1.合意退職の効力を争うための法律構成
労働契約法上、
「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。」
と規定されています(労働契約法16条)
しかし、合意退職には、労働契約法上、特段の規律がなされているわけではありません。民法の一般原則に従い、錯誤(民法95条)、詐欺・強迫(民法96条)といった意思表示上の問題がない限り、その効力を否定することができないのが原則です。
こうしたドライな考え方に対しては、従来から、修正を施す必要があるのではないかという問題提起がなされていました。修正の方法としては、主に二つの法律構成が考えられています。
一つは、「自由な意思に基づいていない」という法律構成です。
労働法の適用領域では、意思表示に錯誤、詐欺・強迫といった分かりやすい問題がなくても「自由な意思に基づいていない」との理屈で、合意の効力を否定できる場合があります。退職金を放棄してしまった場合、賃金や退職金を引き下げることに同意してしまった場合、妊娠中の軽易業務への転換を契機として降格されることに同意してしまった場合などで認められてきた法理です。この「自由な意思に基づいていない」という法理を合意退職の場面にも適用しようというアプローチです。この系譜に属する裁判例には、
東京地判令3.10.14労働判例1264-42 グローバルマーケティングほか事件
があります。
もう一つは、合意の成立以前の問題として、退職の意思表示そのものが認められないとする法律構成です。
この法律構成は、結果の重大性に注目し、厳格な事実認定(慎重な認定)を行うことで、合意退職した労働者の救済を図るというアプローチです。この系譜に属する裁判例には、
東京地判令2.12.4労働判例ジャーナル110-48 東京都就労支援事業者機構事件、
東京地判令2.11.24労働判例ジャーナル110-40 メガカリオン事件、
東京地判令2.3.4労働判例1225-5 社会福祉法人緑友会事件、
東京地判令3.3.30労働判例ジャーナル114-52 リバーサイド事件、
などがあります。
この二つのアプローチは、理論的に矛盾するものではありません。
退職の意思表示があるのかどうかを慎重に認定したうえ、
仮に、退職の意思表示が事実として認定できたとしても、それが自由な意思に基づいているのかを改めて検討する、
ということは、考え方として十分あり得ます(慎重に検討した結果、退職の意思表示が認定できる事案の多くは、退職意思が自由な意思に基づいているといえそうですが、それは事実上重複している範囲が広いというだけです)。
近時公刊された判例集に、この二つを併用し、合意退職の効力を二段階で審査した裁判例が掲載されていました。大阪地判令4.9.9労働判例ジャーナル130-18 伊藤忠商事事件です。
2.伊藤忠商事事件
本件で被告になったのは、幅広いビジネスをグローバルに展開する大手総合商社です。
原告になったのは、被告との間で期間の定めのない雇用契約を締結し、総合職として勤務していた方です。被告との間で退職合意書を取り交わし、これを前提とした転職支援休暇制度を利用したものの、合意退職の効力を争い、地位確認等を求める訴えを提起したのが本件です。
裁判所は、合意退職の効力を肯定しましたが、その結論を導くにあたり、次のような判断を示しました。
(裁判所の判断)
・本件意思表示が確定的なものであるか否かについて
「前記認定によれば、原告は、令和2年6月25日、本件退職合意書に自ら署名押印してこれを被告に提出したことが認められるところ、原告は、これに先立ち、複数回にわたって退職合意書案の修正要望を述べ、実際に原告の要望に沿った修正がされていること、原告は、同日、被告担当者らから本件退職合意書への署名押印を求められた際、『納得してからでないと出せないです。』