間、原告は、『お前が病気を持ってるから、治してやろうと思ってるからや。』、『でも病気で苦しんでる人がいるのに、適当にはできん。』とも述べた(以上、本件懲戒事実②-2)。」

(中略)

「本件懲戒事実②-1について、原告は、学生Oに対し指導をしたものの、学生Oが返事をすることなく、歌唱を進めようとしたことから、その態度が失礼であることを『来んな、ぼけえ!腹立つ奴やな、お前は。』などと強い口調で指摘したものである。そして、歌唱の指導を受ける者としての学生Oの態度には問題がみられ、その指導の必要性があったとはいえるものの、原告は、学生Oに対して教育を放棄する姿勢を示して罵声を浴びせ、それに対して不服な表情をした可能性もある学生Oに対し、さらに畳み掛けるように『なんでそんな顔になるんだお前は。』などと発言しているのであって、これは、教育学部の教授として学生Oに指導を行い、あるいはその反省を促すというものを超えた過剰な言動であるというほかない。

そうすると、本件懲戒事実②-1は、飽くまで指導が行き過ぎた結果であり、原告がその後すぐに授業を再開させて結果として学生Oの指導を放棄したような事実も認められないことを考慮したとしても、原告の不適切な言動により、学生Oの修学上の環境を害したものというべきであり、ハラスメントに該当するものと認められる。

「本件懲戒事実②-2について、原告は、指導を受けている学生Oの態度が失礼であることを指導するに際し、学生OがB准教授の講座に戻ることを原告に伝えた順序が礼を失することを指摘し、本当は指導などしたくはないなどと学生Oを突き放すような発言をし、約35分間にわたって、主に、学生Oの発声ではなく、その態度が失礼であることを強い口調で感情的になって詰るなどしたものである。」

そこで検討するに、学生Oの態度が声楽の世界においては礼を失するものであったとしても、原告による上記言動は、学生Oの教育を放棄することに言及し、涙声で対応する学生Oを長時間にわたって詰り続けるという、教育学部の教授としての指導の範囲を超えた感情的なものであって、学生Oの反省を促すというよりも、単に自らの権威ないし優越的地位の承認を強要するに近く、結果として学生Oを委縮させるものであって、教員から教育指導中にこのような言動の対象となれば、学生が当該教員から引き続き修学することを困難ならしめるに足りるものというほかない。

そうすると、本件懲戒事実②-2は、飽くまで指導が行き過ぎた結果であり、結果として原告が学生Oの指導を放棄したような事実も認められないことを考慮したとしても、原告の不適切な言動により、学生Oの修学上の環境を害したものとして、ハラスメントに該当するというべきである。なお、被告は、原告が『病気』という表現を用いて学生Oの人格を否定した旨主張するが、前記で認定したとおり、原告は、学生Oの発声には問題があること、及び原告はそれを指導することができることの比喩として、『病気』という表現を用いていることは明らかであり、被告の主張を採用することはできない。

3.態度に問題があっても、教育を放棄する姿勢を見せるのは指導ではない

 以上のとおり、裁判所は、学生の態度に問題があるにしても、教育を放棄する姿勢を示したり、教育を放棄することに言及したりするのは指導として行き過ぎであり、ハラスメントに該当すると判示しました。

 教育機関である以上、厳しい指導が許容されるのは、あくまでも教育目的を実現するためであり、教育を放棄するような姿勢・言動は、最早指導としては正当化できないということなのではないかと思われます。

 厳しい指導/行き過ぎた指導(ハラスメント)の分水嶺を知るうえで、実務上参考になります。

 

公務員の死亡逸失利益-67歳まで同一の基礎収入(同等・上位にあった行政職員の給与平均額)が用いられた例

1.逸失利益を計算するうえでの労働能力喪失期間の終期

 事故や事件で死亡したり、後遺障害が残ったりした場合、被害者は、加害者に対し、減収分に対応する逸失利益の賠償を請求することができます。

 この場合、就労による逸失利益の終期をどこで画するのかという問題が生じます。人は余命が尽きるまで働き続けることができるわけではないからです。

 裁判実務上、労働能力喪失期間の終期は一般的に67歳であるとされています((大島眞一『交通事故事件の実務-裁判官の視点-』〔新日本法規出版、初版、令2〕75-76頁参照)。

