弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

地方自治体は職員が記者など一般市民に対してセクシュアルハラスメントに及ぶことを防止すべき注意義務を負うのか?

1.一般市民に対するセクシュアルハラスメントの防止義務

 平成18年厚生労働省告示第615号「事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針【令和2年6月1日適用】は、

事業主は、職場におけるセクシュアルハラスメントを行ってはならないことその他職場におけるセクシュアルハラスメントに起因する問題・・・に対するその雇用する労働者の関心と理解を深めるとともに、当該労働者が他の労働者(他の事業主が雇用する労働者及び求職者を含む・・・)に対する言動に必要な注意を払うよう、研修の実施その他の必要な配慮をするほか、国の講ずる同条第1項の広報活動、啓発活動その他の措置に協力するように努めなければならない。」

と規定しています。

 つまり、事業主には、自分の雇用する労働者が、他の労働者に対してセクシュアルハラスメントに及ばないよう、必要な配慮をして行く義務があります。

 それでは、このような配慮義務の対象は、労働者(取引先の労働者や求職者を含む)に限定されるのでしょうか? より広く、一般市民に対してセクシュアルハラスメントに及ばないよう配慮して行く注意義務があるということはできないのでしょうか?

 この問題を考えるうえで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。長崎地判令4.5.30労働判例ジャーナル126-10 長崎市事件です。

2.長崎市事件

 本件で被告になったのは、長崎市です。

 原告になったのは、B社(本件会社)のa支局で記者として勤務していた方です。被告の原爆被爆対策部長(C 後に自殺)から取材対応に関して性的暴行を受けたところ、被告が性的暴行を防止する義務を怠ったなどと主張して、損害賠償を請求する訴えを提起したのが本件です。

 本件の原告が試みた法律構成の一つに、

「職員が一般市民を含む女性に対してセクシュアルハラスメント・・・を起こさないよう周知徹底し防止すべき注意義務・・・を負っていたにもかかわらず、これを怠った。」

という主張がありました。

 これは、男女共同参画推進法を基に定められた長崎市男女共同参画推進条例(本件条例)の

「市長は、性別による差別的取扱い、セクシュアル・ハラスメント、ドメスティックバイオレンスその他の男女共同参画を阻害する要因による人権の侵害に関し、市民又は事業者から相談があった場合には、関係機関又は関係団体と連携し、適切に処理するものとする。」(11条1項)

「何人も、職場、学校、地域、家庭その他の社会のあらゆる分野において、性別による差別的取扱いをしてはならない。」(18条1項)

「何人も、職場、学校、地域、家庭その他の社会のあらゆる分野において、セクシュアル・ハラスメントを行つてはならない。」(18条2項)

といった規定を根拠とするものでした。

 本件では長崎県にこうした注意義務への違反が認められるのかどうかが問題になりましたが、裁判所は、次のとおり述べて、これを否定しました。

(裁判所の判断)

原告は、前記・・・のとおり、被告が、本件条例の制定者として、職員が一般市民を含む女性に対してセクハラを起こさないよう周知徹底し防止すべき義務を負う旨主張し、一般論として、被告が同義務を負うことは争いがない。

「もっとも、男女共同参画法は、男女共同参画社会の形成に関する基本理念を定め、国、地方公共団体等の責務を明らかにするとともに、施策の基本事項を定めることにより、男女共同参画社会の形成を推進することを目的としたものであり(1条)、これを受けて制定された本件条例の関係規定も、被告ないしその機関である市長に対し、一般的義務として適切な処理をすべきこと(11条1項)などを規定したものであり、これにより、直ちに不法行為法上の注意義務を形成するものとはいえない。

「そして、被告は、本件事件当時、セクハラ防止等のための職員研修を行い、市内部の相談員等による相談体制等を整備するなど、職員によるセクハラの防止について一定の措置を講じていたことが認められる・・・ところ、本件事件の発生前に、C部長と原告との間に、その発生を予見し得るような具体的事情が存在し、これを被告が認識し得たことを認めるに足りる証拠はないから、被告が、上記の措置を超えて、本件事件の発生を防止するために具体的措置を講ずべき、不法行為法上の注意義務を負っていたとは認められない。

「この点、原告は、当時、長崎県内外において女性記者に対する性的暴行事件(甲18等)が問題となっていた旨指摘するが、女性記者に対する一般的状況を指摘するにとどまり、本件事件発生を予見し得る具体的事情ということはできないから、被告の講じていた上記措置で施策として十分であったか否かはさておき、不法行為法上の注意義務を基礎付けるものとはいえず、上記判断を左右するものとはいえない。

「したがって、原告の主張を採用することはできず、この点について、被告に国賠法1条1項の責任原因があるとは認められない。」

3.不法行為法上の注意義務であることは否定されたが・・・

 被告が義務の存在を争わなかったこともあり、具体的状況との関係で不法行為法上の注意義務であることは否定されましたが、本件では、長崎県が「本件条例の制定者として、職員が一般市民を含む女性に対してセクハラを起こさないよう周知徹底し防止すべき義務を負う」ことが所与の前提として議論が進められました。

 このような義務を措定する意義は、ハラスメント加害者に不法行為の成立要件が具備されていることを立証することが困難な場合に見出すことができます。加害者が特定でき、不法行為の成立要件が具体的に立証可能である場合には、そのことを理由に国家賠償法の適用を主張すれば事足ります。しかし、何等かの理由でそれが困難である場合、こうした義務との関係で国家賠償請求を行うルートが開けることになります。

 本件では公務員Cの責任原因が認められ、そのルートで国家賠償責任の適用がなされているため、県自身の注意義務違反の有無を議論する実益がそれほどあったわけではありませんが、原告の主張するような注意義務が存在し得ることは、覚えておいて損はないように思われます。

 

一部期間(約7か月)のパソコンの起動時間から、他の期間(約14か月)の労働時間の推計まで認められた例

1.パソコンの起動時間による労働時間の立証

 タイムカード等による労働時間管理が行われていない会社であったとしても、時間外労働を行っていた事実さえ立証できれば、時間外勤務手当等を請求することは可能です。

 こうした会社で時間外労働の事実を立証するため、パソコンのログイン・ログオフ記録や、携帯電話のGPSによる在社時間記録を利用することがあります。

 しかし、パソコンの起動時刻にせよ、GPS記録にせよ、古い記録は残っておらず、残業代(時間外勤務手当)請求の対象期間の一部でしか入手できないことが少なくありません。

