弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

残業代請求の提訴前交渉-使用者側の迅速な対応を促す裁判例

1.残業代請求の提訴前交渉

 訴訟を提起する前には、通常、事前交渉を行います。

 こちら側の請求に相手方が素直に応じるのであれば、敢えて訴訟提起をする必要はありませんし、相手方が要求に応じてくれない場合でも、その理由が明らかになれば訴えの提起段階から争点に即応した主張・立証を行うことができ、審理期間の圧縮に繋げることができるからです。

 しかし、当方から積極的な働きかけをしているにもかかわらず、相手方の対応が鈍いことがあります。

 通常の事案では、相手方が多少愚図ついていても、それほど神経を使う必要はありません。しかし、時間外勤務手当(残業代)を請求する局面ではそうは行きません。付加金の問題があるからです。

 付加金とは、時間外勤務手当等の未払いがある場合に、労働者の請求を受け、裁判所が使用者に未払金と同額の金銭の支払いを命じることができる仕組みをいいます(労働基準法114条)。

 付加金は「違反のあつた時から二年以内にしなければならない」(労働基準法114条)とされています。この2年間の期間制限は除斥期間と理解されていて、不払いから2年を経過した部分から、順次、自動的に消滅して行きます。

 したがって、裁判所は、

「割増賃金自体は催告その他の中断事由があるため、訴訟提起前2年・・・を超えて請求することができる場合でも(賃金の消滅時効期間は現在2年)、付加金については、訴訟提起前2年を超える期間の割増賃金に係る部分は、その支払いを命じることができない」

とされています(佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務』〔青林書院、初版、平29〕186頁)。

 このことは提訴が1か月遅れると、1か月分の残業代に対応する付加金を請求する権利が消滅してしまうことを意味します。つまり、使用者側の鈍いペースに引き摺られてテンポよく事前交渉を進めることができないと、その分だけ請求できたはずの付加金が請求できなくなってしまいます。

 ここに、早く事前交渉の成否を見極めたい労働者側と、事前交渉の長期化にそれほど頓着しない使用者側との間で、せめぎ合いが生じる余地が生じます。

 しかし、付加金の支払義務を消滅させるために(もしくは特段何も考えず、ただズボラなだけで)、ダラダラと交渉を継続する態度を示しても、使用者側には何のペナルティも生じないのでしょうか。

 この問題に一定のバランス感覚を示した近時の事案に、大阪地判令2.1.31労働判例ジャーナル97-8 アクセスディア事件があります。

2.アクセスメディア事件

 これは、労働者が使用者に対して残業代や付加金、安全配慮義務違反に基づく損害賠償金などを請求した事件です。

 アクセスメディア事件では、次の経過を辿って訴訟提起に至っています。

① 平成30年11月 5日 原告代理人が残業代の支払・タイムカード等の開示を要求する、

② 平成30年11月12日 被告が出勤簿等の資料を送付す、

③ 平成30年12月 7日 原告が出勤簿等に基づいて残業代を請求、

④ 平成30年12月19日 被告訴訟代理人弁護士が受任通知、

その後、被告訴訟代理人弁護士が音信普通、

⑤ 平成31年 1月31日 被告訴訟代理人「2月8日までに回答する」

被告からの回答なし

⑥ 平成31年 3月 8日 原告が訴訟提起。

 こうした経過のもとで、被告による付加金支払の要否が争点の一つになりました。

 裁判所は、次のとおり述べて、対象期間の未払いの割増賃金と同額(68万0024円)の支払を使用者に命じました。

(裁判所の判断) 

「前記前提事実並びに証拠・・・及び弁論の全趣旨によれば、被告は、平成30年11月5日、原告代理人から、割増賃金等の支払及びタイムカード等の資料の開示を求められたのに対し、同年11月12日頃、出勤簿等の資料を送付するとともに、原告側で金額を算定すれば、被告で検討する旨回答したこと、そこで、原告代理人が出勤簿等に基づき金額を算定するなどし、同年12月7日頃、被告に対し、その金額での解決を提案したところ、同月19日頃、被告の委任した代理人弁護士から原告代理人に対し、受任通知が送付されたこと、ところが、その後、被告の代理人からは連絡がなく、原告代理人から被告の代理人に連絡を取ろうとしても取れなかったこと、被告の代理人は、平成31年1月31日、原告代理人に対して送付した書面で、同年2月8日までに回答する旨連絡したにもかかわらず、同日を過ぎても回答しなかったため、原告は、同年3月8日に本件訴訟を提起したことが認められる。」
「以上のとおりの被告の割増賃金不払の態様や原告から割増賃金の請求を受けた後の対応に加え、・・・原告の労働時間に関する被告の主張に合理性があるともいえないことを考慮すれば、労基法114条に基づく付加金として、被告に対し、除斥期間が経過していない平成29年2月1日から平成30年8月31日までの時間外労働及び深夜労働に対する未払いの割増賃金と同額の68万0024円の支払を命ずるのが相当である。」

3.事前交渉の打ち切りのタイミングは難しいが・・・

 本件では受任通知の受領から2か月以上にも渡って使用者側の代理人弁護士が実質的な回答を行わなかったことを付加金の請求を認容する根拠になっています。

 付加金の除斥期間が1か月ごとに経過していしまうという状況のもとで、事前交渉をどれだけやるのかは難しい判断になります。特に、使用者側が実質的な反論を行わないときには切実です。

 対立当事者からの反論を確認しておかないと、見通しのエラーが生じやすいし、要点を押さえた訴状を書くことに難渋します。そのため、労働者側には使用者の言い分を実質的に確認したいという誘因が強く働きます。

 しかし、だからと言って、あまり悠長に相手方の対応を待っていると、請求できる付加金がどんどん失われてしまいます。

 本件は、労働者側の困難な立場に配慮し、使用者側の対応が遅いことを付加金の考慮要素として明示的に示すことにより、間接的に使用者に対して無規律な交渉を行うことを回避さしょうとしたものとして理解できます。また、本件のような裁判例は、労働者側が使用者側に対して迅速な回答を促すツールとしても、活用できる可能性があります。