 ここで一つ問題があります。それは労働能力期間喪失の終期(就労可能年数)までの間、同一の基礎収入を用いることができるのかという問題です。

 人の収入には変化があります。概ねの人の賃金は、年齢が上がるとともに上昇して行き、やがて頭打ちになり、役職定年等で緩やかに下降し、定年後再雇用でガクンと減り、高年齢者雇用安定法上の高年齢者雇用確保措置が切れる65歳を迎えてゼロになります。死亡逸失利益や後遺症逸失利益を計算するうえでも、こうした賃金の推移が反映されないのでしょうか?

 近時公刊された判例集に、この問題との関係で、67歳まで同一の基礎収入を用いて逸失利益を計算した裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介した、札幌地裁令6.2.6労働経済判例速報2547-27 雄竹町事件です。

2.雄竹町事件

 本件で被告になったのは、普通地方公共団体です。

 原告になったのは、精神疾患を発症して自死した被告職員の遺族です。取消訴訟を経て被災者の自死が公務災害であることが認定された後、労災(公務災害)民訴を提起したのが本件です。

 本件では死亡当時45歳であった被災者の逸失利益が問題になりましたが、基礎収入の認定の仕方が争点になりました。具体的に言うと、原告は定年前後で基礎収入を区別すべきではないと主張したのに対し、被告は定年前後で基礎収入を区別すべきだと主張しました。

 裁判所は、次のとおり述べて、定年前後で基礎収入を区別することなく、逸失利益を計算しました。

(裁判所の判断)

「逸失利益は、将来の長期間にわたって取得することが想定される収入を基礎とするものであるから、客観的に相当程度の蓋然性をもって予測される収入の額を算出することができる場合には、その限度で損害の発生を認めるべきである。」

「平成27年12月9日の死亡当時、被災者の職務の級及び号俸は4級65号俸であったところ、被災者に予定されていた昇給の見込みを具体的に認定することは困難であるものの、普通地方公共団体の行政職員という職務の性質に加え、被災者の従前の昇給の経過からしてその勤務成績が良好であったと評価できること・・・、・・・に照らすと、被災者死亡当時、被告において被災者と同等又はより上位にあった行政職員の給与の平均額である738万1574円を被災者の基礎収入とすることは合理的であり、相当と認められる。」

「被災者が、死亡当時、妻である原告A並びに子2名(原告C及び原告D)を扶養していたことは当事者間に争いがないところ、子2名は当時19歳と16歳であり(甲1)、その後被災者に扶養される期間は長くはなかったと推認されるから、生活費控除率を40%とするのが相当である。」

「就労可能年数は、死亡当時の年齢である45歳から67歳までの22年間であり、当該期間に対応するライプニッツ係数は13.1630である。」

「したがって、被災者の逸失利益は、次の計算式のとおり算出される。

(計算式)

738万1574円×(1-0.4)×13.1630≒5829万8195円」

なお、被災者の死亡当時、被告における定年は60歳と定められていたが(令和3年法律第63号による改正前の地方公務員法28条の2第2項、同年法 律第61号による改正前の国家公務員法81条の2第2項参照)、これら改正により被告における定年が令和13年4月1日までに段階的に65歳まで引き上げられること(上記改正後の地方公務員法28条の6第2項、附則21項、上記改正後の国家公務員法81条の6第2項、附則8条参照)、原告らにおいて被災者が定年まで勤続した場合の退職金の増額分を逸失利益として主張していないことに照らすと、退職の前後を問わず上記基礎収入により逸失利益を算出するのが相当である。

3.定年・定年後再任用・退職が無視された

 以上のとおり、裁判所は、定年引上げや退職金の増額分が逸失利益として計上されていないことなどに触れたうえ、定年・定年後再任用・退職を無視し、同一の基礎収入を用いて逸失利益を計算しました。

 損害についての原則的な考え方である差額説に立って考えると、賃金・俸給の推移を逸失利益計算にあたり考慮すべきであるという主張には一定の説得力がありますが、これを排し、しかも死亡時よりも高い基礎収入で逸失利益を計算したところに事案としての特性があります。

