弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

労基経由で解雇予告手当を請求し、清算条項付きの合意書を交わしていても、最低賃金との差額賃金請求が可能とされた例

1.清算条項

 清算条項とは、

甲と乙は、甲と乙との間に、何らの債権債務がないことを、相互に確認する

といった趣旨の条項を言います。

 この条項が合意書にあると、合意した法律関係以外の権利義務関係は、清算されて消滅してしまうのが原則です。

 それでは、労働基準監督署経由で解雇予告手当を請求し、支払を受けるにあたって清算条項付きの合意書を交わしてた場合、後になって、賃金額が最低賃金に満たなかったことを理由に改めて賃金請求を行うことはできるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。大阪地判令4.4.28労働判例1285-93 吉永自動車工業事件です。

2.吉永自動車工業事件

 本件で被告になったのは、自働車製造業等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、平成16年3月7日頃、被告との間で1日8時間労働・日給6000円の労働契約を締結した方です(ただし、平成16年3月分のみ日給7000円 本件労働契約)。

 本件労働契約が令和2年3月10日に終了した後、原告の方は、労働基準監督署を通じ、解雇予告手当を支払っていないことの是正勧告をしてもらいました。

 その後、原告は被告に対し、次のような内容の「誓約書および確認合意書」(本件合意書)を差し入れました(本件和解契約)。

「私は令和2年3月10日で貴社を退職しましたが、下記事項についてここに誓約し、また確認合意しました。

         記

1.本日貴社より受領しました¥108,810をもって、貴社と私との間に何らの債権債務がないことを確認し、今後貴社に賃金等一切の請求をすることはありません。

2.今般の退職に際し、異議・不満なく承諾し、その後何ら申し立てや問題化しないことをここに誓約します。」

 このように本件合意書は清算条項の含まれているものではありましたが、原告の方は、本件合意書の取り交わし後、本件労働契約の賃金額は最低賃金を下回るものであったとして、差額賃金等を請求する訴えを提起しました。

 本件の裁判所は、次のとおり述べて、本件和解契約による未払賃金債権の清算を否定しました。

(裁判所の判断)

・判断枠組み

「本件和解契約は、原告が被告に対して有する賃金があればこれについても放棄する内容であるところ、賃金債権を放棄する旨の意思表示の効力を肯定するには、その意思表示が労働者の自由な意思に基づくものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在していることを要すると解するのが相当である(最高裁昭和48年1月19日第二小法廷判決・民集27巻1号27頁参照)。」

・本件における検討

上記認定事実のとおり、Aは本件合意書を示し、原告はその内容を確認して署名押印をしたことが認められる。しかし、上記・・・で説示したとおり、平成21年9月30日以降の本件労働契約の賃金額は大阪府の最低賃金額となっているところ、証人Aの証言によれば、被告において、本件合意書の作成時には、最低賃金額と日給6000円との差額の未払賃金が生じていたことを知っていた者はいなかったことが認められるほか、本件合意書の作成時に、上記差額を原告が認識していたことをうかがわせる事情は見当たらない。そうすると、原告は、上記差額の金額はもとより、その存在すら認識せずに本件合意書に署名押印したのであって、このような署名押印に至る経緯に照らせば、労働者の自由な意思に基づくものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在しているとはいえない。

したがって、本件和解契約の成立は認められない。

3.労働基準監督署が絡んでいても賃金債権の清算が否定された

 清算条項付きの合意による未払賃金請求権の清算の是非は、しばしば時間外勤務手当等(残業代)との関係で問題になってきました。そして、時間外勤務手当等の請求権の清算を否定した裁判例が相当数あることは、このブログでも折に触れてご紹介させてきたとおりです。

未払賃金につき十分な説明を受けたと書かれた精算条項付の書面を差し入れていても、残業代請求が可能とされた例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

清算条項付き退職合意書によっても、残業代が清算されないとされた例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

残業代が発生していることの説明を受けずに退職した労働者の方へ-認識なき残業代請求権の放棄は無効 - 弁護士 師子角允彬のブログ

退職にあたり清算条項付きの書面を取り交わしていても、残業代を請求できる可能性はある - 弁護士 師子角允彬のブログ

 その意味では、本裁判例の結論も、それほど驚くようなものではありません。

 しかし、本件の事案としての特徴は、清算条項付きの合意を取り交わすことになった解雇予告手当の請求について、労働基準監督署が関与していることにあります。

 解雇予告手当の支払は、労働基準監督署という専門機関の援助、監視下のもとで実現しています。清算条項の意味についても、原告の方は、労働基準監督署からのアドバイスを得ることが可能であったはずです。

 それでも、本件の裁判所は、

「労働者の自由な意思に基づくものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在しているとはいえない」

として、本件和解契約による未払賃金債権の清算を否定しました。

 この裁判例は、以前、別の判例集に掲載されていた時にご紹介させて頂きましたが、

自由な意思の法理により未払賃金(最低賃金との差額賃金)の清算が否定された例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

本件の問題は事由認めたというだけではなく、むしろ法専門家の監視下のもとで行われている(労働基準局が関与している)との点にあるのではないかと思いました。労働基準監督署の関与が清算条項の効力を維持する理由にならないのであれば、代理人弁護士が関与していたとしても清算条項付きの和解契約の効力を否定することができるかも知れません。セカンドオピニオンに関する相談の中で、時折、代理人弁護士が安易に清算条項付きの合意を取り交わしたとしか思えない事例を散見することがありますが、そうした合意の効力を検討するにあたり、本件は先例として価値を持ってくる可能性があります。