弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

賃金から一方的に控除された交通事故の損害賠償金-退職時に控除された賃金の支払を求めることはできないか?

1.労働者が社用車の運転中に起こした交通事故

 労働問題に関する相談の中で比較的多い類型の一つに、社用車を運転中に交通事故を起こしてしまったというものがあります。使用者から車両の修理費等の賠償を求められているけれども、応じなければならないのかという相談です。

 こうした相談に対しては、

故意に近いような不注意でもない限り、賠償請求に応じる必要はないし、

少なくとも全額を賠償する必要はない、

と回答することが多いです。

 故意又は重過失が認められないことなどを理由に労働者の使用者の損害賠償義務を否定した裁判例に、京都地判平23.10.31労働判例1041-49 エーディーディー事件があります。

 また、トラック運転手が、仕事中に起こした交通事故で、被害者に損害賠償金を賠償した後、その金額の分担を会社に求めること(いわゆる逆求償)を認めた最二小判令2.2.28 労働判例ジャーナル97-1 福山通運事件の菅野博之裁判官、草野畊一裁判官補足意見は、

「本件においてまず重視すべきものは、上告人及び被上告人各自の属性と双方の関係性である。これを具体的にいえば、使用者である被上告人は、貨物自動車運送業者として規模の大きな上場会社であるのに対し、被用者である上告人は、本件事故当時、トラック運転手として被上告人の業務に継続的かつ専属的に従事していた自然人であるという点である。使用者と被用者がこのような属性と関係性を有している場合においては、通常の業務において生じた事故による損害について被用者が負担すべき部分は、僅少なものとなることが多く、これを零とすべき場合もあり得ると考える。

と判示しています。

 これらの裁判例が示唆するとおり、業務中、社用車を運転していて不注意から交通事故を起こしてしまったとしても、労働者が使用者に損害賠償義務を負う場面は限定されているし、仮に損害賠償義務を否定できない場合であったとしても、その範囲はかなり制限的に理解されています。

 それでは、損害賠償請求を拒まれた使用者が、賃金から一方的に損害賠償金を控除するという強硬手段に出た場合はどうでしょうか?

 直ちに異議を述べた場合、きちんとした支払を求めることができる可能性は高いと思います。しかし、在職中の労働者が使用者に明確な異議を述べることは、必ずしも容易ではありません。

 そこで、退職時、あるいは、退職した後に、控除された分に相当する賃金を支払えというおとができないのかが問題になります。昨日ご紹介した、大阪地判令4.7.8労働判例ジャーナル129-36 ヨツバ117事件は、この問題を考えるうえでも参考になります。

2.ヨツバ117事件

 本件で被告になったのは、防災機器、防災器具、防災用品の仕入れ並びに販売事業等を行う株式会社です。

 原告になったのは、被告との間で雇用契約を締結し、営業職の正社員として勤務していた方です。退職後、時間外勤務手当(残業代)等を請求する訴訟を提起したのが本件です。メインテーマは時間外勤務手当の請求の可否ですが、本件の原告は、交通事故を理由とする不当な天引きがあったとして、天引きされた額に相当する賃金も併合して請求していました。

 時系列を具体的に言うと、原告が被告との間で雇用契約を締結していたのは、平成29年11月30日~令和2年6月になります。

 そして、被告が賃金からの控除を行ったのは、

令和元年7月    9000円

令和元年9月    1000円

令和元年10月   1000円

令和元年11月   1000円

令和元年12月   5100円

令和2年1月    1000円

令和2年5月  2万1000円

令和2年6月  2万0000円

の合計5万9100円です。

 この事案において、裁判所は、次のとおり述べて控除を認めませんでした。控除額については、裁判所から全部支払えという判決が言い渡されています。

(裁判所の判断)

「被告は、〔1〕従業員が業務中に交通事故を起こした場合、本件の免責額(5万円)を上限に従業員に負担させることが車両管理規定に規定されており、全従業員が同意しているため、労使協定が実質的には締結されているとして、控除は適法である、〔2〕仮に、労使協定がないとしても、返還請求権がないことを同意していた、あるいは返還請求権を放棄していた旨主張する。」

「〔1〕について、賃金は全額払いが原則であるところ(労基法24条1項)、賃金控除に関する労使協定があれば、賃金全額払い原則の違反を免れるが、これはいわゆる免罰的効力であり、労働契約上控除が適法か否かは別の問題である。したがって、仮に、被告が、労使協定があれば、賃金控除が労働契約上も有効であるとの前提で主張しているとすれば、主張自体失当である。」

「また、その点をさておくとしても、控除に関する労使協定が存在しないことは被告も自認している。なお、被告は、従業員代表であったq4が押印している、原告を含む全従業員が車両管理規定に押印しているから、労使協定の趣旨を潜脱することはなく、労使協定以上の効力がある旨も主張するが、独自の見解であり、採用の限りでない。
 さらに、その点をさておくとしても、q4が適切に選任された従業員代表であったことを的確に裏付ける証拠はない。」

「加えて、被告は、車両管理規定を主張の根拠としており、本件で提出している証拠説明書においても、同車両管理規定が被告のものであるとしている。しかし、原告が、同車両管理規定に押印した日付は平成29年8月2日であるところ(前提事実・・・、同日は、原告と被告が雇用契約を締結した日ではなく、原告と信友が雇用契約を締結した日である・・・。そうすると、原告は、信友の従業員として同車両管理規定に押印したことがうかがわれ、本件で提出されている車両管理規定が被告のものであること自体について、疑問の余地があるといわざるを得ない。」

「そして、これらの点をさておくとしても、そもそも、従業員が業務中に交通事故を起こし、使用者所有に係る車両等に損害が発生したとしても、当該損害について、当然に従業員に負担させることができるものでもないほか、本件において、被告は、原告が、いつ、どのような交通事故を起こしたのか、どのような損害が生じたのかなどの点について全く明らかにしておらず、被告がどのような理由で控除したのかすら明らかとなっていないというほかない。」

〔2〕について、被告の主張を善解すれば、原告が業務控除(業務減費)名目で控除することを同意していた、あるいは控除相当額について賃金を放棄していた旨主張するものと解される。

しかし、賃金は労働者の生活にかかわる重要なものであること、一般的に使用者と労働者の関係では使用者の方が優位な立場にあることなどに照らせば、賃金の放棄あるいは賃金から控除する同意が有効なものであるというためには、当該放棄あるいは同意が労働者の自由な意思に基づくものであることが必要であり、自由な意思に基づくものであるというためには、自由な意思に基づくものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在することが必要である。

被告の主張を善解すれば、原告が車両管理規定に押印していること、在職中に控除に異議を唱えなかったことをもって、合理的な理由が客観的に存在することの証左であると主張しているものと解されるが、それらをもって、自由な意思に基づくものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在することの証左であると評価することができないことはいうまでもなく、ほかに、合理的な理由が客観的に存在したことを認めるに足りる証拠もない。

「以上からすれば、本件において、業務控除(業務減費)名目で控除することはできない。」

3.放っておいただけでは承諾とは捉えられにくい

 本件は最後の控除からそれほど時間を置くことなく退職・請求に至った経緯です。

 とはいえ、ただ単に異議を出せずに放っていただけであれば、それを根拠に相殺合意が成立しているとは言われないのではないかと思います。

  給料から損害賠償金が引かれてしまった場合にどうする対応するのかを考えるにあたり、本裁判例の判示事項は参考になります。