弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

未払賃金請求-親会社役員の「必ず精算します。」は、あてにしていいのか?

1.賃金の支払が滞り始めたら・・・

 個人的観測の範囲でいうと、賃金の支払が滞り始めても、直ちに弁護士のもとに相談に来る方は、決して多数派とはいえないように思います。概ねの人は、退職・転職したり、経営者の言質を取りに行ったりしています。

 賃金を支払えないことに負い目を感じているせいか、労働者から詰め寄られると、大抵の経営者は、支払いを約束してその場をやりすごそうとします。

 それでは、こうした約束を根拠に、雇い主以外の者に対しても、賃金の支払を請求することはできないのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令2.12.16労働判例ジャーナル110-48 T&Cメディカルサイエンス事件です。

2.T&Cメディカルサイエンス事件

 本件で被告になったのは、金融市場、経済に関する調査、研究、医療用機器の製造販売、輸出入等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、被告が議決権の100%を保有するニューヨーク州法人(NY現地法人)との間で労働契約を締結した方です。平成28年8月以降、NY州現地法人からの賃金の支払が滞り始め、平成29年6月分以降の賃金は、全く支払われなくなりました。こうした状況から平成30年10月31日付けでNY州現地法人を退職し、100%親会社である被告に対して、未払賃金の支払を求める訴えを提起しました。

 親会社である被告に対して未払賃金を請求する根拠として、原告は三つの法律構成を主張しました。その中の一つに、併存的債務引受があります。

 原告が併存的債務引受を主張する根拠になったのは、被告取締役Cとの間のメールです。NY州現地法人を辞めるに先立ち、原告は、C取締役との間で、次のようなメールを交わしていました。

-平成28年9月-

「原告がC取締役に対し、賃金の支払予定を尋ねるメールを送信したところ、C取締役は、『来週、2か月分支給できると思います。』『申し訳ありませんが、2か月まとめての支給は難しくまずは来週8月分を支給いたします。』などと返信した。」

-平成29年7月から9月-

「原告がC取締役に対し、賃金の支払予定を尋ねるメールを送信したところ、C取締役は、『B社長も尽力しています。』『3月分だけですが、来週の支給を予定しています。』『B社長に確認したところ、想定外のことが続いていて予定が狂ってますが10月中旬頃には幾らかできると思います。』などと返信した。」

-平成30年3月-

「原告がC取締役に対し、賃金の支払予定を尋ねるメールを送信し、その中で『メディエートやメディカルサイエンスのみなさんにも一切支払はないのでしょうか?』などと聞いたところ、C取締役は、『他社も同じ状況で、残念ですが退職者が増えています。』などと返信した。なお、メディエートとは、被告の子会社の1つである株式会社メディエートのことであり、メディカルサイエンスとは、被告のことである。」

-平成30年8月から9月-

「原告がC取締役に対し、賃金の支払予定を尋ねるメールを送信したところ、C取締役は、『入金がずれこみ、残念ながら今週はできませんが月内の支給を見込んでいるそうです。』『Aさんの状況及び下記について、B社長に伝えてあります。入金あり次第、支給します。』『未払について、B社長も私も正しく把握しており、帳簿にも漏れなく計上しています。』などと返信した。」

-平成30年10月-

「原告が『未払い賃金はいつ、どのような形で支払っていただけるのでしょうか。』とのメールを送信したところ、C取締役は『必ず精算しますので、連絡先メールアドレスなど教えていただけますか。』などと返信した。」

 親会社と子会社とは、法的には飽くまでも別の人格です。100%親会社であったとしても、子会社の債務を当然に支払わなければならないわけではありません。そうであるにもかかわらず、被告取締役が、支給する・精算する、と言い続けたのは、被告会社として併存的に債務を引き受ける意思を有していたにほかならない、というのが原告の主張の骨子です。

 しかし、裁判所は、次のとおり判示して、併存的債務引受の主張を採用しませんでした。

(裁判所の判断)

「原告の賃金は被告がNY現地法人に対して貸し付けた金銭を原資として支払われていたことが多かったこと、被告がNY現地法人の経理業務の委託を受けていたこと、C取締役がNY現地法人とともに被告が支払を行うことを明言したメールは見当たらないこと、被告は本件未払賃金債務を債務引受するとの書面を作成していないことが認められる。これらの事実に照らせば、本件メールは、原告の賃金を支払うために被告がNY現地法人に対して行う貸付けの予定を説明したにすぎないものとして理解することもでき、被告が本件未払賃金債務の支払義務を負うことを認めたものとはいえない。そうすると、本件メールから、原告と被告の間で、本件未払賃金債務について併存的債務引受が成立したと推認することはできず、他にこれを認めるに足りる証拠もない。以上によれば、原告の主張は採用することができない。

3.親会社役員の、支給する・精算する、を鵜呑みにするのは危険

 原告が1年以上も無給で働いてきたのは、100%親会社のC取締役が、支給する・精算する、と言い続けてきたからではないかと思います。素朴な公平感覚に照らすと、元々親会社からNY州現地法人への貸付金が賃金の原資に充てられていたという背景事情のもと、これだけ明確に支給する・精算すると言い続けて無給稼働させていれば、親会社の併存的債務引受が認められても不自然とはいえないように思われます。

 しかし、裁判所は、飽くまでも人格が別であることを重視し、併存的債務引受を認めませんでした。

 こうした裁判例を見ると、やはり、経営者サイドの、支給する・精算する、という言葉を鵜呑みにするのは危険だなと思います。賃金の支払が滞り始めたら、当面様子を見ながら働くにしても、債務引受契約書を作成するなど、一筆取っておいた方が良さそうです。

 当事務所では、こうした簡単な書面の作成も、業務として取り扱っています。ご不安な方は、お気軽にご相談頂ければと思います。