 それでは、この客観証拠のある一部期間の記録を分析することによって、客観証拠のない残部期間の労働時間を推計することは許されるのでしょうか? 一部期間が残部期間よりもかなり少ない場合であっても、推計は認められるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。昨日もご紹介した、大阪地判令令4.4.28労働判例ジャーナル126-22 辻中事件です。

2.辻中事件

 本件は、いわゆる残業代請求事件です。

 本件で被告になったのは、住宅設備機器の販売、設置、ガス工事の設計施工等を業とする株式会社です。賃金は、毎月15日締め、当月25日払いとされていました。

 原告になったのは、被告との間で雇用契約を締結し(本件雇用契約)、総務部長として勤務していた方です。被告を退職した後、時間外勤務手当(残業代)を請求して被告を提訴したのが本件です。

 本件で残業代請求の対象期間とされたのは、平成30年4月から令和2年3月でした。原告の方は、パソコンのログイン・ログアウト記録(本件PC記録)に基づいて労働時間立証を試みましたが、本件PC記録は令和元年8月23日以降の分(約7か月分)しか存在しませんでした。そのため、本件PC記録のない日に関しては、実労働時間を本件PC記録の平均起動時間・シャットダウン時間で特定していました。

 このように本件では、記録のない期間(約17か月)が記録のある期間(約7か月)に比して圧倒的に長いため、後者の記録から前者の労働時間を推計することができるのかが気になったのですが、裁判所は、次のとおり述べて、これを認めました。

(裁判所の判断)

「原告は、被告に雇用されて就労していたものであるが、被告は原告の労働時間をタイムカード等の方法によって管理しておらず、これによることができない。そこで、始業及び終業時刻については、原告の使用していたパソコンの起動及びシャットダウンの時間の他、客観的資料はないから、これらは本件PC記録に基づいて認定するのが相当である。ただし、始業が0時台又は12時台となる日や、終業が12時代又は23時台となる日については、本件PC記録が、実際の始業及び終業時間を反映しているとは考えられないため、これらの日は、これらの日を除いた後記平均時刻とすべきである。また、出勤の有無については、令和元年5月20日は別個の検討を要するものの・・・、出勤簿・・・によるのが相当である。」

そして、本件PC記録は令和元年8月23日以降しか存在しないが・・・、同日の前後で就労状況に変動があったことはうかがわれないから、同日より前については、勤務した日の本件PC記録における平均の起動時間(8時15分)を始業時刻とし、平均のシャットダウン時刻(19時37分)を終業時刻とするのが相当である(平均時間の算出につき、別紙2『本件PC記録シート』参照)。

3.一部分でも客観証拠があれば、残部分の方が長くても推計が認められることがある

 推計というと、大部分について立証できている状況のもと、証拠の薄い一部期間についてのみ推測を働かせることをイメージする方がいるかも知れません。

 しかし、短い期間であったとしても客観証拠を揃えることができれば、就労状況の変動がなかった事実との合わせ技を使うことにより、客観証拠のない期間の労働時間の推計が認められることがあります。

 本件のような裁判例もあるため、残業代請求をお考えの方は「一部分しか資料がないから・・・」などと早合点しないことが大切です。

 

調書への記載を求める時は文言まで明確に特定すること(裁判所を信頼しすぎるのは危険)

1.口頭弁論調書等への記載

 民事訴訟法160条は、

「裁判所書記官は、口頭弁論について、期日ごとに調書を作成しなければならない。」

と規定しています(口頭弁論調書)。

 口頭弁論調書の実質的記載事項は民事訴訟規則で定められており、弁論の要領のほか、

「裁判長が記載を命じた事項及び当事者の請求により記載を許した事項」

を記載するとされています(民事訴訟規則67条)。

 これと同様に、弁論準備手続や書面による準備手続でも、期日ごとに調書が作成されます(民事訴訟規則88条、91条4項参照)。

2.調書への記載の請求

 この調書への記載請求は、民事訴訟実務上、重要な意味を持っています。

 例えば、残業代請求訴訟いおけるサンプル方式です。

 サンプル方式とは

「当事者間において請求の全期間にわたって労働時間性が争われており、膨大な主張立証を必要としかねない場合に、一定の時期をサンプルとして抽出し、当該時期の主張立証を尽くし、残余の期間についてはサンプル期間の立証結果によって推認する方式」

をいいます(佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務Ⅰ』〔青林書院、改訂版、令3〕173頁参照)。

 サンプル方式による立証では、往々にして卓袱台を引っ繰り返すことが行われます。

 例えば、労働者側でサンプル方式を求めたとします。使用者側も一旦はこれに同意したとします。しかし、サンプル期間による立証結果が使用者側にとって望ましくなかった場合、使用者側から前言を翻され「全期間について労働時間の立証が必要だ」と言われることがあります。

 このような卓袱台返しは、サンプル方式が合意できた時点で、きちんと調書記載を請求し、予め裁判所に調書記載してもらっていれば、防ぐことができます。前掲『類型別 労働関係訴訟の実務Ⅰ』173頁に、

「どの期間をサンプルとするか・・・抽出した結果をどのように用いるかについて、裁判所及び当事者の三者が十分に議論して認識を共有することが不可欠である。了解事項については、期日調書上明らかにしておくことが少なくない。

と書かれているのも、その趣旨だと思われます。

3.調書に記載される文言をコントロールすること

 このように調書への記載を請求することの重要性は一般に知られています。

 しかし、実務的な視点でいうと、調書への記載を請求するだけでは十分ではありません。調書への記載を請求するにあたっては、どのような文言で記載するのかまで特定して請求する必要があります。

 近時公刊された判例集にも、そのことが分かる裁判例が掲載されていました。大阪地判令令4.4.28労働判例ジャーナル126-22 辻中事件です。

4.辻中事件

 本件で被告になったのは、住宅設備機器の販売、設置、ガス工事の設計施工等を業とする株式会社です。

 原告になったのは、被告との間で雇用契約を締結し(本件雇用契約)、総務部長として勤務していた方です。被告を退職した後、時間外勤務手当(残業代)を請求して被告を提訴したのが本件です。

