1.素因減額
被害者が有していた身体的・精神的要素(素因)が損害の発生・拡大に寄与した場合に、これを過失相殺の対象にすることができるかという問題があります。一般に「素因減額」と呼ばれている問題です(我妻榮ほか『我妻・有泉 コンメンタール民法 総則 物件 債権』〔日本評論社、第6版、令元〕1559-1560頁参照)。
素因減額に関しては、
「企業等に雇用される労働者の性格が多様のものであることはいうまでもないところ、ある業務に従事する特定の労働者の性格が同種の業務に従事する労働者の個性の多様さとして通常想定される範囲を外れるものでない限り、その性格及びこれに基づく業務遂行の態様等が業務の過重負担に起因して当該労働者に生じた損害の発生又は拡大に寄与したとしても、そのような事態は使用者として予想すべきものということができる。しかも、使用者又はこれに代わって労働者に対し業務上の指揮監督を行う者は、各労働者がその従事すべき業務に適するか否かを判断して、その配置先、遂行すべき業務の内容等を定めるのであり、その際に、各労働者の性格をも考慮することができるのである。したがって、労働者の性格が前記の範囲を外れるものでない場合には、裁判所は、業務の負担が過重であることを原因とする損害賠償請求において使用者の賠償すべき額を決定するに当たり、その性格及びこれに基づく業務遂行の態様等を、心因的要因としてしんしゃくすることはできないというべきである」
といったように、慎重な立場をとる判例もあります(最二小判平12.3.24労働判例779-13 電通事件)。
しかし、過失相殺の規定を類推適用することによる素因減額は、実務上、かなり広範に行われています。個人的な実務経験に照らすと、些細なことであっても、素因減額・過失相殺の名のもとに損害賠償額を削減する理由とされてしまうことは、決して少なくありません。一定の身体的・精神的素因を有しながらも、過失相殺・素因減額が否定される事案は、むしろ稀と言っても良いのではないかと感じるくらいです。
一昨日、昨日とご紹介している横浜地判令4.4.27労働判例ジャーナル125-1 セーフティ事件は、その稀な事案としても目を引かれます。
2.セーフティ事件
本件はいわゆる労災民訴の事案です。
被告になったのは、役員車等の運行・保守管理の請負等を業とする株式会社です。
原告になったのは、被告で働いていたDの遺族(妻・長女)の方です。Dは被告との間で雇用契約を締結し、被告の顧客である会社の役員付運転手として勤務していました。勤務時間中に心筋梗塞で死亡し、労災保険給付の支給決定を受けた後、Dが死亡したのは被告における長時間の時間外労働等が原因であるとして、被告に対して損賠賠償を求める訴えを提起したのが本件です(死亡日:平成27年10月10日)。
被災したDは高血圧症、高コレステロール血症での通院加療を継続しているなどのリスクファクターを抱えていました。具体的には、次の事実が認定されています。
(裁判所で認定された事実)
・Dの健康状態と治療状況等
「Dは、前職で勤務していた平成24年頃に高血圧の指摘を受け、東芝林間病院に通院して治療を受けていた。前職の退職後は、平成25年3月29日から、自宅近くの石川医院に通院し、高血圧症、高コレステロール血症の服薬治療を受けるようになった。Dは、飲酒の習慣はないが、40年来の喫煙の習慣があり、同医院の医師から禁煙を勧められ、平成25年4月11日から同医院の禁煙外来を受診し、同年7月4日には禁煙に成功したと判断された。Dは、その後も、月に1回程度の頻度で石川医院に通院して高血圧症、高コレステロール血症の服薬治療を継続していたが、平成26年1月11日に実施された血液検査により血糖値が高いことが判明し、同日以降、上記に加えて、〈2〉型糖尿病の治療として食事療法等の生活指導や服薬による治療を受けるようになり、月に一、二回の頻度で、石川医院への通院を継続した。Dは、本件事故の直前である平成27年10月3日にも石川医院において受診している。」
「Dの主治医であるH医師は、本件事故前のDの病状について、数値等が改善されており、服薬及び血圧の管理がされ、生活習慣病は安定しており概ね良好な状況であると判断していた。」
・被告における健康診断の結果等
「Dは、被告入社前の平成25年6月24日に実施された健康診断において、身長162.9cm、体重75.1kg、BMI28.3と測定され、また、血液検査等の結果、肝機能検査・脂質検査・糖尿病検査につき経過観察とされ、肝機能障害・糖尿病・肥満に関してバランスの良い食生活を心がけること、高血圧・脂質異常に関して治療を継続することが指摘され、その他特に問題がない旨の医師の所見が示された・・・。」
「Dは、被告が平成26年10月18日に実施した定期健康診断を受け、身長162.7cm、体重73.3kg、BMI27.7と測定された。また、血液検査等の結果、平成25年6月24日実施の健康診断と比較して、肝機能検査が経過観察から正常になるも、脂質検査は経過観察のままであり、糖尿病検査につき再検査及び精査が必要とざれ、肥満・高中性脂肪血症・耐糖能障害に関して過食・運動不足を避け、糖分や炭水化物のとりすぎを控えること、高血圧に関して治療を継続することが指摘された・・・。Dは、平成27年1月頃、被告に対し、平成26年12月20日に再検査し、現在薬投与中であり、血液検査を毎月受けて経過観察中である旨を報告した・・・。」
このようなリスクファクターの存在を認定しながらも、裁判所は、安全配慮義務違反を認めたうえ、次のとおり述べて、過失相殺(素因減額)を否定しました。
(裁判所の判断)
「上記認定のとおり、Dに心筋梗塞発症のリスクファクターが複数あり、心筋梗塞発症の身体的要因があったことは認められるが、Dは、通院治療するなどして健康管理に留意していたと認められること、Dは、自身の健康状態等について、通院治療中である旨を被告に報告し、被告は、健康診断によってDの健康状態等について把握しており、Dの業務の過重性について容易に知り得たことなどからすると、本件において、Dの落ち度というべき事情は認められず、損害の衡平な分担の観点から過失相殺をすべきとはいえない。」
3.馬鹿にならないかかりつけ医の存在・職場との健康情報の共有
健康診断等で異常を指摘されても、改善に取り組むことなく、これを放置している方は少なくありません。また、仕事を干されることが危惧されるなどの理由から、職場と健康情報を共有することに消極的な方もいます。
しかし、過失相殺(素因減額)という観点からみると、継続的に医師から健康指導を受けたり、健康状態を職場と共有したりすることは、極めて重要なことです。そうしておくと、万一被災した時に、本人や遺族が過失相殺(素因減額)を防ぐことができるからです。死亡事案等においては、1割の過失相殺がなされるだけでも、何百万円という金額の差が生じることは珍しくありません。
かかりつけ医を持って普段から健康指導をうけおくことや、職場への密な連絡は、被災した時のことを考えると決して馬鹿になりません。不安な点は医師から改善に向けた指導を受けておくべきですし、健康情報は職場と共有しておくにこしたことはありません。