弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

賠償予定の禁止と留学・研修費用の返還条項の効力

1.賠償予定の禁止

 労働基準法16条は、

「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。」

と規定しています。

 この条文との関係で、しばしば問題になることの一つに、留学・研修費用の返還条項(返還約束)の効力があります。

 企業の中には、労働者に留学・研修費用を貸付け、一定期間勤務した場合に返還義務を免除するという仕組みを設けているものがあります。これは一見すると単なる金銭消費貸借契約であり、労働基準法16条とは何の関係もなさそうに思われます。金銭消費貸借契約は、「違約金を定め」るものでも「損害賠償額を予定する契約」でもないからです。

 しかし、留学・研修費用の返還条項は、内容により労働基準法16条に違反すると理解されています。

 このことについて、定評のある文献は、次のように説明しています。

「労基法は使用者による貸金と賃金の相殺は禁止している・・・が、使用者による貸金(前借金)自体は禁止しておらず、労働契約とは別個に消費貸借契約が存在することはありうる(その返還を一定条件で免除することも違法とはいえない)。労基法16条違反として問題となるのは、労働契約とは別個の消費貸借ではなく、労働契約と結びつけて違約金・損害賠償予定の定めをすることである。これは、労基法16条という強行法規の適用如何を決するものである以上、契約の名称・形式ではなく、その実態に即して客観的に判断されるべきものである。そして、留学や研修が業務の一環として行われておりその費用は使用者が負担すべきであるにもかかわらず、その費用相当額の支払いを定めることは、一定期間勤務するという契約についての違約金(賠償予定)の定めといえる。」(水町勇一郎『詳解 労働法』〔東京大学出版会、第2版、令3〕269頁参照)。

 このように労働基準法16条は、留学・研修費用の返還条項の効力との関係でも問題になるのですが、近時公刊された判例集にも、留学・研修費用の返還条項が労働基準法16条に違反しないのかが問題になった裁判例が掲載されていました。東京地判令4.4.20労働判例1295-73 大成建設事件です。

2.大成建設事件

 本件で被告になったのは、建設工事、土木工事等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、被告の元従業員の方です。在職中に社外研修制度により留学した後、被告を退職したところ、被告から研修費用と賞与等を相殺されてしまったことを受け、賞与等の支払いを請求する訴えを提起しました(本訴事件)。

 これに対し、被告は、原告に対し、相殺後の残額の支払を請求する反訴を提起しました(反訴事件)。

 本件でも研修費用の返還約束が労働基準法16条に反しないかが問題になりましたが、裁判所は、次のとおり述べて、労働基準法16条違反を否定しました。結論としても、被告による反訴請求を認容しています。

(裁判所の判断)

労基法16条が、使用者に対し、労働契約の不履行について違約金を定め又は損害賠償額を予定する契約の締結を禁じている趣旨は、労働者の自由意思を不当に拘束して労働契約関係の継続を強要することを防止しようとした点にあると解される。したがって、本件消費貸借契約が労基法16条に反するか否かは、本件消費貸借契約が労働契約関係の継続を強要するものであるか否かによって判断するのが相当である。

「本件についてこれをみると、被告における社外研修制度の下では、応募・辞退は任意であると定められており、原告も、陸上設計室長らの勧めがあったとはいえ、自らの意思で本件研修への参加を決意したものであって・・・、本件研修に参加するよう、強制されたり、指示されたりしたものではない。また、原告は、本件研修要領が定める目的に沿うように、研修テーマを自ら選定したのであって・・・、研修テーマについて陸上設計室長らの指示を受けたものではない。そして、原告は、研修機関について、上長から具体的なアドバイスを受けたことはなく、自ら選定した大学を受験し、履修科目についても、自ら選択したものである・・・。さらに、本件研修は、令和元年8月までの予定であったところ、同年5月に同年8月までに修士課程を修了することが困難であることが判明したとして研修期間の延長を希望したのは原告であり、延長に難色を示した上長と調整の結果、研修期間の延長が実現したものである・・・。」