 この事件の特徴の一つは、実労働時間が争点になりながら、自白の成否が問題になったことです。本件訴訟の第2回弁論準備手続調書には、当時者双方の陳述として、

「本件では始業時間が8時、就業時間が20時という点に争いはなく、休憩時間が争点となる。」

と記載されていました。

 この記載を根拠に、原告は、始業時間を8時、終業時間を20時とする旨の裁判上の自白が成立したと主張しました。自白とは相手方の主張と一致する自己に不利な事実の陳述をいいます。簡単に言えば、当事者双方の認識が一致している事実のことです。自白が成立した事実は、立証が不要になります(民事訴訟法179条)。原告の主張の論旨は、

始業時間を8時、終業時間を20時とする裁判上の自白が成立している、

よって、始業時間8時、終業時間20時は立証する必要がなくなった、

というものです。

 しかし、被告は自白の成立を争いました。

 具体的には、

「被告代理人は、本件期日において、原告と被告との間で8時から20時までを所定労働時間とする旨の合意があったとの準備書面を陳述した。これは、1日8時間を超える労働義務を原告に対して課すことができない点では無効であるが、このような時間の労働に対して給与を支払っていたという点で、基礎賃金の時間単価の計算には意味があるというものである。同期日において、裁判官から、口頭で始業時間と終業時間を質問されたので、被告訴訟代理人は『午前8時を始業時間とし午後8時を終業時間とする旨の合意が当事者間に存在した』旨を回答した。これは所定労働時間に関する陳述である。」

と主張しました。

 裁判所は、次のとおり述べて、自白の成立を否定しました。

(裁判所の判断)

「原告は、被告訴訟代理人が、所定の始業及び終業時間が午前8時から午後8時である旨の主張をしたことから、本件期日において、裁判官が被告訴訟代理人に対し、原告が実際に当該時間、就労したのかを尋ねたところ、被告訴訟代理人はこれを肯定したため、原告訴訟代理人が自白を援用してこれを前提とする訴えの追加的変更を申し立てる旨を述べたところ、被告訴訟代理人はそれでも構わない旨を述べ、裁判官が弁論準備手続調書に記載する旨を述べたが、被告訴訟代理人はこれに異議を述べなかったものであり、実労働時間の開始が8時であり、終了が20時であることに訴訟上の自白が成立している旨を主張する。」

「そこで検討すると、本件期日の調書には『本件では始業時間が8時、終業時間が20時という点に争いはな』いとの記載があるが、ここでいう『始業時間』及び『終業時間』が、実労働の開始及び終了の時刻を指すのか、本件雇用契約における約定の始業時刻及び終業時刻を指すのかは、その文言から一義的に特定できるものとはいえない。

「そして、被告訴訟代理人が本件期日において陳述した本件準備書面には、所定労働時間としては8時から20時までであった旨の記載があるものの、実労働時間が8時から20時までであった旨の記載はなく、別紙においては、実労働時間について本件PC記録に基づいた試算がされていた・・・。このような経過に照らすと、被告訴訟代理人が、同期日において、直前に提出した準備書面の内容と相反する不利益な事実関係を認める陳述をしたとは考え難い。」

「また、仮に原告の主張するような明確なやり取りがあったとすれば、本件期日の調書に、次回までの準備事項として、原告の陳述として、被告による自白の成立を前提とした訴え変更をする旨の記載がされるのが自然と考えられるところ、このような記載もない。

「以上によれば、被告代理人が、本件期日において、すべての就労日について、始業時間が8時、終業時間が20時である旨を陳述したとは認められず、訴訟上の自白が成立したとは認められない(なお、原告は、本件期日の担当裁判官の証人尋問を申請しているが、本件期日の状況に関しては前記のとおり同期日で陳述された本件準備書面や本件期日の調書といった証拠が存する中、口頭弁論終結時から1年以上前の一期日における各訴訟代理人の発言の具体的な文言を、記憶によって供述することには限界があり、供述に基づいてこれを認定することは困難であると考えられるため、証拠調べの必要性を欠くものと判断した。)。

5.調書への記載を求める時の留意点

 本件には二つの教訓があります。

 一つは、調書に記載される文言を裁判所任せにしてはならないということです。

 多義的に理解できる文言で記載されても、趣旨が違うとして逃げられてしまいます。

 また、記載内容が不十分だと、欠落(本来あってよい記載が欠落していること)が指摘され、意図したとおりの意義を認めてくれないことがあります。

 もう一つは、裁判官に同僚裁判官を証人として呼び出してもらうハードルが高いことです。

 裁判所は証拠調べの必要性を否定しましたが、裁判所、裁判官の面前で行われた期日における自白の成否が問題となっているのですから、該当の裁判官を証人として取り調べる必要性があることは明らかです。また、単に思い出せと言っているわけではなく、調書の現物を示し、文言を閲読させたうえで記載の趣旨がどうだったのかを聞くわけですから、記憶によって供述することがそれほど困難であるとも思われません。少なくとも記憶喚起できないかどうかを試みる必要性は否定できないはずで、呼ぶまでもなく証拠調べの必要性を欠くという判断には相当な無理があります。実際の裁判には判決文に表れない事情もあるため軽々なことは言えないにせよ、同僚の裁判官を証人として尋問したくないという結論が先にあったのではないかと勘繰りたくなります。

 いざという時に裁判官の証人尋問の実施が難しいことを考えると、やはり当事者法曹としては、調書に記載を求める際に、その文言を裁判所任せにしないことが重要なのだと思います。そもそも記載請求が認められるか/請求時に記載する文言を特定したとしてその通りに裁判所が記載してくれるかという問題はありますが(本件も原告側の特定した文言を裁判所が容認してくれなかった可能性はあると思います)、調書への記載請求を行う際には、記載すべき文言の特定にまで踏み込んで意見を述べる必要があります。裁判所だからといって信頼しすぎないことが大切です。

 

教授の自由-大学教授の講義内容や方法に対する干渉が違法であるとされた例

1.大学教授の就労請求権

 一般論として、労働者には特定の仕事をさせるように請求する権利(就労請求権)までが認められているわけではありません(東京高決昭33.8.2判例タイムズ83-74参照)。

 しかし、これには幾つかの例外があります。その一つが大学教授です。大学教授には就労請求権が認められやすい傾向にあります(第二東京弁護士会労働問題検討委員会『2018年 労働事件ハンドブック』〔労働開発研究会、第1版、平30〕10頁参照)。

 この大学教授の就労請求権に関し、以前、授業担当を外すことが違法とされた例をご紹介させて頂きました。

大学教授の授業担当外しが違法とされた例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

 それでは、授業担当を外すまでには至らない介入、具体的には、講義内容や方法に対して干渉を行うことが違法だとされることはあるのでしょうか?

