1.就労準備費用の返還請求
少子高齢化ほか様々な要因により、本邦では至るところで人手不足・人材不足が進行しています。人手不足・人材不足が深刻化すると、労働者の調達コストが上昇します。労働者の調達コストが上がると、採用にあたり、使用者から、
退職するなら、かかった費用を負担してもらう、
といった条件を提示され、退職時にトラブルになる事案が増えることになります。
こうしたトラブルに対処するため、先ず考えられるのは、労働基準法16条の活用です。
労働基準法16条は、
「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。」
と規定しています。
使用者から請求を受けた労働者としては、退職したら一定額の金銭を支払えというのは、労働基準法16条で禁止されている「労働契約の不履行について」の「違約金」そのものではないかといった理屈で支払いを拒むことが考えられます。
しかし、就労準備費用を労働者に転嫁したい使用者からは、しばしば、
違約金を定めたものではない、
これは就労準備費用の貸付(金銭消費貸借契約)である、
元々、貸金返還義務があるところ、一定期間働いたらそれが免除される形になっているだけだ、
といった反論が寄せられます。
こうした主張の応酬は最早一定の様式になっている感があるのですが、近時公刊された判例集に、こうした金銭消費貸借契約の成立を否定した裁判例が掲載されていました。横浜地判令5.11.15労働判例ジャーナル144-20川久保企画事件です。
2.川久保企画事件
本件で原告になったのは、外国人を雇用する株式会社です。
被告になったのは、ベトナム出身の外国人であり、原告との間で、期間の定めのない労働契約を締結した方です(令和3年2月1日又は3月1日締結)。
被告が令和4年2月28日に退職したことを受け、原告は、
「令和元年7月頃、ベトナム・ハノイにおける採用活動に応募した被告との間で、被告の採用及び就労準備に要する費用(本件就労準備費用)につき、被告が原告において5年間就業した場合はその返還を免除し、5年間を経ずに退職した場合にはその全額を返還する旨の合意(以下「本件金銭消費貸借契約」という。)をし、原告は、被告の就労準備費用として85万9811円を負担した。」
などと主張し、被告に対して同額の返還を求める訴訟を提起しました。
しかし、裁判所は、次のとおり述べて、原告の請求を棄却しました。
(裁判所の判断)
「原告は、原告代表者が、採用面接時に被告に対し、『少なくとも5年間は勤務してほしいと思っていますが大丈夫ですか』と質問したところ、被告が『大丈夫です』と返答し、さらに、被告に対し、被告が日本で就労するためには、ビザの関連費用、旅費、仲介会社に対する手数料等の諸費用が発生することを説明し、『被告が原告を退職するとなったときにはそれらの費用を負担してもらいますが大丈夫ですか』と質問したところ、被告が『辞めるつもりはないから大丈夫です』と返事をし、本件金銭消費貸借契約が成立したと主張し、これに沿う陳述をする・・・。」
しかし、被告は、原告代表者との間で上記の会話があったことを否認する。原告が、令和3年4月30日に株式会社ワールディングに、被告を含む3名の採用のために257万9435円を支払った・・・ことは認められるが、原告が、被告に対し、ビザの関連費用、旅費、仲介会社に対する手数料等の就労準備費用が発生すること、被告が5年間を経ずに原告を退職した場合にそれらの費用を負担することになるとの説明をし、被告がこれを了解したことを裏付ける的確な証拠はない。そして、仮に原告の主張どおりのやり取りがあったとしても、採用の際に、被告が原告から就労準備費用としていくら借入れをしたことになるのか、被告の負担すべき就労準備費用の内訳がどのようなものかを原告代表者が被告に説明したとは認められない。就労準備費用の負担については、雇用契約書・・・に記載がなく、原告と被告との合意を裏付けるような書面の作成もないのであって、本件金銭消費貸借契約が成立したとは認めるに足りない。なお、厚生労働省の指針によれば、事業主による渡航費用等の負担の有無や負担割合をあらかじめ明確にするよう努めることが求められている・・・。」
「よって、原告の主張は採用できず、原告の被告に対する本件就労準備費用の返還請求は認められない。」
3.外国人に限った問題ではない
本件は本邦の会社と外国人労働者との紛争ですが、就労準備費用の転嫁の可否が問題になるのは、何も外国人労働者との間に限った問題ではありません。
この問題で労働者を守るためには、冒頭で述べたとおり、労働基準法16条違反の法律構成が考えられます。しかし、金銭消費貸借契約が労働基準法16条違反を構成するかどうかは、純然たる貸借契約であるのか/実質的に見て労働契約の不履行に違約金・損害賠償予約を定めたものといえるのかという事実認定の問題にかかってくるため、必ずしも安定した判断が得られるわけではありません。そのため、金銭消費貸借契約の成立の段階で防御することができれば、それに越したことはありません。労働契約法16条の議論は成立している債権に対して、その効力をどう考えるのかという問題だからです。
本件の裁判所は、傍論ながら、
『被告が原告を退職するとなったときにはそれらの費用を負担してもらいますが大丈夫ですか』
『辞めるつもりはないから大丈夫です』
程度のやりとりでは、金銭消費貸借の成立には至らないと判示しました。
本件のようなやりとりが交わされることは少なくないように思いますが、雇入れ時の自分の発言が気になって退職を躊躇している方がおられましたら、参考にしても良いように思います。