弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

有給消化後に退職する意向を示した従業員に対し、退職前に健康保険の被保険者資格を喪失させたことが不法行為に該当するとされた例

1.退職をめぐる嫌がらせ

 勤務先を退職する時に、

残っている有給休暇を全部消化したうえで辞職する、

という意思表示をすることがあります。

 この場合、使用者は、時季変更権を行使することができないので(昭49.1.11基収5554号、東京地判平29.2.21労働判例1170-77代々木自動車事件等参照)、労働者による有給休暇の取得を認めたうえで退職処理をとることになります。

 しかし、円満退職ではない場合に、労働者がこうした手法をとると、使用者から退職日前に健康保険の被保険者資格を喪失させられるといった嫌がらせを受けることがあります。

 それでは、こうした嫌がらせを受けた場合、労働者は、使用者に対して、損害賠償を請求することができるのでしょうか? 健康保険だろうが国民健康保険だろうが病院に行った時の窓口負担の割合は変わらないため、こうした嫌がらせを受けたことによる精神的苦痛の慰謝が認められるのかが問題になります。

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。大阪地判令6.7.22労働判例ジャーナル153-40 プラウドワーク事件です。

2.プラウドワーク事件

 本件で被告になったのは、介護保険法に基づく指定居宅サービス事業等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、令和元年7月9日に被告との間で期間の定めのない雇用契約を締結し、訪問介護員として働いていた方です。

 被告を退職した後、

未払割増賃金(時間外勤務手当等、いわゆる残業代)、

年次有給休暇を取得したことによる賃金、

不当に解雇され、健康保険の資格を喪失された上に、被告代表者から誹謗中傷されて名誉を毀損されたことを理由とする損害賠償金(慰謝料)

等を請求する訴えを提起したのが本件です。

 健康保険の資格喪失の件について言うと、

「B(被告代表者 括弧内筆者)は、4月2日、原告に対し、原告の夫であるD(以下『D』という。)が4月1日にBの父であるE(以下『E』という。)の訪問介護に従事した際、Bの携帯電話を盗んだので警察に届け出る旨をLINEで通知した・・・。」

(中略)

「これに対して、原告は、4月6日、被告を辞めることができるならすぐに辞めたいこと,これができないなら2か月は就労するが、最終日から遡って21日の年休があるから、すぐに辞める場合でも年休を消化する旨をLINEで通知した。Bは、同日、原告に対し、原告がすぐに被告を辞めたいのであれば、すぐに辞めてもらって構わない旨をLINEで通知した。」

「原告は、被告に対し、4月11日付けで、Bに対して4月6日に申し出をしたとおり、6月13日をもって被告を退職するので、4月11日から6月13日までの土日祝を除き23日の年休を消化する旨の退職届兼有給休暇消化申請書(・・・以下『本件届』という。)を提出した・・・。」

(中略)

「被告は、遅くとも5月25日までに、原告について健康保険の資格喪失手続をした。原告は、同日病院を受診したところ、当該健康保険の資格喪失手続がされていることが判明し、当該健康保険を利用して受診できなかった」

という事実が認定されています。

 こうした事実関係のもと、裁判所は、次のとおり述べて、健康保険の資格喪失手続の不法行為該当性を認めました。

(裁判所の判断)

・被告による不法行為の成否

「本件で、被告が、DがBの携帯電話を盗んだことを理由として原告を解雇したことを認めるに足りる的確な証拠はない。」

「しかしながら、前提事実・・・によると、

〔1〕Bは、令和4年4月2日、原告に対し、D(原告の夫)が、E(Bの父)の訪問介護に従事した際、Bの携帯電話を盗んだので、警察に届け出る旨をLINEで通知し、同月6日、原告に対し、原告とDによる訪問介護を断る旨を通知したこと、

〔2〕その後、原告は、Bに対して年休を消化した上で退職する意向を示し、本件届を提出したこと、

〔3〕それにもかかわらず、被告は、原告が年休を消化する前に原告の健康保険の資格喪失手続をなし、その結果、原告が病院を受診した際、健康保険を利用できなかったことが認められる。」

被告は、株式会社であるから、健康保険の強制適用事業所に当たり(健康保険法3条3項2号)、被保険者である原告は、退職したときに被保険者の資格を喪失することになり(同法36条2号)、被告には原告の退職前に健康保険の被保険者の資格を喪失させてはならない義務がある。しかるに、被告の上記〔3〕の行為は、原告が被告を退職する前に原告の健康保険の被保険者の資格を喪失させ、その結果、原告が健康保険を利用して受診できず、原告に精神的苦痛を与えたものであるから、上記義務に違反するもので、不法行為に当たるというべきである。

・原告の損害額

「上記・・・の態様等本件に顕れた一切の事情を考慮すると、原告の慰謝料は5万円、弁護士費用は5000円が相当である。」

3.不法行為の成立が認められた

 健康保険の資格喪失といった行為は、経済的な観点だけで言えば、単に国民健康保険に切り替えれば良いだけの話であるため、単体ではあまり問題になりません。精神的苦痛を受けたことを理由に慰謝料請求をしようとしても、

そもそも請求が認められるか不分明であること、

請求が認められたとしても、微々たる慰謝料しか認められないであろうこと、

から、多くの人は法的措置を断念しているからです。そのため、この種の措置の適否はなかなか裁判例にはなりません。

 しかし、こうした退職時の嫌がらせは実務上、決して珍しくありません。

 そのため、裁判所が使用者の措置を不法行為に該当すると明確に判示したことは、意義のあることだと思います。本件のような裁判例があれば、

健康保険の資格喪失の問題は単なる公法上の義務の不履行に留まらない(私法上も労働者に対する不法行為を構成する)、

金銭賠償を必要とする精神的苦痛が発生する(国民健康保険への切り替えによって経済的損害が埋められる結果、精神的苦痛が生じないということにはならない)、

ことを明確に主張して行くことができるからです。

 今後、同種の嫌がらせに対しては、本裁判例を根拠に対抗して行くことが考えられます。