1.取締役個人に対する残業代(割増賃金)請求
残業代(割増賃金)を支払わない会社の中には、支払能力がなくて支払えない会社も少なくありません。また、法的措置をとった当時は支払能力を有していても、裁判をやっている間に支払能力が失われてしまうこともあります。
こうした場合に、取締役の個人責任を追及することはできないのでしょうか?
会社法429条1項は、
「役員等がその職務を行うについて悪意又は重大な過失があったときは、当該役員等は、これによって第三者に生じた損害を賠償する責任を負う。」
と規定しています。
法令を遵守することは、取締役としての基本的な職務の一つです(会社法355条 忠実義務)。
そして、使用者である会社が労働者に対して割増賃金を支払うことは法令上の義務とされています(労働基準法37条参照)。
取締役には会社が法令に違反しないように経営を行う職務があるのであって、割増賃金を支払わないことは、「職務を怠るについて」悪意又は重過失がある(任務懈怠がある)といって良さそうです。
また、会社に支払能力があれば、会社から支払を受けられるため「損害」を考えらませんが、会社に支払能力がなければ、労働者には「損害」が発生しているともいえそうです。
しかし、それだけで、取締役個人に対する責任追及が可能になるわけではありません。損害賠償を請求するには、任務懈怠と損害との間に因果関係のあることが必要だからです(会社法429条1項「これによって」参照)。
それでは、この因果関係は、
取締役が割増賃金を払わないまま、会社が支払能力を喪失した⇒割増賃金の支払いを受けられなくなった、
という大雑把な時系列さえあれば足りるのか、それとも、
取締役が割増賃金を支払わなかった⇒その結果、会社に支払能力がなくなった⇒割増賃金の支払いを受けられなくなった
というように、より細かなところまでが必要になるのでしょうか(割増賃金を払わないで会社に支払能力がなくなるという場面は極めて限定的です)。
この問題を考えるにあたって参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令4.8.26労働判例ジャーナル134-48 Holywood事件です。
2.Holywood事件
本件はいわゆる残業代請求事件です。
被告になったのは、飲食店の経営を業とする株式会社(被告会社)と、その代表取締役であった方です(被告B)。
原告になったのは、被告会社の元従業員です。被告を退職した後、未払残業代(以下、「未払割増賃金等」という)ないし同額を請求する訴えを提起しました。
本件の特徴は、被告会社だけではなく、その(代表)取締役である被告Bもが共同被告にとされていたことです。
裁判所は、一定の未払割増賃金の存在を認めながらも、次のとおり述べて、被告Bに対する請求は否定しました。
(裁判所の判断)
「会社法429条1項は、株式会社の取締役等が、その職務を行うについて悪意又は重大な過失があったときに、これによって第三者に生じた損害を賠償する責任を負う旨を定めるところ、被告会社が原告に割増賃金を支払っていないのであれば、原告は、被告会社に対し、割増賃金債権を有するものであって、これを超えて、原告に割増賃金相当額の損害が発生したことを認めるに足りる的確な証拠はない。」
「なお、前記前提事実並びに証拠(被告B本人)及び弁論の全趣旨によれば、本件店舗は閉店し、現時点で被告会社に支払能力がない可能性が相応に高いと考えられるものの、仮に被告Bに割増賃金不払に関する任務懈怠があったとしても、かかる任務懈怠と被告会社の支払能力の喪失との間に相当因果関係があると認めるに足りる的確な証拠はないから、被告会社の支払能力の喪失によって、上記判断は左右されない。」
3.支払い能力喪失との間の相当因果関係が必要
上述のとおり、裁判所は、(取締役など)、取締役個人の責任を追及するためには、
「任務懈怠」と「支払能力の喪失」との間に相当因果関係が認められることが必要だと判示しました。
残業代を払わないことは、、会社から出て行くキャッシュが少なくなることを意味します。そのため、残業代を支払わなかったことは、会社に資力があることを基礎づける関係にはあっても、だから支払能力を喪失したと主張する根拠にはなりにくいのではないかと思われます。その意味で、裁判所が採用している考え方を推し進めると、残業代の未払が回収不能の結果と相当因果関係を持っ場面は、極めて限定的にしか理解できなくなります。
支払能力を喪失した会社の取締役に対して個人責任を追及するという局面では、損害要件との関係で会社資力にばかり目が行きがちです。しかし、本件のような裁判例もあるため、相当因果関係の検討も忘れてはなりません。