1.厚生年金の受給額
一定の上限はありますが、厚生年金は、納付した保険料が多額であればあるほど、受給額も高くなる仕組みがとられています。
それでは、使用者側が何等かの理由で賃金が上げられていたことを認識せず、納付した保険料が法所定の額よりも小さい場合、労働者は使用者に対して損害賠償を請求することができないのでしょうか?
損害賠償請求の可否が問題になるのは、本来納付すべき金額より過少であった場合、将来受給開始年齢以降もらう年金額が減少する可能性が高いからです。
近時公刊された判例集に、この問題を扱った裁判例が掲載されていました。東京地判令4.8.17 労働判例ジャーナル134-46 学校法人マスダ学院事件です。
2.マスダ学院事件
本件で被告になったのは、調理師専門学校等を設置運営する学校法人です。
原告になったのは、被告との間で労働契約を締結し、教員として勤務していた方です。本件では複数の請求が掲げられていましたが、その中の一つに、厚生年金保険料の一部未払を理由とする損害賠償請求がありました。
将来受給できるはずの厚生年金保険の金額が低くなってしまう、
これによって精神的苦痛を受けた、
というのがその骨子です。
これに対し、裁判所は、次のとおり述べて、慰謝料請求を棄却しました。
(裁判所の判断)
「原告は、被告が原告を採用して以降、実際の賃金を厚生年金保険の保険料の算定の基礎となる標準月額報酬としなかったため、原告が将来受給する年金額は本来受給できる額よりも減額されることになり、これは被告による不法行為に該当するから、原告が受けた精神的苦痛を慰謝するには600万円が相当であると主張する。」
「前記・・・のとおり、原告の賃金が月額26万5000円から45万9000円に変更されたのは平成29年4月1日であり、証拠・・・によれば、同月以降も賃金月額26万5000円であることを前提に社会保険料を控除していると認められる。したがって、実際の賃金を厚生年金保険の保険料の算定の基礎となる標準月額報酬としていなかったことが認められるが、その時期は原告が主張するように被告が原告を採用してからではなく、平成29年4月1日以降であると認められる。」
「これにより原告が将来受給できる年金額が減額される可能性は否定できないが、まずは厚生年金保険の保険料を遡及して支払うことができるか試みるべきであり、その結果、被告が遡及して保険料を支払うことができない期間が生じ、原告が将来受給できる年金額が減額される見込みであったとしても、原告が将来受給できる年金額が確定していない以上、現時点で原告の損害が発生したとまではいえないから、現時点で原告に慰謝料が生じるとは認められない。 」
「したがって、原告の主張は採用できない。」
3.慰謝料なしでいいのか?
上述のとおり、裁判所は、金額が確定しなければ損害が発生したのかどうか分からないはずだという理屈のもとで、原告の請求を棄却しました。
しかし、労働者の年齢よるとしても、老齢厚生年金を受給するまでには、相当な時間の経過を要することが少なくありません。また、老齢厚生年金を受給した時に損害が確定するにしても、社会保険料を適切に支払えない会社が労働者の老齢厚生年金受給開始時まで存在しているのかも不明です。
個人的には幾許かの慰謝料が認められても良かったのではないかと思いますが、こうした裁判例があることは、意識しておく必要があります。