と述べてこれを拒否するような素振りを見せている上、被告担当者らに対し、『本件休暇制度は利用したいが、退職合意書となるとすごい重い文章のように思う』旨述べていること、原告は、同日、本件退職合意書に署名押印する直前、被告担当者(P4)から、本件退職合意書に署名するのであれば、納得して署名するよう求められ、署名させられたと感じているのであれば署名しないでほしい旨伝えられていること、原告は、翌26日にも、同年12月31日付けで被告を退職する旨の『誓約書』に署名押印し、退職の理由を『一身上の都合』、退職希望日を『2020年12月31日』と記載した『退職願』を作成した上で、これらを被告に提出していること、原告は、自らの希望により、同年6月29日、被告との間で、最終出社日を同月26日から同月29日に変更する旨の合意をしていること、原告は、同年7月1日以降、実際に本件休暇制度を利用し、同月8日から同年12月18日までの間、約5か月余りにわたって被告から給与の支給を受けながら継続的に転職支援を受けたこと、原告は、本件退職合意書に署名押印するに当たって、大学時代のゼミの先生や父親に相談してアドバイスを受けていること・・・等の事実が認められ、これらの事実に照らすと、原告が本件退職合意書に署名押印してこれを被告に提出したことは、原告の確定的な退職の意思を表明するものであったと認められる。」
・本件意思表示が自由な意思に基づくものであるか否かについて
「前記認定によれば、原告は、被告の人事制度の下、大手総合商社の総合職として、将来、収益実現の基幹業務遂行を目的とする中核的職掌を担い得るよう、約8年間の教育期間においてその業務遂行能力を向上させていくことが求められていたところ、原告には、〔1〕上司や同僚等とのコミュニケーションがうまくとれず、指導・注意されたことの真意を理解せずに適切に対応しなかったり、他人に対して攻撃的になったりすることがあったこと、〔2〕効率的に業務を遂行することができておらず、担当業務量が他社員並みではなかったこと、〔3〕過去の指導・注意事項を十分に理解しておらず、あるいは、指導・注意事項自体を忘れ、ミスを減らすことができなかったこと、〔4〕上司等からの質問に対して明確に回答せず、質問に質問で返したり、何度も同じ反論を行ったりして上司等の指示を遵守しないことがあったこと、〔5〕業務上必要となる会計等の基礎知識の習得を含め自己研さんに努めていなかったことといった課題や問題点が指摘されていたものであり、このことは、前記1に認定した本件休務期間中の原告の行動・・・、本件復職後の原告のP4やP5に対する攻撃的な言辞・・・、被告が原告に対して注意事項や留意事項が記載された書面、『注意書』、『業務上の改善依頼』、『業務上の改善依頼(2)』及び『警告書』を交付していること及びその内容・・・、『振り返り会』における指導内容・・・、通常の営業経理部署担当者が営業課を2課以上担当していたのに対し、原告が1課のみを担当していたこと・・・等によって十分に裏付けられている。」
「そして、前記認定のとおり、被告は、これら原告の課題や問題点に対し、注意事項や留意事項が記載された書面、『注意書』及び『業務上の改善依頼』を交付することで注意・指導するとともに改善を求め、さらに、原告との間で『振り返り会』を実施するという特別の対応をとったが、その間にも『業務上の改善依頼(2)』が発せられている上、『振り返り会』の実施によっても、原告自身が自らの課題や問題点を認識できていないことも多く、これらの課題や問題点に十分な改善がみられなかったものであり、かえって、原告は、令和2年5月21日以降の『振り返り会』において、同会の対象事項や自らの改善事項に関して独自の主張を展開するに至っていること(別紙『振り返り会の概要』参照)からすると、自らの課題や問題点について真摯に振り返り、上司らの指導を受けてこれらを改善しようとする姿勢に乏しかったといわざるを得ない。」
「そうすると、原告は、少なくとも本件警告書が発せられた時点において、『勤務態度若しくは業務能率が著しく劣り、又は協調性に著しく欠け』ており、改善計画を実施してもなお改善がみられない場合には『改善の見込みがない』ものとして解雇の対象となり得る状況に至っていたといわざるを得ず、被告担当者らが原告との面談においてその旨告げたとしても、当時の原告の置かれた客観的状況を告げたにすぎないというべきであるから、そのことをもって原告の自由な意思が妨げられたとはいえない。」
・小括
「以上によれば、本件意思表示は、原告の確定的かつ自由な意思に基づくものであったといえるから、本件退職合意は有効に成立したものというべきである。」
3.二段階での審査
合意退職の効力を判断するにあたり、従前の裁判例は、
退職の意思表示を慎重に認定するか、
自由な意思の法理を用いるか、
いずれか一つの法律構成を用いている例が多かったように思われます。
しかし、本裁判例は両方の法律構成を用い、合意退職の効力を二段階で審査しました。
結論において合意退職の効力は肯定されましたが、裁判所の採用した判断枠組は、他の事案で合意退職の効力を争うにあたり、広く活用して行くことが考えられます。