 この問題を考えるうえで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。高松高判令4.4.7労働判例ジャーナル126-44 国立大学法人徳島大学事件です。

2.国立大学法人徳島大学事件

 本件で被告(被控訴人)になったのは、徳島大学を設置・運営する国立大学法人です。

 原告(控訴人)になったのは、徳島大学社会産業理工学研究部(本件研究部)の教授を務めていた方です。この方は、英語の教科書を使用し、英語で授業を実施するという指導・教育方針のもと、発変電工学の講義(本件講義)を担当していました。

 これに対し、本件研究部の教授D(補助参加人D)外4名は、英語で授業が行われていることが問題であるとして、学生に対して緊急アンケートを実施しました(本件緊急アンケート)。この緊急アンケートの実施等が教授の自由を違法に侵害するものであるとして、原告の方が損害賠償(慰謝料等)を請求する訴訟を提起したのが本件です。

 原審は原告の請求を棄却しましたが、本件控訴審は、次のとおり述べて、本件緊急アンケートの違法性を認めました。

(裁判所の判断)

「憲法23条に規定される学問の自由は、学問的研究の自由とその研究結果の発表の自由とを含むものであるところ、大学が学術の中心として深く真理を探求することを本質とすることに鑑みて、特に大学におけるそれらの自由を保障することを趣旨としている。教育ないし教授の自由は必ずしもこれに含まれるものではないが、大学については、上記憲法の趣旨と、大学が学術の中心として広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究することを目的としていることに基づいて、大学において教授その他の研究者が、講義又は演習の場においてその専門の研究の結果を教授する自由が保障されている(最高裁判所昭和38年5月22日大法廷判決・刑集17巻4号370頁参照)。そうすると、大学において、いかなる教材等を用い、いかなる学生をいかに講義(教授)するかは、その担い手である研究教育者の自由な判断に委ねられ、そのような講義の内容ないし方法について、みだりに介入ないし干渉することは許されないというべきである。」

「他方、大学における学問の自由を保障するために大学の自治が認められるところ、これには、大学にはその自主的判断に基づいて、教授その他の研究者の人事等を行うことや大学における研究教育内容及び方法が自主的に決定されることなどが含まれる。そして、学校教育法は、大学に教授会を置くことを規定し、学長が学生を入学させたり、学生に学位を授与したり、教育研究に関する重要な事項で、教授会の意見を聞くことが必要なものとして学長が定めるものについて意見を述べることができる旨定め、その他教育研究に関する事項について審議することができると定めている(学校教育法93条1項、2項)。徳島大学においても、証拠・・・によれば、その徳島大学学則11条2項及び徳島大学大学院学則32条2項において、各学部及び大学院各研究部等に教授会を置くものとし、これに基づき定められた徳島大学教授会通則において、教授会の審議事項等として、〔1〕学生の入学、卒業及び課程の修了、〔2〕学位の授与に関する事項、〔3〕上記のほか、教育研究に関する重要な事項で、教授会の意見を聞くことが必要なものとして学長が別に定めるものが掲げられ、それらのほか、学長及び学部等の長がつかさどる教育研究に関する事項について審議し、学長等の求めに応じ、意見を述べることができると定められていることが認められる。」

「そうすると、大学全体における研究教育の内容及び方法の決定は、実質的にある程度教授会に委ねられていると解され、教授会が有している権限と教員の有する教授の自由との間に対立緊張関係が生じる場合はあり得るところ、大学においても、学問を行うとともに教育を受ける学生側の立場や利益も十分に考慮されるべきであることからすれば、講義内容及び方法に関する教員側の自由についても、その観点から一定の制約が存在することはあるものの、前記のような教授の自由の権利性を考慮すると、教授会の権限も無制限に認められるわけではなく、講義の内容及び方法について、研究教育者として当然遵守することが要求される基準に違反するような場合を除き、介入ないし干渉することは、特段の事情のない限り、教員の教授の自由を侵害するものとして違法になるものというべきである。

(中略)

「前記認定事実によれば、本件緊急アンケートは、本件委員会の委員長ないし委員である補助参加人Dら5名が、本件委員会の名義で、本件講義の受講者減少の原因が、英語で講義を実施していることにあるとの推測の下に、これを認めようとしない控訴人にその認識を改めさせて、英語の講義を止めさせるため、本件講義のみについて、上記推測のとおりの結論が出るような質問項目を設定し、本件コースの3年生及び4年生全員を対象として行ったものであり、その質問項目には、英語による講義の当否(本件質問事項〔5〕)に加え、控訴人の担当教員としての適格性(本件質問事項〔6〕)をも問う趣旨のものが含まれていたことが認められる。」

(中略)

「前記認定事実によれば、本件緊急アンケートを実施した補助参加人Dら5名のうち、Eは本件コースのコース長、Fは本件コースの副コース長、Gは本件コースに改編前の工学部電気電子工学科の学科長、補助参加人Dは本件人事委員会の委員長を務めていたことが認められ、このように本件コースにおいて要職を占める者らが、控訴人に対して本件講義の内容及び方法の変更を迫る内容の本件緊急アンケートを実施することは、控訴人の心理面に与える影響は大きく、控訴人による本件講義の内容及び方法に対して強く介入・干渉するものといえる。」

