弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

嘘は言い放題ではない-固定残業代の有効性が問題になった事案を題材に

1.民事訴訟で嘘は言い放題なのだろうか?

 民事裁判は嘘を許容する手続ではありません。

 証人が殊更に嘘を言えば偽証罪(刑法169条)は成立しますし、虚偽の陳述をした当事者は過料に処せられる場合があります(民事訴訟法209条)。

 ただ、虚偽の陳述に対する制裁が発動されることは実務上稀であり、それが民事訴訟に対する誤ったイメージの一因になっているのではないかと思います。

 では、制裁がないからといって嘘が言い放題なのかといえば、そのようなことはありません。

 虚偽のストーリーは安定しないことが多く、訴訟の過程で破綻することが少なくないからです。

 近時公刊された判例集に掲載されていた長崎地大村支判令元.9.26労働判例1217-56 狩野ジャパン事件には、嘘に依拠した主張が安定性を失って崩れて行く様子が克明に記録されています。

2.狩野ジャパン事件

 これは具体的な疾患を発症するに至らなかったとしても、長時間労働が労働者の人格的利益を侵害することを認め、会社に慰謝料の支払いを命じた事案として著名な判決です。この切り口からは、既に本ブログでもご紹介させて頂いています。

https://sskdlawyer.hatenablog.com/entry/2020/02/01/005636

 ただ、狩野ジャパン事件では、この論点のほか、固定残業代の有効性も問題になっています。被告会社側の主張が崩壊したのは、固定残業代の有効性についての議論です。

 固定残業代が有効といえるためには、時間外労働等に対する対価としての性質が必要であるほか、通常の労働時間の賃金にあたる部分と時間外の割増賃金にあたる部分とが判別できる必要があります(最二小判平29.7.7労働判例1168-49医療法人社団康心会事件、最一小判平24.3.8労働判例1060-5テックジャパン事件参照)。

 狩野ジャパン事件で問題になったのは「職務手当」の固定残業代としての有効性です。

 本件の労働条件通知書には、

「職務手当のうち一部を残業代として支給する。」

と規定されていました。

 この記載からは職務手当が時間外勤務等の対価としての性質を持つことは何となく分かります。しかし、職務手当の「一部」とあるのが問題で、これでは職務手当のうち、どの部分が時間外勤務の対価で、どの部分がそれ以外の要素で占められているのかが判別できません。

 判別できない以上、固定残業代としての有効要件は満たされず、職務手当は残業代を計算するうえでの時間単価の計算の基礎に含まれるし、職務手当の支払いを残業代の支払と理解することはできないというのが原告労働者側の主張の骨子になります。

 これに対し、被告使用者側は、常務取締役を証人として出頭させ、

「口頭では、30分間をかけて、職務手当に午前8時30分から午前9時までの30分間と午後5時から午後6時までの1時間の時間外労働の1か月分に関する固定残業代が含まれている旨の説明をした」

と証言させました。

 しかし、裁判所は、次のように述べて、常務取締役の証言の信用性を否定しました。

 証人Aとあるのが問題の常務取締役です。

(裁判所の判断)

「証人Aは、原告に対し、口頭では、30分間をかけて、職務手当に午前8時30分から午前9時までの30分間と午後5時から午後6時までの1時間の時間外労働の1か月分に関する固定残業代が含まれている旨の説明をしたとの証言・・・をする。しかしながら、Aは、平成29年2月1日には、これと異なり、前記1(10)のとおり、一日2時間分の時間外労働に対する固定残業代であるという趣旨の発言をしていたものであり、さらに、被告は、答弁書(平成30年2月2日付け)では、いずれとも異なり、所定労働時間前の時間外労働が固定残業代でカバーされている旨の主張(何時間分の割増賃金に相当するかは主張していない。4頁)をし、被告第1準備書面(平成30年4月23日付け)で、主張を変更して、職務手当に午後5時から午後6時までの1時間の時間外労働の1か月分に関する固定残業代が含まれている旨の主張(4頁)をし、被告第3準備書面(平成30年7月9日付け)において、再度、主張を変更して、証人Aの上記証言のような主張(2、3頁)をするに至ったものである。真にAが原告に対して口頭で上記証言のような説明をしていたのであれば、その後、上記のとおりに発言、主張を次々に変遷させることは極めて不自然であり、容易に想定し難い。証人Aの上記証言は、原告本人が、5分程度しか説明を受けておらず、内容も理解しづらかった旨の供述・・・をしていることに照らしても、採用することができない。」

※ 前記1(10)の事実認定

「原告は、平成29年2月1日、Aに対し、36協定と賃金規定の写しを閲覧したい旨を申し入れたが、Aは、C社労士が原本を持って行っている旨を答えた。また、Aは、原告に対し、職務手当について、一日2時間分の時間外労働に対する固定残業代であるという趣旨の発言をした。

3.虚偽の設定は安定しない

 紛争は顕在化してから人証調べを迎えるまでに、かなり長い期間かかります。

 例えば、本件では原告が常務取締役に36協定等を閲覧したいと言ったのが平成29年2月1日です。

 そして、実際に訴えが提起されたのは、平成29年12月25日です。

 判決が出たのが、それから約2年弱が経過した令和元年の9月26日です。

 これだけの長い期間かけて、当事者が何をやっているかというと、多岐に渡る論点について膨大な主張を応酬させているのが普通です。

 虚偽のストーリーを固めようとしても、余程綿密に作り込まない限り、自分でも過去に何を言ったのか忘れてしまう人は少なくありませんし、客観的な痕跡(証拠)との間の整合性がとれなくなって行くことは少なくありません。

 記憶している一つの事実を供述する場合、思い返す事象が一つであるため、供述は安定しやすいですが、作り込んだ設定を思い出すことは特殊な訓練でもしない限りそれほど容易ではありません。だから、その場その場でいうことがコロコロと変わって安定しにくいのです。

 嘘を有効打にすることが難しいとういう意味において、民事裁判は嘘を許容する手続ではありません。対立当事者の批判に晒されるため、馴れ合いで訴訟が行われるようなイレギュラーな場合を除けば、嘘で乗り切れることはあまり期待できません。

 訴訟の中で嘘に依拠したストーリーの崩壊を目の当たりにすることは、確かに多くはありませんが、稀というほど少なくもありません。狩野ジャパン事件のように、見本になるような崩壊の仕方をする事件もなくはありません。

 その意味で、客観証拠がないからといって、必ずしも頭から事件化を諦める必要はないのだと思います。

 また、どのように平成29年2月1日の常務取締役の供述を証拠化したのかは不分明ですが、この事件は紛争が顕在化した初期の段階から相手方の供述を固定化することの訴訟戦略上の有効性を実証するものでもあります。

 ただ、昨今は、職場での録音が問題となる裁判例が散見されるようになっていますので、録音をするにあたっては、誰の音声を、どのような場面で、どのような態様で録音するのかを、事前に弁護士と打合せてから実行することをお勧めします。