 定年や定年後再雇用(再任用)、二度目の定年による退職等の事実を考慮して逸失利益を計算すべきだとして、損害を削りにかかってくる使用者側に反論して行くにあたり、本裁判例は、実務上参考になります。

 

労災民訴(公務災害民訴)で死亡逸失利益の基礎収入が死亡者と同等又は上位にあった行政職員の給与平均額とされた例

1.労災民訴

 労働災害(労災)や公務災害の被災者が、労働者災害補償保険法や国家公務員災害補償法、地方公務員災害補償法等で補償されなかった損害について、使用者に損害賠償を請求することを、一般に「労災民訴」といいます。

 労働者災害補償保険法等による保護は手厚いものの、被災者が死亡しているケースなど被害が甚大な案件では、カバーされない損害も相当規模に及ぶため、労災民訴が提起されることは、実務上、それほど珍しいことではありません。

2.死亡逸失利益の計算

 労災民訴に固有のことではありませんが、現行法上、死亡逸失利益は、次のとおり計算されます。

基礎収入 ✖ (1-生活費控除率) ✖ 就労可能年数のライプニッツ係数

 ここで言う基礎収入については、後遺症逸失利益の基礎収入と同じように理解されます。具体的には、

「実収入額によるのが原則であるが、休業損害とは異なって、将来の長期間にわたる所得の問題であるため、必ずしも事故当時の収入額によるのが相当な場合もある

と理解されています(大島眞一『交通事故事件の実務-裁判官の視点-』〔新日本法規出版、初版、令2〕68頁、86頁)。

 要するに、

実収入額が原則

何か例外的な事情がある場合には、事故(被災)当時の収入額とは別の額を用いる

といったことです。

 例外の典型は若年者について、賃金センサスを用いて基礎収入を認定する場面ですが、近時公刊された判例集に、基礎収入の認定について珍しい判断を示した裁判例が掲載されていました。札幌地裁令6.2.6労働経済判例速報2547-27 雄竹町事件です。

3.雄竹町事件

 本件で被告になったのは、普通地方公共団体です。

 原告になったのは、精神疾患を発症して自死した被告職員の遺族です。取消訴訟を経て被災者の自死が公務災害であることが認定された後、労災(公務災害)民訴を提起したのが本件です。

 本件では死亡当時45歳であった被災者の逸失利益が問題になりましたが、本件では、次のとおり基礎収入の額が争われていました。

(原告の主張)

「被災者は、死亡当時45歳であり、雄武町職員の給与に関する条例(以下「給与条例」という。)に基づく職員の職務の級及び号俸は4級65号俸であった。被災者は、仮に自死をしていなかった場合、被告において勤務を続け、年次を重ねるにつれて号俸が増え、昇任することが見込まれていた。」

「被告の行政職員のうち、職務の級が4級で、かつ65号俸と同等又はより上位の号俸であった職員6名と、職務の級が5級又は6級であった職員18名の、計24名における給与の年間総支給額の平均額は738万1574円であり、同額を基礎収入と見るのが相当である。」

(被告の主張)

「基礎収入は、本件自殺の前年度の年収によるべきであるから、被災者の平成26年度の年収である669万8739円となる。」

 これに対し、裁判所は、次のとおり述べて、原告の主張を採用しました。

(裁判所の判断)

「逸失利益は、将来の長期間にわたって取得することが想定される収入を基礎とするものであるから、客観的に相当程度の蓋然性をもって予測される収入の額を算出することができる場合には、その限度で損害の発生を認めるべきである。」

平成27年12月9日の死亡当時、被災者の職務の級及び号俸は4級65号俸であったところ、被災者に予定されていた昇給の見込みを具体的に認定することは困難であるものの、普通地方公共団体の行政職員という職務の性質に加え、被災者の従前の昇給の経過からしてその勤務成績が良好であったと評価できること・・・に照らすと、被災者死亡当時、被告において被災者と同等又はより上位にあった行政職員の給与の平均額である738万1574円を被災者の基礎収入とすることは合理的であり、相当と認められる。

