弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

退職にあたり清算条項付きの書面を取り交わしていても、残業代を請求できる可能性はある

1.残業代請求の阻止を意図した清算条項

 退職にあたり、使用者から清算条項付きの合意書の取り交わしを求められることがあります。

 清算条項というのは、

「甲と乙は、本合意書に定めるほか、何らの債権債務もないことを、相互に確認する。」

といった文言の条項です。

 清算条項付きの合意書を交わしてしまうと、それまで存在していた法律関係は、文字通り清算されてしまうことになります。

 こうした効果があることを踏まえ、残業代の請求を阻止するために、労働者に対して清算条項付きの合意書を求める使用者は、少なくありません。

 それでは、退職に対して、清算条項付きの書面を差し入れてしまった場合、残業代を請求する権利も清算されてしまい、以降、労働者は残業代を請求することができなくなってしまうのでしょうか?

 この点が問題になった近時の裁判例に、大阪地判令元.12.20労働判例ジャーナル96-64 はなまる事件があります。

2.はなまる事件

 本件で被告になったのは、中古車自動車の買い取り及び販売等の事業を行う会社です。

 原告になったのは、被告の管理本部情報システム部課長等として勤務していた方です。

 本件は、原告が退職後に被告に対して残業代を請求した事件です。

 原告が退職する際、被告は、

「このたび、一身上の都合により・・・退職致します。なお、貴社に対して、る同契約用、何らの債権債務がないことを確認します。」

との記載がある退職届の提出を求めました(本件退職届)。

 原告は、被告からの求めに応じ、署名・押印した本件退職届を郵送提出しました。

 はなまる事件では、本件退職届の記載によって、原告が残業代を請求する権利を放棄したといえるのではないのかが争点の一つとなりました。

 裁判所は、次のとおり述べて、本件退職届の文言は、残業代請求の妨げにはならないと判示しました。

(裁判所の判断)

本件退職届に記載されたいわゆる清算条項は、実質的に本訴請求に係る時間外割増賃金等を放棄する趣旨を含むものであるところ、このような賃金債権の放棄については、労働者の自由な意思に基づくものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときに有効となる(最二小判昭48・1・19民集27巻1号27頁参照)。
「そして、前記前提事実のとおりに認められる、医師作成の診断書に記載された診断内容・・・及び無断欠勤を継続していた原告の行動状況・・・等に照らせば、被告が指摘するごとく、被告から書面の送付を受けた後に数日程度の時間経過があったとしても、十分な判断能力を備えた状態において検討がされたものではない可能性があり、さらには、本件全証拠によっても、このような賃金債権を放棄することによって原告が得られるそれに見合った利益の存在等を認めることはできないのであって、以上によれば、上記にいう合理的な理由が客観的に存在しているとは評価し得ない。
「このようにして、本件退職届の記載によって原告が本訴請求に係る賃金債権を放棄したとは認定できず、これに反する被告の主張は採用できない。」

3.健康状態も残業代請求が妨げられないとした理由の一つではあるが・・・

 本件の原告は、退職に先立って、被告を無断欠勤していました。被告が処分を示唆して自主退職を希望する場合には本件退職届に署名・押印して返送することを求めたところ、原告が不安障害との病名が付された診断書とともに本件退職届を被告に対して郵送提出したという経緯があります。

 そのため、本件の判示事項は、健康状態に全く問題がなかった場合にまで直ちに一般化できるわけではないとは思います。

 しかし、残業代を請求する権利を放棄・清算してしまうことは、労働者にとって一方的に不利益で、何の合理性もありません。こうした不合理な約定は、交わしてしまっていたとしても、その効力を否定できることがあります。

 本件では、結論として、被告に963万6251円もの残業代の支払が命じられています。

 ハードな残業をしていた方の場合、残業代が相当な規模に膨らんでいることは決して珍しいことではありません。また、「賃金の支払いの確保等に関する法律」という法律があり、退職日の翌日からは14.6パーセントもの遅延損害金を請求することができます(同法律6条1項)。

 退職にあたり、清算条項付きの書面を差し入れてしまっているケースでも、救済の可能性はあるため、気になる方は弁護士のもとに一度相談に行ってみても良いのではないかと思います。

 もちろん、当事務所でご相談に応じさせて頂くことも可能です。