「しかも、前記認定の本件緊急アンケートの対象者及び質問項目等からすれば、本件緊急アンケートは、これを実施すること自体によって、控訴人による本件講義の内容及び方法(英語の教科書を使用し、英語で講義を実施すること)が不適切であり、さらには控訴人が本件講義の担当教員として不適格であるとの印象を広く流布し、ひいては、控訴人に対し、本件講義の内容及び方法の変更を迫る不適切なものであって、本件講義の内容及び方法に対して不当に干渉ないし介入するものといえる。」

「被控訴人及び補助参加人らは、本件緊急アンケートは、教授言語の選択という、教授の自由にとって中核的ではない要素を問題にするものである上、特定の教育内容・方法を禁止ないし強制するような権力的介入ではなく、ただ学生らの意見を聴取するにとどまるものである旨主張する。」

「しかしながら、前記のとおり、控訴人が本件講義において英語で授業を行っていたことは、徳島大学が本件機能強化プラン及び本件改革プランにおいて示した方針に沿うものでもあったことを考慮すると、それが、控訴人の教授の自由にとって中核的でない要素であるということは相当でない。また、本件緊急アンケートが、本件講義の内容ないし方法に合理的な理由もなく介入ないし干渉するものであると評価すべきことは、前記説示のとおりである。」

「以上からすると、本件緊急アンケート実施の態様は不当であるというべきである。」

「以上によれば、本件緊急アンケートは、控訴人による本件講義の内容及び方法に対して介入ないし干渉するものであるところ、本件委員会内部の手続においても瑕疵があること、その目的が正当とはいえないこと、その態様が不適切であって、介入ないし干渉の程度が強く、不当であることからすると、本件行為〔2〕は、講義の内容及び方法に対する介入ないし干渉を許容することのできる特段の事情があるとはいえず、控訴人の教授の自由、ひいては控訴人の人格権を侵害するものとして、国賠法1条1項上、違法というべきである。」

3.違法になる範囲は案外広い?

 この裁判例で目を引かれるのは、大学教授の講義内容や方法に対する干渉が違法となる範囲の広さです。高松高裁は、

「講義の内容及び方法について、研究教育者として当然遵守することが要求される基準に違反するような場合を除き、介入ないし干渉することは、特段の事情のない限り、教員の教授の自由を侵害するものとして違法になる」

と講義の内容及び方法に対する介入や干渉を原則違法とする考え方を採用しています。

 この裁判例は、大学当局による講義内容への不当な干渉を排除するうえでの重要な先例として位置付けられます。

 

ハラスメント事案において使用者による債務不存在確認訴訟の活用が否定された例

1.債務不存在確認訴訟の攻撃性

 債務不存在確認訴訟という訴訟類型があります。これは義務者とされている人の側から、権利を主張している人に対し、自分に義務(債務)がないことの確認を求める訴訟をいいます。

 通常、訴訟は権利を主張する側が、義務を履行して欲しい相手方を訴えることで始まります(給付訴訟)。しかし、義務があると言われている側にも、いつまでも紛争が解決しない状態から抜け出すため、義務(債務)が存在しないことの確認を求めて裁判所に出訴することが認められています。

 実務上、この債務不存在確認訴訟には、攻撃的な性格があると言われています。攻撃性があるというのは、主張立証責任の所在と関係します。債務不存在確認訴訟は、主張立証責任の所在を変更させるわけではありません。つまり、通常の給付訴訟であろうが、債務不存在確認訴訟であろうが、権利の存在を根拠付ける事実は権利者の側で主張立証して行く必要があります。

 通常の給付訴訟の場合、権利者は、予め証拠を収集し、どのような事実を主張するのかを吟味検討したうえで、訴訟を提起します。しかし、債務不存在確認訴訟の場合、権利者の側に何時訴訟を提起するのかを主導権があるわけではありません。いきなり義務者の側に訴えられ、準備未了のタイミングであったとしても、否応なく権利の存在を根拠付ける事実の主張立証を強いられることになります。そうしないと、権利の存在が認められないとして、敗訴してしまう(債務不存在確認請求が認容されてしまう)からです。これが債務不存在確認訴訟に攻撃性があると言われる理由です。

 近時公刊された判例集に、使用者側がハラスメント事案で労働者を被告として債務不存在確認訴訟を提起することを否定した裁判例が掲載されていました。横浜地相模原支判令4.2.10労働判例1268-68 ユーコーコミュニティー従業員事件です。攻撃的に提起された債務不存在確認訴訟に対抗するにあたり参考になるため、ご紹介させて頂きます。

2.ユーコーコミュニティー従業員事件

 本件で被告になったのは、原告の従業員の方です。

 原告になったのは、建築リフォーム等を業とする株式会社です。被告は原告の従業員からマタニティハラスメントやパワーハラスメント(パワハラ等)を受けたことを理由に謝罪文等を要求しているが、パワハラ等は存在しないとして、損害賠償債務や謝罪文の交付義務が存在しないことの確認を求めて提訴したのが本件です。

 これに対し、本件の被告は、権利の存在を主張立証するのではなく、原告の訴えは請求が特定されていないから不適法却下されるべきだという争い方をしました。

 裁判所は、次のとおり述べて、被告の主張を容れ、原告の訴えを不適法却下しました。

(裁判所の判断)

「訴訟においては、その審理判断の対象が明確になるよう、請求の特定を要する(民事訴訟法133条2項、民事訴訟規則53条1項)。本件は債務不存在確認請求訴訟であるところ、確認の訴えは権利関係の存否自体が訴訟物であるから、対象となる権利が債権(債務)である場合、原告は、請求の趣旨において、権利の主体、目的物及び権利の種類に加え、その発生原因事実を明記し、他の債務から識別して、その存否が確認しうる程度に特定の上で請求することを要すると解される。

「本件は、原告が、原告の従業員による被告に対するパワハラ等(不法行為)は存在しないとして、原告の被告に対する上記パワハラ等にかかる安全配慮義務違反による債務不履行、使用者責任又は会社法350条に基づく損害賠償債務及び謝罪文の交付義務が存在しないことの確認を求めるという事案である。」