3.昇給見込みの具体的認定は困難であるが・・・

 一般的に言うと、賃金はある程度のところまで年功的に上昇して行きます。しかし、具体的に何時・幾らにまで上昇していたのかは、仮定的な判断になるため、良く分からないのが普通です。これが立証の壁となって立ちふさがり、基礎収入の認定は、何だかんだ死亡当時の実収入の限度に抑えられてしまうことが少なくありません。

 しかし、本件の裁判所は「昇給のみ込みを具体的に認定することは困難」との認識を前提としながらも、昇給があることを前提とした金額を基礎収入として認定しました。

 使用者側からは「普通地方公共団体の行政職員という職務の性質」の特殊性を主張されるとは思われるものの、これは画期的な判断であり、今後、労災民訴(公務災害民訴)を行っていく上で、先例として積極的に引用して行くことが考えられます。

 

制服への更衣時間に労働時間性が認められた例

1.更衣時間の労働時間性

 制服や作業服への更衣時間の労働時間該当性については、一般に、次のとおり理解されています。

「労働者が就業を命じられた業務を行う前段階の・・・作業服・作業靴への着替え・履替えなどの業務の準備行為は、労務提供そのものではなく、労務提供の準備行為であるから、基本的にはそれが使用者の指揮命令下に置かれていると評価できるものでない限り労働時間と解することはできない。」(佐々木宗啓ほか『類型別 労働関係訴訟の実務Ⅰ』〔青林書院、改訂版、令3〕155頁参照)

 つまり、

原則的には労働時間には該当しない、

例外的に、それが使用者の指揮命令下に置かれていると評価できる場合に限り、労働時間に該当する、

ということです。

 制服への更衣時間は、業務との結びついているイメージを持ちやすいからか、法律相談に来る方の中には、当然、労働時間として認められるはずだと考えている方が少なくありません。

 確かに、更衣時間に労働時間性を認めた公表裁判例は相当数あります。しかし、原則的に労働時間に該当しないとされていることとの関係で、労働時間性が否定されている公表裁判例も相当数あります。要するに、更衣時間の労働時間性の立証のハードルを乗り越えることは、それほど簡単ではありません。

 このような状況の中、近時公刊された判例集に、制服への更衣時間の労働時間性が認められた裁判例が掲載されていました。神戸地判令5.12.22労働経済判例速報2546-16 労働判例ジャーナル147-28 日本郵便事件です。

2.日本郵便事件

 本件で被告になったのは、郵便業務等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、被告の従業員複数名です。被告から着用を義務付けられていた制服の更衣に要する時間が労働基準法樹の労働時間であるとして、割増賃金相当額の支払を求めて提訴したのが本件です。

 本件では更衣時間の労働時間性が争点になりましたが、裁判所は、次のとおり述べて、これを肯定しました。

(裁判所の判断)

「被告では、正社員に適用される『社員就業規則』において、『社員は、制服を貸与され、又は使用することとされている場合には、特に許可があったときを除き、勤務中これを着用しなければならない。』と定められている(36条)ところ、期間雇用社員、アソシエイト社員及び高齢再雇用社員に適用される就業規則でも当該定めが準用されている。」

(中略)

原告従業員らについては、被告での就業に当たって制服を着用することが、就業規則上も、勤務実態としても、義務付けられていたことが認められる。

「次に、制服の更衣を各郵便局内の更衣室で行うべきことが被告によって義務付けられていたかについて検討を加える。」

(中略)

「P5郵便局、P6郵便局、P7郵便局、P8郵便局、P9郵便局、P10郵便局、P11郵便局、P12郵便局、P13郵便局及びP14郵便局には、いずれも更衣室が設置されている(乙5、弁論の全趣旨)。そして、上記・・・のとおり、このうち、P5郵便局、P7郵便局、P8郵便局、P9郵便局、P10郵便局、P11郵便局、P12郵便局及びP13郵便局においては、制服を着用して通勤していることが確認できるのは、調査対象者のうちのごく一部であり、これらの郵便局においては、ほとんどの従業員が、各郵便局内に設置された更衣室で更衣を行っているのが実態であるということができる。」

