1.清算条項
退職の時、清算条項付きの合意書の取り交しを求められることがあります。
清算条項とは、
「甲と乙は、本合意書に定めるほか、甲と乙との間に、何ら債権債務のないことを、相互に確認する」
といった趣旨の条項です。
会社側が労働者に清算条項付きの合意書の取り交しを求める背景には、退職後の労働者から残業代を請求されたり、ハラスメントを理由とする損害賠償を請求されたりすることを防ぎたいという事情があります(こうした清算条項付きの合意を取り交わしたからといって直ちに残業代が請求できなくなるわけではありませんが)。
清算条項付きの合意書の取り交しを求められても、会社側からの求めである限り、それが労働者に有利に働くことは、あまり考えられません。
しかし、近時公刊された判例集に、退職合意書の清算条項が労働者側の有利に機能しが裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介した、千葉地判令5.11.28労働判例ジャーナル144-18 医療社団法人響心会事件です。
2.医療法人社団響心会事件
本件は医療法人社団が原告となって、
元従業員である被告B、
被告Bの身元保証人である被告C
に対し、研修費用の立替金相当額の支払を求めた事件です。
原告には、
「原告にて勤務する従業員に対して、従業員の自己啓発又はスキルアップのための研修費用等を立替払いして貸与する制度があり、これは従業員が原告に特定の研修を指定し、その研修を受講したい旨を原告に『研修費稟議書』を提出して個別に申込み、原告が許可すれば、原告が従業員に代わって直接研修費用を支払う」
という仕組みがありました(研修費用立替制度)。
本件の原告は、この研修費用立替制度に基づいて立替金が発生しているとして、被告らに対し、89万9300円の支払を請求する訴えを提起しました。
これに対し、被告側は、
受講した研修は研修費用立替制度を利用した場合の研修とは異なる研修である、
立替金支払請求権があったとしても、退職合意書の清算条項によって清算済みである、
などと主張し、として立替金相当額の支払義務を争いました。
裁判所は、
受講した研修は本件研修費用立替制度を理容した研修とは全く別物であるところ、立替金返還合意がないとして、立替金の支払義務がない
としながらも、清算条項の効力について、次のとおり判示しました。
(裁判所の判断)
「被告Bは、令和4年9月26日をもって、原告を退職したが、その際、被告Bと原告との間で退職合意書が取り交わされているところ、双方それぞれに弁護士が代理人として就任しており、双方代理人間で取り交わされた同書面の冒頭には、原告と被告との雇用関係について下記の内容で合意するとの記載があり、下記部分として3項目の具体的条項が記載されており、その第3項に本合意書に定めるもののほか、何らの債権債務がないことを相互に確認するといういわゆる全部精算条項が記載されている・・・。」
(中略)
「前記・・・のとおり、原告と被告Bとの間で退職合意書が取り交わされ、この退職合意書は原告及び被告Bともに委任している法律専門家である弁護士間で取り交わされた合意書であり、清算の範囲については何らの限定がされていないことが認められる。」
「また、本件退職合意書が作成された経緯についても、証拠・・・によれば、被告の主張にあるとおり、退職後に原告は被告Bからの給与及び損害賠償の請求を防止するために、他方、被告Bは原告からの本件各講座の研修費の請求を防止するために全部清算条項を作成したことは容易に認められ、これと異なる原告の前記主張は認められず、本件請求を認める余地はない。」
3.労働者側でも清算したい債務がないかを検討してみてもいいかも知れない
個人的な実務経験の範囲内でいうと、会社側から求められた清算条項付きの合意書の取り交しに応じても、労働者側にはメリットがないことの方が多いように思います。
しかし、本件のような事案もあるため、労働者側にも清算したい関係に心当たりがある場合、会社側から退職合意書が提示されたら、事前に弁護士と相談のうえ、問題なさそうであれば、退職合意書を取り交わしても良いかも知れません(なお、事前に法専門家に相談することなく、会社側から示された清算条項付きの退職合意書に署名することは危険なので、くれぐれもご注意ください)。