パワハラ等が不法行為に該当するか否かは、行われた日時場所、行為態様や行為者の職業上の地位、年齢、行為者と被害を訴えている者が担当する各職務の内容や性質、両者のそれまでの関係性等を請求原因事実として主張して当該行為を特定し、行為の存否やその違法性の有無等を検討することにより判断されることとなる。

「原告は、『原告の被告に対する別紙発言目録記載の発言を理由とする損害賠償債務が存在しないこと』の確認を求めるが(請求の趣旨1)、別紙発言目録を見るに、発言時期、発言者、発言内容を記載しているようではあるものの、発言時期については、令和元年4月と記載されているのみで、日時の記載はない。全く同じ発言内容であっても、日にち等が異なるという場合、それぞれ別の行為として不法行為(パワハラ等)該当性の判断をすることとなる。また、同目録には、発言者の氏名と発言内容が記載されているのみで、職務内容や地位、行為の態様等は全く不明である。

「以上のとおり、請求の趣旨1については、他の債務から識別して、その存否が確認しうる程度に特定がされていると認めることは困難と言わざるを得ない。

「次に、原告は、『原告の被告に対する平成27年4月から平成30年4月までの間に行われた訴外Aによる優越的な関係を背景とする業務上必要かつ相当な範囲を超えた言動による損害賠償債務が存在しないこと』の確認を求めるが(請求の趣旨2)、3年にも及ぶ期間を特定するのみで年月日の特定はなく、具体的な言動の特定も、優越的な関係についての具体的な記載もないから、請求の趣旨1にも増して、その存否や不法行為(パワハラ等)該当性をいかに審理判断すればよいのか不明と言わざるを得ない。

「以上のとおり、請求の趣旨2については、他の債務から識別して、その存否が確認しうる程度に特定がされていると認めることは、およそできない。

「さらに、原告は、『原告の被告に対する別紙発言目録記載の発言を理由とする謝罪文を交付する義務が存在しないこと』の確認を求めるが(請求の趣旨3)、上記・・・で述べたとおり、別紙発言目録記載の内容では行為の特定が不十分であり、謝罪文の前提となる行為が不明と言わざるを得ないから、請求の趣旨3についても、他の債務から識別して、その存否が確認しうる程度に特定がされていると認めることはできない。

「なお、原告は、債務不存在確認請求訴訟において審理対象とされた不法行為の存否の特定の程度は、不法行為の存在を主張する被告の主張の具体性との相関関係で決せられるもので、ある権利を主張する者の主張内容が曖昧であれば、これについて債務不存在確認請求という形で審理を求めた場合、特定性の要件は緩和されると主張する。」

「たしかに、債務不存在確認請求の訴えにおいて、権利を主張する者の主張内容によっては、その請求の趣旨の特定を細かく行い難くなること(例えば日時については年月日頃という以上に特定ができない等)はあると思われるが、だからといって、特定の程度が直ちに緩和されるわけではない。本件についてみれば、行為者の職業上の地位、年齢、行為者と被害を訴えている者(被告)が担当する各職務の内容や性質等を原告が特定して主張することは可能と解されるし、行為の日時・場所についても『月』までの特定ではなく『日』(最低でも何日頃)の特定をした上で社内でのことなのか社外でのことなのか等の特定は可能と解されるが、原告は、これらの特定をしないから、その請求は、やはり特定を欠く(他の債務から識別して、その存否が確認しうる程度の特定がない)と言わざるを得ない。」

「以上のとおりであるから、その余の点につき判断するまでもなく、原告の被告に対する本件訴えは、いずれも不適法であるから、いずれも却下することとして、主文のとおり判決する。」

3.行為の特定性が厳格に理解されたことは大きい

 ハラスメントの存否をめぐる損害賠償請求事件で労働者側が主張立証責任を果たして行くためには、権利侵害行為をどのように特定するのかが重要な意味を持ちます。

 もし、使用者側が対象行為を厳密に特定しないまま漠然とハラスメントに基づく損害賠償義務を負わないことの確認を請求できるとなると、労働者側は主張立証の対象が茫漠としたまま、準備不足の状態で主張立証責任を果たすことを求められかねず、審理の冒頭から劣勢の立場に追い込まれかねません。

 本裁判例は、こうした茫漠とした主張により、使用者が攻撃的に債務不存在確認訴訟を使うことを否定したものです。主張としての特定性に欠けるため不適法却下されるべきとの主張は、使用者から債務不存在確認訴訟を提起された時の対応として参考になります。

 

勤務先から未収金を支払えと言われたら・・・

1.未収金を支払え

 クラブホステスなどの一定の業種では、事業主から顧客に対する未収売掛金の支払の保証を求められることがあります。これの亜種というわけでもありませんが、使用者から未収金の支払いを求められる労働者は少なくありません。法律相談をしていると、一定の頻度で、会社から未収金の支払いを求められている/求められて支払うと約束してしまったがどうしたらいいのかという質問を受けます。

 求められているだけであれば、応じられないと断ればよいだけです。

 問題は、求められて拒み切れずに曖昧な返事をしてしまったり、支払うと約束してしまったりした場合です。このような場合、労働者は使用者からの未収金の請求に応じなければならないのでしょうか?

 近時公刊された判例集に、この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が掲載されていました。大阪地判令4.5.20労働判例ジャーナル126-16 千田事件です。

2.千田事件

 本件で被告になったのは、厨房用機会器具の製造・販売、厨房設備工事等を業とする株式会社です。

 原告になったのは、被告で定年まで勤めあげた後、嘱託社員として働いてきた方です。被告を退職したうえ、退職金の支払いを求めたところ、担当取引先に対する未収金が約1億9600万円あるとして退職金の支払いを拒まれました。未収金については原告が責任を持って回収することになっていた(未収金の回収が完了しなければ退職金を支払わない旨の合意が成立していた)というのが被告の主張の骨子です。こうした被告の対応を踏まえ、原告は退職金等の支払いを求める訴えを提起しました。

 この事案で、裁判所は、次のとおり述べて、上記合意の成立を否定し、原告による退職金請求を認めました。

(裁判所の判断)

「被告は、原告と被告との間で、平成28年7月12日に、原告が未収金の回収を行い、未収金の回収が完了しなければ退職金を支払わない旨の合意が成立した旨主張し、被告代表者も手帳に記載があるなどとして、これに沿う供述をする。」