「また、被告が作成した『郵便業務のコンプライアンス指導教材(2016年1月期〔1〕)』・・・には、『2016年1月1日(金)~31日(日)の間に、対象者(=郵便業務を担当する部署に所属する社員及び総務部に所属し郵便業務に携わる社員)全員に対し、本研修教材を用いて指導してください。』との記載とともに、『勤務時間外のユニフォーム着用・ユニフォーム通勤の禁止』、『お客さまから見た「ユニフォームを着用している社員」は「勤務時間中である」と認識され、ユニフォームを着用したままの飲食店での飲酒等は会社のイメージ低下に繋がるため、勤務時間外のユニフォーム着用の禁止』、『ユニフォームに郵便物・現金等を隠して事務室から持ち出し、窃取等する犯罪を防止するため、ユニフォーム通勤の禁止』との記載があるところ、これらの記載は、被告として、ユニフォームを着用しての通勤を禁止していたということを窺わせるものである。」

「さらに、上記・・・の会計事務マニュアルにおいても、平成29年5月付けで改訂される前の会計事務マニュアルには、勤務時間外のユニフォーム着用の禁止が明示的に記載され、同月付けの改訂後においても、これを基本的には控えさせる旨が記載されているのであり、このような記載も、被告として、ユニフォームを着用しての通勤を禁止していたことを窺わせるものといえる。」

「他方、P5郵便局、P6郵便局、P7郵便局、P8郵便局、P9郵便局、P10郵便局、P11郵便局、P12郵便局、P13郵便局及びP14郵便局のそれぞれにおいて、ユニフォームを着用しての通勤が許されている旨が被告から各従業員に対して告知されたことはこれまでないことが認められる・・・。」

以上のとおり、被告がユニフォームを着用しての通勤を禁止していたことを窺わせる被告作成の資料があるほか、ほとんどの従業員が、各郵便局内に設置された更衣室で更衣を行っていたという実態がある一方で、被告からユニフォームを着用しての通勤が許される旨の告知がされたことはないのであるから、被告は、P5郵便局、P6郵便局、P7郵便局、P8郵便局、P9郵便局、P10郵便局、P11郵便局、P12郵便局、P13郵便局及びP14郵便局の各郵便局内の更衣室において、制服を更衣するよう義務付けていたものと認めるのが相当である(なお、上記イのとおり、P6郵便局においては制服通勤をしている従業員が多数存在しており、また、P14郵便局においては制服通勤の実態についての上記イに係る調査が実施されていないものであるが、P6郵便局及びP14郵便局において、制服通勤について、同じP4支社内の他の郵便局と異なる命令等がされていたというべき事情は認められないから、P6郵便局及びP14郵便局においても、上記のとおり、郵便局内の更衣室で制服を更衣するよう義務付けされていたものというべきである。)。」

(中略)

「したがって、被告は、原告従業員らに対し、制服の更衣を各郵便局内の更衣室で行うべきよう義務付けていたものと認められる。」

「以上によれば、原告従業員らは、被告から、制服を着用するよう義務付けられ、かつ、その更衣を事業所である各郵便局内の更衣室において行うものと義務付けられていたのであるから、制服の更衣に係る行為は、被告の指揮監督命令下に置かれたものと評価することができる。

「したがって、更衣に要する時間は、労働時間に該当すると認めるのが相当である。」

3.結構高いハードル

 以上のとおり、本件では制服への更衣時間に労働時間性が認められました。

 しかし、裁判所が言及している

制服を着用するように義務付けられていたこと、

かつ、

更衣を事業所の更衣室において行うものと義務付けられていたこと、

という立証のハードルは、それなりに高いように思われます。

 本件は、更衣時間の労働時間性について、立証のハードルを乗り越えることができた事案として、実務上参考になります。

 

主観的に性的関心に基づいていればセクハラ?-好意を持った部下の勤務中の横顔や後ろ姿を撮影することが不法行為に該当するとされた例

1.客観的に「性的な言動」といえるか疑義のあるタイプのハラスメント

 平成18年厚生労働省告示第615号「事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」【令和2年6月1日適用】は、

職場におけるセクシュアルハラスメント(セクハラ)を、

「職場において行われる性的な言動に対するその雇用する労働者の対応により当該労働者がその労働条件につき不利益を受け、又は当該性的な言動により当該労働者の就業環境が害されること」

と定義しています。

https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000605548.pdf

 このように、セクシュアルハラスメントは、「性的な言動」を対象行為として捕捉するものです。

 しかし、数多あるハラスメント行為の中には、

行為者の主観的に性的な関心や欲求に基づいている行為ではあるものの、客観的には性的羞恥心を害するわけではない

という態様のものもあります。

 それでは、こうした態様のハラスメントを不法行為として捕捉して行くことはできないのでしょうか?