「次に、原告が本件研修において履修した科目には、インフラストラクチャーシステムマネジメントや、ビルディングインフォーメーションモデリングなど、建設業を営む被告における業務と関連性を有する内容が含まれるものの、会計基礎論やファイナンス基礎論、オーラルコミュニケーション、法律・紛争解決・交渉などの汎用性が高いと考えられる科目も多く含まれる・・・。そして、原告が、本件研修を通じて、本件研修校において、別紙履修科目一覧記載の各科目を履修し、修士課程を修了したことは、原告のキャリア形成に有益であることは否定し難く、本件研修は、被告以外での勤務において通用する知識、経験や資格の獲得に寄与したというべきである。」

「また、本件消費貸借契約は、労働契約とは別に、書面により締結されたものであり、その詳細は規程及び規則に定められているところ、本件消費貸借契約に基づく貸金返還債務は、社員の申し出による合意退職、休職期間の満了、諭旨解雇又は懲戒解雇の事由がない限り、復職後5年を経過した時点で免除される(規程10条2項)のであるから、免除までの期間が不当に長いとはいえず、免除の基準が不合理であると評価することもできない。そして、本件消費貸借契約に基づき返還すべき本件研修費用の金額・・・は、米国の大学における修士課程の修了に要する授業料や教材費、住居費等の合計額として、本件研修への応募や延長を申し出た時点で十分に予測し得る範囲にとどまっているといえるし、原告の収入額・・・に照らしても、返還を求めることが不当に高額であるとまではいえない。」

「以上のとおり、①本件研修は、応募や辞退、研修テーマ・研修機関・履修科目の選定が原告の意思に委ねられていたこと、②本件研修は、汎用性が高い内容を多く含むものであり、原告個人の利益に資する程度が大きいこと、③貸与金の返済免除に関する基準が不合理とはいえず、返済額が不当に高額であるとまではいえないことからすると、本件消費貸借契約が労働契約関係の継続を強要するものであるとは認められない。」

「したがって、本件消費貸借契約は労基法16条に違反するとはいえない。」

「原告は、本件研修期間中、①海外勤務者と同等の待遇で給与の支払を受けていたこと、②業務課題を提出し、業績評価を受けたこと、③Eラーニングを義務付けられていたこと、④セメスターごとに大部にわたる報告書を提出していたこと、⑤新型コロナウィルスの感染拡大を受けた緊急帰国について指示を受けたことを主張して、本件研修は原告による労務の提供と同視し得る旨を主張する。」

「しかしながら、前記認定事実・・・に加え、弁論の全趣旨によれば、被告における社外研修制度の下では、社外研修生は、研修期間中休職と扱われ(規程7条2項)、労務提供に対する対価としての給与が支払われないため、被告は、社外研修生の生活保障の観点から、海外勤務者に対する給与と同等の給付(ただし、規程8条(2)ただし書所定の手当を除く。)を行うとともに、社外研修生に対して賞与と同等の給付を行うために業績評価を行っていたと認められる。」

「また、原告が本件研修期間中に受講したEラーニングは、休職中の者を含む全社員を対象とし、服務規律遵守を目的とした、毎月十数分程度のものにとどまる・・・。」

「そして、原告が被告から報告書の記載内容について指示されたり、訂正を求められたりした形跡はうかがわれない上、報告書が被告における業務に直接に用いられたと認めるに足りる証拠もない(なお、甲56の1・2によれば、原告が被告に提出した報告書の一部が、陸上設計室の課長が主催する専門委員会と称する会合において共有されたことがうかがわれるものの、本件全証拠及び弁論の全趣旨によっても、同会合がいかなる性格を有するものであるか、明らかでない。)。」

「さらに、被告が原告に緊急帰国を求めるなどしたこと・・・は、休職期間の延長や社員の安全確保に関わる人事管理の観点からされたものにすぎない。」

「したがって、原告が主張する上記各事情を踏まえても、本件研修を原告による労務の提供と同視することはできず、原告の主張を採用することはできない。

3.返還約束有効

 以上のとおり、裁判所は、研修費用の返還約束を労働基準法16条に反せず有効だと判示しました。

 留学・研修費用の返還条項(約束)に関しては、大企業を中心に随分と手法が洗練されてきたなという感があります。海外での研修費用や留学費用となると、金額が高額になることも多いため(本件でも729万円余りの反訴請求が認容されています)、辞めるに先立っては、債務を負担することにならないかを慎重に検討しておくことが必要です。