「しかし、被告の退職金規程を前提とした原告の退職金が562万8000円(被告から支給される部分は238万6257円。)という金額になること自体は当事者間に争いがないところ、そのような高額の退職金を支給しない(あるいは支給しない可能性がある)旨の合意をするのであれば、その旨の書面を作成することが想定され、実際、原告が、本件文書1ないし本件文書3において、未収金残高を認めたり、未収金について責任をもって回収する旨の書き込みや署名・押印をしていることに照らせば、そのような書面を作成すること(あるいは本件文書1ないし本件文書3において、未収金の回収に関する記載と併せて退職金に関する合意内容を記載すること)について支障はなかったといえるが、原告と被告との間において、原告の定年退職の前後を通じて、退職金を支給しない(あるは支給しない可能性がある)旨の合意をしたことを明らかにする書面は作成されていない(なお,被告代表者もそのような内容の文書を作成していないこと自体は自認している(被告代表者尋問調書7頁)。)。

(中略)

「確かに、退職金は、一般的には、退職の時期に近接した時期に支払われるものであり、実際、被告の退職金規程においても、退職金は退職の事実の発生した日の属する月の翌月末日までに支給することとされているが・・・、原告の定年退職日が平成28年7月31日であるにもかかわらず、同年8月末日までに退職金が支払われていないこと、原告が、定年退職後、本件訴えを提起するまでの間に、被告に対して退職金を請求した形跡もうかがわれないこと(なお、原告は、被告に退職金を請求したことがある旨供述するが・・・、時期や態様が明らかとなっておらず、また、供述を的確かつ客観的に裏付ける証拠もない。)。)、手帳に「未収金解決後退職金支払とする」などの記載があること・・・からすれば、何らかの事情があったことはうかがわれる。」

「しかし、前記・・・認定説示のほか、原告が、被告代表者から、未収金を回収しない限り退職金は払わないと一方的に言われた、強く言うと嘱託契約もなされないこともあるかと思った旨供述していること・・・、前記・・・のとおり、dについても未収金があることを理由に退職金が支払われていないことからすれば、被告においては、未収金を理由に退職金を支給しない運用がなされていたこともうかがわれるということができ、後記の金銭消費貸借契約書に関する事情からうかがわれる被告の強固な意思をも併せ考慮すれば、手帳の記載は、そのような被告の運用・意思の表れであるということができる。」

「そうすると、退職金規程所定の時期に退職金が支払われていないことや手帳の記載をもって、原告が、被告が主張するような合意をしたことの証左であると評価することはできない。」

「以上を総合考慮すれば、被告代表者の供述を的確かつ客観的に裏付ける証拠はなく、また、その供述内容も不合理であることからすれば、被告代表者の供述を採用することはできず、ほかに、原告と被告との間で、原告が未収金の回収を行い、未収金の回収が完了しなければ退職金を支払わない旨の合意が成立したことを認めるに足りる証拠もない。」

「したがって、本件において、被告が主張するような合意が成立したと認めることはできない。」

仮に、前記・・・をさておき、原告と被告との間で、被告が主張するような合意がなされたという事実があったとした場合、それは、退職金に関する労働条件を変更するものである。使用者と労働者は、その合意により労働契約の内容である労働条件を変更することができるところ、使用者が提示した労働条件の変更が賃金や退職金に関するものである場合には、当該変更を受入れる旨の労働者の行為があるとしても、労働者が使用者に使用されてその指揮命令に服すべき立場に置かれており、自らの意思決定の基礎となる情報を収集する能力にも限界があることに照らせば、当該行為をもって直ちに労働者の同意があったものとみるのは相当でなく、当該変更に対する労働者の同意の有無についての判断は慎重にされるべきである。そうすると、就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無については、当該変更を受け入れる旨の労働者の行為の有無だけでなく、当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度、労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等に照らして、当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも、判断されるべきものと解するのが相当である(最高裁平成28年2月19日第二小法廷判決・民集70巻2号123頁参照)。

「本件についてみると、原告の退職金は562万8000円(被告から支給される部分は238万6257円。)であるところ、そのような高額の退職金の支払を受けられないこととなれば、その不利益の程度は非常に大きなものとなる。」

「また、既に説示したとおり、仮に、被告に未収金が生じていたとしても、それは基本的には被告が組織として取引相手から回収を図るべきものであって、従業員が個人的に負担すべきものではないから、そのような未収金の存在を理由に退職金を不支給とすることに合理的な理由があるとはいい難い。

「さらに、被告は、令和2年4月頃から、原告に対し、未収金相当額について、被告から原告に対する貸金とする旨の金銭消費貸借契約書に署名・押印することを求めているところ・・・、かかる行為は、未収金を何としても、従業員個人から回収しようとする強固な被告の意思の表れであるといえる。実際、被告の主張やdの供述を前提とすれば、被告は、dとの間においても、dが未収金を発生させていたことを理由に、同様に、未収金を回収しなければ退職金を支給しない旨の合意をしたことになるが、これも、未収金を何としても、従業員個人から回収しようとする強固な被告の意思の表れであるといえる。」

「以上からすれば、仮に、被告が主張するような合意が存するとしても、そのような合意は、原告の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するとは到底いうことができず、無効というほかない。

3.書面作成の有無/自由な意思の法理

 裁判所の判断で注目しているのは、次の二点です。

 一つ目は、合意の認定にあたり書証の存在を重視していることです。

 要旨、書証がない⇒被告側の主張の裏付けがない⇒合意の成立が認められない、といったように議論が展開されています。このことは、黙認してしまったかのような事実経過が存在する事案でも、書面がなければ、債務負担・退職金不支給の合意の成立自体を争える余地があることを意味します。

 二つ目は、未収金について、基本的に被告が回収を図るものであり、従業員が個人的に負担すべきものではないと指摘したうえ、退職金不支給の合意に自由な意思の法理を適用していることです。本来会社が被るべき負担を従業員が負担することの整合性が問われるのであれば、退職金の絡まない単純な債務負担行為においても、自由な意思の法理の適用があっておかしくないのではないかと思われます。