 この問題を考えるうえで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。昨日もご紹介した、東京地判令5.5.29労働経済判例速報2546-3 A社事件です。

2.A社事件

 本件で被告になったのは、

写真用、産業用、理化学用フィルターの製造及び販売、映像用レンズの製造及び販売等を業とする株式会社(被告会社)

被告会社のコールセンター(本件部署)の部長(被告乙山)

の二名です。

 原告になったのは、本件部署で正社員として勤務していた方です。上司である被告乙山からセクハラを受け、PTSDを発病したなどと主張し、

被告乙山に対しては不法行為に基づいて、

被告会社に対しては使用者責任ないし債務不履行に基づいて、

損害賠償を請求したのが本件です。

 本件で問題となった行為は多岐に渡りますが、その中の一つに、次のような写真撮影行為がありました。

(裁判所で認定された事実)

被告乙山は、平成25年頃から平成27年春頃にかけて、月に1、2回、被告会社の事務室内の原告から2m以上離れた位置から、原告の横顔や後ろ姿を、原告には無断で、カメラや携帯電話で写真撮影するようになった。

(中略)

「E及びDは、・・・被告乙山と面談し、その様子を原告から預かったICレコーダーに録音した。被告乙山は、無断で原告の写真を撮影したこと及び本件タクシー内行為について認め、その理由として、原告に対して好意を持っており、原告も被告乙山に対して好意を持っていると思っていたなどと述べる一方、原告が被告乙山の言動に悩んでいることをなんとなく認識していた旨述べた。

 なお、本件タクシー内行為というのは、次のような行為のことです。

「送別会の終了後、原告は、帰宅するため被告乙山と二人でタクシーに乗った。被告乙山は原告の手や太ももを触り、原告から『やめてください』と制止された後も、原告の肩か腰あたりを抱き寄せるような動作をするなどした・・・。原告は、途中でタクシーを降車し、徒歩で帰宅した。」

 本件で被告乙山がした写真撮影は、それ自体、性的羞恥心を害するようなものではありませんでしたが、裁判所は、次のとおり述べて、不法行為の成立を認めました。

(裁判所の判断)

「無断での写真撮影行為及び携帯電話を無断で見た行為について検討するに、原告と被告乙山は、職場の上司部下の関係に過ぎないことに照らせば、これらの行為は原告に不快感を生じさせるものであるし、被告乙山が原告の携帯電話を無断で見た行為は原告のプライバシーを侵害するものといえる。」

「そして、無断での写真撮影行為については、被告乙山は、職場で勤務中の原告の横顔や後ろ姿を一定の距離をおいて撮影したものであって、撮影された写真自体は、原告の性的羞恥心を侵害するようなものである可能性は低いと考えられるものの、当該行為が被告乙山の原告に対する性的関心に基づくものであると認められることや(被告乙山は原告に対して恋愛感情を抱いていたと供述している・・・)、それが少なくとも約1年半の間に継続的にされたものであることをも考慮すれば、このような行為による原告の人格的利益への侵害の程度は、社会生活上の受忍限度を超えるものであり、不法行為を構成するものといえる。

3.性的関心に基づいた行動であることは受忍限度に影響する

 上述のとおり、裁判所は、写真撮影について、それ自体が性的羞恥心を侵害する可能性に消極的な判断を示したものの、性的関心に基づくものであることを指摘したうえ、受忍限度を超えているとして不法行為の成立を認めました。

 セクシュアルハラスメントという言葉こそ使っていませんが、それ自体が性的羞恥心を侵害するものではなかったとしても、性的な関心から受け手が不快に思うであろう行動をとることについて不法行為の成立を認めたことは、画期的なことではないかと思います。裁判所の判示は、セクシュアルハラスメントに悩んでいる人の救済を考えるにあたり、実務上参考になります。

 

好意を示す型のセクハラ-好意を伝えるメッセージ(「本当に好きだ花子」「ありがとう。好きだ♪」)が不法行為に該当するとされた例

1.セクシュアルハラスメント-好意を伝えるのもダメなのか?

