1.割合的な請求権の制限では救済されないケース
使用者から被用者に対する損害賠償請求は、信義則上相当と認められる限度に制限を受けます。その根拠となっているのが最一小判昭51.7.8最高裁判所民事判例集30-7-689です。この最高裁判例は、使用者から被用者に対する損害賠償請求について、
「使用者が、その事業の執行につきなされた被用者の加害行為により、直接損害を被り又は使用者としての損害賠償責任を負担したことに基づき損害を被つた場合には、使用者は、その事業の性格、規模、施設の状況、被用者の業務の内容、労働条件、勤務態度、加害行為の態様、加害行為の予防若しくは損失の分散についての使用者の配慮の程度その他諸般の事情に照らし、損害の公平な分担という見地から信義則上相当と認められる限度において、被用者に対し右損害の賠償又は求償の請求をすることができるものと解すべきである。」
との規範を示しました。
ただ、この法理に基づいて使用者からの損害賠償請求をゼロにすることができるのかには議論があります。
確かに、最二小判令2.2.28 労働判例ジャーナル97-1 福山通運事件の菅野博之裁判官、草野畊一裁判官の補足意見は、
「使用者である被上告人は、貨物自動車運送業者として規模の大きな上場会社であるのに対し、被用者である上告人は、本件事故当時、トラック運転手として被上告人の業務に継続的かつ専属的に従事していた自然人であるという点である。使用者と被用者がこのような属性と関係性を有している場合においては、通常の業務において生じた事故による損害について被用者が負担すべき部分は、僅少なものとなることが多く、これを零とすべき場合もあり得ると考える。」
と負担割合をゼロにする余地を認めています。
しかし、この判示部分は飽くまで補足意見であり、多数意見を構成しているわけではありません。労働者に一定の過失がある場合、本当に負担割合をゼロにしてくれることがあるのかは良く分かりません。
労働者には、負担割合がゼロにならないと救済されないケースがあります。
それは損害額が極めて多額に上る場合です。例えば、数十億規模の損害が発生しているケースでは、信義則上9割の損害賠償義務に制限が科せられたとしても、数億円規模の損害賠償義務が発生することになります。そうなると、幾ら判例法理によって保護されているといっても、労働者は破産を強いられることになります。
このような問題意識が持たれていたところ、近時公刊された判例集に、重過失がないことを理由として、実験室を全焼させたことによる大学教員の億単位の損害賠償義務が否定された裁判例が掲載されていました。東京地判令7.4.24東京都公立大学法人事件です。
2.東京都公立大学法人事件
本件で被告(反訴原告)になったのは、大学等を設置し、これを運営すること等を目的とする公立大学法人です。
原告(反訴被告)になったのは、被告が設置している大学(本件大学)の理学部化学科の教員(准教授)として働いていた方です。実験室に学生を残して昼食をとりに自宅に戻ったところ、学生が引火性の高い物質が含まれた残液を誤って廃液タンク内に流してしまい、その廃液タンクから出火しました(本件火災)。
本件火災の被害は甚大で、被告側は実験室が全焼するなどの損害を被りました。被告の主張によると、損害額の合計は25億7641万0018円にも及び、損害保険によって17億2072万3212が填補されたものの、8億円近い金額が未填補のまま残ることになりました。
このような事実関係のもと、学生が危険性の高い実験を行うことを認識していながら立ち会わなかったとして、原告は被告から諭旨解雇を告げられました。これに対し、原告は、解雇無効を主張し、地位確認等を求める訴えを提起しました。
他方、被告は、原告に対し、被った損害のうち1億円を請求する反訴を提起しました。
本件の裁判所は、諭旨解雇を有効であるとして原告の請求を棄却する一方、次のとおり述べて、被告の反訴請求も棄却しました。
(裁判所の判断)
「被告は、原告が、本件学生が本件実験を行うことを知りながら、本件学生に一人で本件実験を行わせ、誰にも何も言わずに本件大学を離れたことなど、原告が本件火災の発生を未然に防止するための適切な対応をしなかったこと等により本件火災が発生したとして、原告の注意義務違反の程度が著しく、重過失がある旨を主張する。」
「しかしながら、本件火災は、原告の安全管理等に関する義務の懈怠に起因するものとはいえ、その直接的な原因は、本件学生が残液の希釈化を手順どおりに行わなかったことにあるのであり、原告の上記義務懈怠が直ちに本件火災を発生させるものであったということはできない。また、本件学生が日頃から他に不適切な作業を行っていたとまでの事情は認められず、原告がそれまでに本件学生が不適切な作業を行うことを容認していたという事情もうかがえない。そうすると、原告の上記義務懈怠が債務不履行に該当し得るとしても、本件火災による損害の発生との関係においては、原告に故意に匹敵するような重大な過失があったということはできない。」
「また、同様に、原告の上記義務懈怠は、本件火災による損害の発生との関係において、直ちに不法行為を構成するものとはいい難く、重大な過失があったということもできない。」
「したがって、被告の上記主張は、採用できない。」
3.債務不履行責任の追及も重過失がないことを理由に否定された
不法行為に基づく損害賠償に関しては、失火責任法という特別法があり、
「民法第七百九条ノ規定ハ失火ノ場合ニハ之ヲ適用セス但シ失火者ニ重大ナル過失アリタルトキハ此ノ限ニ在ラス」
と重過失がなければ責任は生じないとされています。そのため、重過失がないことを理由に責任が否定されるというのは、それほど驚くことではありません。
しかし、失火責任法は債務不履行の場合には適用がありません。最二小判昭30.3.25民集9-3-385が、
「『失火ノ責任ニ関スル法律』は『民法第七百九条ノ規走ハ失火ノ場合ニハ之ヲ適用セス・・・・・・』と規定するところであつて、債務不履行による損害賠償請求の本件に適用のないことは明らかである」
と判示しているからです。
そのため、債務不履行責任については軽過失免責がないはずなのですが、裁判所は債務不履行責任についても、重過失がないことを理由に責任を否定しました。
これはかなり画期的なことで、労働者の損害賠償義務が発生する範囲を重過失が存在する場合に限定した事案として、実務上参考になります。