 仮に会社から未収金を個人で払えと言われ、黙認、債務負担の合意をしてしまったとしても、合意自体の成立を争ったり、自由な意思の法理の適用を主張して合意の効力を争ったりできる余地はあるように思います。 

 この問題でお困りの方は、一度、弁護士に相談してみることをお勧めします。もちろん、当事務所でもご相談はお受けできます。

 

業務委託契約扱いされていた労働者からの国民健康保険料の半分に相当する額の損害賠償請求が認められた例

1.労働者性が争われる事件

 労働者かどうか(労働基準法、労働契約法をはじめとする労働法の適用があるか)は契約の名称によって決まるわけではありません。就労の実体で決まります。したがって、業務委託契約(準委任契約)という表題のついた契約書のもとで働いていたとしても、実質において労働者のような働き方をしていた場合、自分は労働者であるとして労働法上の諸権利を行使することができます。

 業務受託者が労働者性を主張する場面としては、従来、契約関係の解消の効力を争う場面、割増賃金を請求する場面、労働者災害補償保険法(労災)の適用を求める場面などがありましたが、近時公刊された判例集に、一例を加える裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介させて頂いた、大阪地判令4.5.20労働判例ジャーナル126-14 GT-WORKS事件です。どのような点が目新しいのかというと、業務委託者(使用者)に対する国民健康保険料の半分に相当する額の損害賠償請求が認められているところです。

2.GT-WORKS事件

 本件で被告になったのは、建築士事務所の経営、土木施工管理、一般労働者派遣事業等を目的とする特例有限会社です。

 原告になったのは、平成16年~平成17年頃、被告との間で労働契約を締結し、被告の取引先の現場事務所等において土木工事の施工管理業務等を担当していた方です。

 本件の原告は、業務委託契約に基づいて稼働していましたが、自らが労働者であると主張して、割増賃金や付加金、被用者保険に加入していれば免れたはずの保険料相当額の損害賠償金の支払いを求める訴えを提起しました。これは健康保険の場合、保険料が労使折半とされていることに対応したものだと思われます(健康保険法161条参照)。

 保険料相当額の損害賠償請求との関係での原告の主張の骨子は、

「原告と被告との間の契約は労働契約であるところ、被告は法人であり、健康保険及び厚生年金保険の適用事業者であるから、被告は、原告の被保険者資格の得喪を各保険者に届け出る義務を負う。しかし、被告は、原告を個人事業主として取扱い、原告が被保険者資格を喪失したとして虚偽の届出をしたものであるから、被告は、上記義務を怠ったものといえる。上記の被告の行為は、労働契約上の債務不履行を構成する」

というものでした。

 これに対し、裁判所は、次のとおり述べて、原告の請求を認めました。

(裁判所の判断)

・被告による債務不履行の有無

「健康保険法3条3項所定の適用事業所の事業主は、同法48条に基づき、健康保険の被保険者の資格の取得及び喪失等の事項を届け出る義務を負うものであるところ、この届出義務は、単なる公法上の義務にとどまらず、労働契約の当事者である使用者は、労働者に対し、労働契約に付随する信義則上の義務として、上記届出を適正に行うべき義務を負い、同義務を怠った場合には、労働契約上の債務不履行責任を負うものと解するのが相当である。

「これを本件についてみるに、弁論の全趣旨によれば、被告が健康保険法上の適用事業所であることは容易に認められ、かつ、前記・・・で認定・説示したとおり、原告と被告との間の契約の法的性質は労働契約であるから、被告は、原告の被保険者の資格の取得及び喪失等の届出を適正に行うべき義務を負う。そして、被告が上記義務を怠ったことは明らかであるから、被告は、原告に対し、債務不履行に基づく損害賠償責任を負うものというべきである。」

(中略)

・原告の損害額

「原告は、自ら建連国保に加入し、保険料を納付したことによって、保険給付を受ける地位を取得したものであるが、原告が上記のような行動を取らざるを得なかったのは、被告が原告との間の契約を労働契約から形式的に業務委託契約に変更し、原告が健康保険の被保険者資格を喪失したものとしてその旨の届出をしたことによる。そして、原告が建連国保に加入して平成25年4月以降に納付した保険料の額は、合計237万2600円であった・・・。

そうすると、被告が健康保険被保険者資格届出義務の違反を理由として負担すべき原告の損害額は、上記金額の2分の1に相当する118万6300円を下らないというべきである。」 

3.国民健康保険と健康保険は別物であるが・・・

 国民健康保険と健康保険とは本来別物です。

 国民健康保険は国民健康保険法に根拠があり、健康保険には健康保険法に根拠があります。根拠法が異なるうえ、保険料も異なり、国民健康保険料として支払った額の半額が健康保険に加入できていたなら支払を免れていたであろう金額と一致するとは、必ずしもいえないように思われます。

 しかし、この裁判例は、国民健康保険料の半額の損害賠償を認めました。原告が自ら加入したという県連国保とは、国民健康保険組合の一種です。国民健康保険法13条は、

「国民健康保険組合(以下「組合」という。)は、同種の事業又は業務に従事する者で当該組合の地区内に住所を有するものを組合員として組織する。」

「2 前項の組合の地区は、一又は二以上の市町村の区域によるものとする。ただし、特別の理由があるときは、この区域によらないことができる。」

と規定しています。国民健康保険は、都道府県が市町村とともに行うもの(国民健康保険法3条1項)だけではなく、一定の地区内にいる同業者団体が組織・運営するものもあります。建連国保というのは、後者の同業者団体として組織されたみたいです。

国保組合のご紹介-プロフィール|建設連合国民健康保険組合

 原告が加入した建連国保も国民健康保険法に根拠があるもので、納めた保険料は国民健康保険料だといっても良いのではないかと思われます。

 こうして裁判所は納めた国民健康保険料の半額相当の損害賠償請求を認めました。これは逸失利益の計算について「健康保険に加入したと仮定していたら・・・」といった難しい計算をすることなく、概算で請求を行うこことを認めたに近い扱いであるように思われます。

 国民健康保険料は結構な額になるため、労働者性を争う事件では、こうした請求を付加できる可能性がないのかも検討する必要がありそうです。