 平成18年厚生労働省告示第615号「事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」【令和2年6月1日適用】は、

職場におけるセクシュアルハラスメント(セクハラ)を、

「職場において行われる性的な言動に対するその雇用する労働者の対応により当該労働者がその労働条件につき不利益を受け、又は当該性的な言動により当該労働者の就業環境が害されること」

と定義しています。

https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000605548.pdf

 セクハラには、

「職場において行われる性的な言動に対する労働者の対応により当該労働者がその労働条件につき不利益を受けるもの」(対価型セクシュアルハラスメント)

「当該性的な言動により労働者の就業環境が害されるもの」(環境型セクシュアルハラスメント)

二種類があります。

 いずれの類型に該当するものであるにせよ、ある行為が厚生労働省の定めるセクシュアルハラスメントの定義に該当するのか否かは、当該行為が損害賠償義務を発生させる民法上の不法行為としての違法性を有するのか否かを判断するにあたり実務上参考にされています。

 セクハラというと、上記指針で

「事務所内において事業主が労働者に対して性的な関係を要求したが、拒否されたため、当該労働者を解雇すること。」

「事務所内において上司が労働者の腰、胸等に度々触ったため、当該労働者が苦痛に感じてその就業意欲が低下していること。」

などが具体例として記述されていることからも分かるとおり、いわゆる「嫌がらせ」をイメージする方も少なくないと思います。

 それでは、好意を示すことはどのように理解されるのでしょうか? 興味のない相手から好意を示されることは迷惑であるには違いないでしょうが、いわゆる「嫌がらせ」とは違うようにも思われます。

 この好意を示すタイプの行動の不法行為該当性を判断するにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令5.5.29労働経済判例速報2546-3 A社事件です。

2.A社事件

 本件で被告になったのは、

写真用、産業用、理化学用フィルターの製造及び販売、映像用レンズの製造及び販売等を業とする株式会社(被告会社)

被告会社のコールセンター(本件部署)の部長(被告乙山)

の二名です。

 原告になったのは、本件部署で正社員として勤務していた方です。上司である被告乙山からセクハラを受け、PTSDを発病したなどと主張し、

被告乙山に対しては不法行為に基づいて、

被告会社に対しては使用者責任ないし債務不履行に基づいて、

損害賠償を請求したのが本件です。

 本件で問題となった行為は多岐に渡りますが、その中の一つに、次のような行為がありました。

(裁判所で認定された事実)

・本件タクシー内行為等について

「原告は、平成29年1月28日(土曜日)、秋葉原で行われた被告乙山の送別会に出席した。当該送別会は同年2月末日をもって被告乙山が退職予定であったことから、これに伴い、取引先である▲株式会社の担当者から、被告乙山を交えて懇親会(送別会)を開催したいとの働きかけがあり、これに原告や乙山が応じる形で実施されたものであった。本件送別会に参加した被告会社の関係者は、原告と被告乙山のみであった。」

「本件送別会は午後6時頃に始まり、午後10時頃に終了した。終了後、原告は、帰宅するため被告乙山と二人でタクシーに乗り、被告乙山は後部座席の運転手側に、原告は助手席側に、それぞれ座った。被告乙山は、タクシー内で原告の方に近付き、原告の手や太ももを触り始めた。原告が『やめてください』と制止した後も、原告におおいかぶさって肩か腰あたりに抱き付くような動作をした。原告は被告乙山の行為に耐えかねて、途中でタクシーを降り、徒歩で自宅に向かった。」

被告乙山は、同日午後10時55分、原告に対し、LINEで、『今日はありがとう』、『本当に好きだ花子』、『ありがとう。好きだ♪』という内容のメッセージを送った。

 タクシー内での行為がセクハラに該当するのは当たり前だと思いますが、興味深いのは、その後のメール送信行為です。

 裁判所は、次のとり述べて、これも不法行為に該当すると判示しました。

(裁判所の判断)

