弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

固定残業代-差額清算合意・差額清算実態は侮れない?

1.固定残業代の有効要件と「差額清算合意」「差額清算実態」

 固定残業代とは、

「時間外労働、休日および深夜労働に対する各割増賃金(残業代)として支払われる、あらかじめ定められた一定の金額」

をいいます(白石哲編著『労働関係訴訟の実務』〔商事法務、第2版、平30〕115頁参照)。

 この固定残業代について、一時期、

「労基法所定の計算方法による額が固定残業代の額を上回るときはその差額を当該賃金の支払期に支払うことを合意したこと」(差額清算合意)

が有効要件になるのか否かが、議論の対象になったことがあります。

 しかし、現在では、

「『差額清算があること』ないし『清算の実態があること』の要件については、・・・支給が合意された固定残業代の額を超えて時間外労働が行われた場合に、その超過分について割増賃金が別途支払われるべきことは、労基法上当然のことであり、『清算合意』ないし『清算実態』を独立した要件と解する必要はない」

「雇用契約に基づいて支払われる手当が、時間外労働等に対する対価として支払われるものとされてりうか否かは、契約の内容によって定まり、その他に何らかの独立の要件を必要とするものではない・・・必ずしも清算の実態を要求するものではない」

と、差額支払合意や差額清算実態は、固定残業代の有効要件ではないとの理解が通説的な地位を占めるに至っています(佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務Ⅰ』〔青林書院、改訂版、令3〕190-191頁参照)。

 ただ、差額清算合意や差額清算実態が、固定残業代の効力を争うにあたり、何の意味もないのかというと、そういうわけでもありません。差額清算が行われていなかったことは、固定残業代に関する合意の成立を否定する根拠になることがあります。近時公刊された判例集に掲載されていた、東京地判令3.4.13労働判例ジャーナル116-52 ノミック事件も、差額清算実態が固定残業代の効力に影響を及ぼした事件の一つです。

2.ノミック事件

 本件は、いわゆる残業代請求事件です。

 被告になったのは、室内装飾及び店舗の設計、施工等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、

平成25年4月1日に被告との間で労働契約を締結し、被告のD支社に配属されて就労していた原告A

平成15年3月1日に被告との間で労働契約を締結し、被告のD支社い配属されて就労していた原告B

の二名です。

 原告Aは平成30年3月31日に退職し、原告Bは平成30年4月30日に退職しました。その後、催告を経て、平成30年12月27日、割増賃金の支払を求める訴えを提起しました。

 この事件の興味深いところは、原告Aにしても、原告Bにしても、かなり長期間に渡って「固定残業手当」の支給を受けていたことです。

 原告Aは被告に入社した平成25年4月当時から、原告Bは入社後約3年を経た平成18年7月から「固定残業手当」の名目で一定額の支給を受けていました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、固定残業代の効力を否定しました。

(裁判所の判断)

「被告は、原告らとの間で、それぞれ固定残業手当を固定残業代として支払うことを合意したと主張するが、原告らと賃金や手当の一部を固定残業代として支払うことを合意したことについて具体的に主張しておらず、また、上記事実を認めるに足りる的確な証拠もない。」

「この点に関し、証拠・・・及び弁論の全趣旨によれば、原告Bには、平成18年7月分の給与から、それまで支給されていた調整手当が支払われなくなり、代わりに固定残業手当が支払われるようになったこと、原告Bは、退職するまでの間、これに異議を述べなかったことが認められる。しかしながら、証拠・・・によれば、上記変更の前後で原告Bに対する支給総額は増えており、また、被告では、従前、残業をしても割増賃金が支払われることがなかったことが認められることに照らすと、原告Bは、手取りの給与が減らず、むしろ増えていることから、支給名目が変更したとしても異議を述べることをしなかったと解することができ、原告Bが異議を述べなかったからといって、それだけでは固定残業代について合意をしたと認めることはできない。また、被告は、平成18年8月の営業会議において被告代表者が原告Bら従業員に対して、固定残業代について説明したと主張し、これに沿う証拠・・・もあるが、仮に被告主張のような事実があったとしても、被告代表者が一方的に固定残業代の導入の方針を伝えたというだけであり、それだけで原告Bら従業員が、残業をしたとしても、固定残業代を超えない限り、残業代が別途支払われることはないことについて同意をしたと認めることはできない。」

「証拠・・・によれば、原告Aについても、被告に入社して正社員になった当時から支給額の一部が固定残業手当名目で支払われていることが認められるが、原告Aについても残業時間の多寡にかかわらず割増賃金が支払われることはなかったことも考慮すると、上記事実だけでは、原告Aが被告と労働契約を締結するに当たって、支給額の一部に固定残業代が含まれていることの説明を受け、これに同意をしたと認めることはできない。

3.就業規則に周知性の欠如も説明義務の程度に影響したかも知れないが・・・

 本件では、

「被告は、平成30年4月30日時点で、中央労働基準監督署長に対し就業規則を届け出ておらず、平成31年3月18日、同監督署長から、労働基準法89条1項に従って就業規則を届け出ていないことと、労働基準法106条1項に従って就業規則を周知していないことについて、是正勧告を受けた。」

という事実が認定され、就業規則の周知性も否定されています。

 就業規則が周知されていない以上、丁寧に説明されていない労働条件が労働契約の内容に組み込むことは許容されるべきではない-そうした価値判断が影響している可能性もあることから、本件の判示を安易に一般化することはできないだろうと思います。

 それでも、差額清算実態の欠如 ⇒ 説明の欠如 ⇒ 固定残業代を労働条件に組み込むことを内容とする合意の欠如 と推認を重ね、固定残業代の効力を否定したことは、画期的な判断として注目されます。

 こうした裁判例を見ると、差額清算実態の欠如は、有効要件とまでは言えないにしても、決して軽視することはできないなと思います。