「まず、被告乙山がした本件タクシー内行為・・・は、同意なく原告の身体に触り、原告が拒否してからも、直ちにやめることをしなかったというものであって、かかる行為が原告の性的自由を侵害し、不快感を生ぜしめる行為として、不法行為を構成することは明らかである。そして、その直後に『本当に好きだ花子』等のメッセージを送った行為についても、原告が、本件タクシー内行為により精神的損害を被っていることを十分認識しえる状況において、本件タクシー内行為と接着した時間に、明らかに原告に対して好意や性的関心を示すようなメッセージを送信していることからすれば、本件タクシー内行為と一連の行為として、原告に対する精神的損害を与えるものであるから、不法行為を構成すると評価するのが相当である。

3.好意であることは責任を免れる理由にはならない

 どこからどう見てもセクハラであるタクシー内行為と一連の行為として評価されたものではありますが、裁判所は、好意を示すメッセージの送信行為にも、違法性(不法行為該当性)を認めました。

 この好意を示されるという類型のセクハラですが、法律相談実務上、それなりの頻度で目にします。好きでもない相手から好意を示され迷惑であるものの、職場が同じである関係もあり、無碍にすると相手が態度を豹変させないかが不安で、対応がストレスになっているといったようにです。

 今回、好意を示すメッセージの送信行為に違法性が認められたことは、こうした「好意を示されて迷惑」型のセクハラ事件に取り組むにあたり、参考になります。

 

一方的に資料を全従業員に周知させても、書かれている内容は労働契約の内容にはならないとされた例

1.会社で作成される様々な社内文書

 会社では様々な内規が作成され、従業員に周知されています。それは、必ずしも就業規則の形には限られません。

 それでは、このような内規類、内規的な文書は、労働契約の内容となり、労働者を法的に拘束する効力を持つのでしょうか?

 昨日ご紹介した、東京地判令5.6.9労働判例1306-42 日本HP事件は、この問題を考える上でも参考になります。

2.日本HP事件

 本件で被告になったのは、パソコンの製造販売及びプリンターの製造販売等を業とする株式会社です。

 原告になったのは、被告との間で期間の定めのない労働契約を締結し、A事業部のマーケティングマネージャーとして働いていた方です。管理職から非管理職への降格に伴う賃金減額の効力を争い、未払賃金等の支払を求める訴えを提起したのが本件です。

 被告はイントラネット上で公開している

「Base Pay」(本件資料1)

「Job Change 時給与変更ガイド」(本件資料2)

「知っ得! よく分かる人事制度!」(本件資料3)

に基づいて本件降格を有効に行うことができると主張しました。本件資料1ないし3の内容は就業規則の一部を構成しているか、仮に形式的に就業規則そのものに該当しないとしても社員給与規程等の細則として労働契約の内容になっているという趣旨です。

 裁判所は、本件資料1〜3が就業規則であることを否定したうえ、次のとおり述べて、合意に基づいて労働契約の内容になっていることも否定しました。

(裁判所の判断)

「被告は、本件資料1ないし3が全従業員に周知され、被告の従業員や労働組合からも指摘を受けたことがなかったから、労働契約の内容になっている旨主張する。しかしながら、本件資料1ないし3は、職務及び職務レベルの変更に伴う具体的な賃金の増減について定めるものであり、その内容も基本給の増減にとどまらず、残業代としてのみなし手当の支払の有無についても定めるものであり、従業員に与える影響が大きいものであることからすれば、本件資料1ないし3の内容を被告が従業員に周知し、これらについて従業員や労働組合から指摘を受けたことがなかったとしても、そのことをもって、本件資料1ないし3の内容を労働契約の内容とする旨の合意が、原告を含む従業員と被告との間に成立したと認めることはできない。」

3.異議を述べなければ合意したことになるわけではない

 以上のとおり、裁判所は、本件資料1〜3が労働契約の内容になることを否定しました。

 就業規則でない社内規則は、周知され、異議を指摘してこなかったとしても、当然の如く、それに拘束されることはありません。

 本件は、従業員が必ずしも既成事実に縛られないことを示した裁判例として、実務上参考になります。