弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

清算条項付き退職合意書によっても、残業代が清算されないとされた例

1.退職時に精算条項付きの合意書にサインしてしまう問題

 退職するにあたり、勤務先から、

〇と〇は、本合意書に定めるほか、何らの債権債務もないことを、相互に確認する、

といった条項の記載された書面の差し入れを求められることがあります。

 このような条項は、法律関係を清算してしまうという役割にちなみ、一般に「清算条項」と呼ばれています。

 それでは、なぜ、勤務先はこのような条項付きの書面の差し入れを求めるのでしょうか?

 それは退職後に訴えを提起されるリスクを遮断するためです。使用者側が整えるべき安全体制の不備により怪我をしてしまった場合、労働者は使用者に対して損害賠償を請求することができます。また、残業代が適正に支払われていない場合、労働者は使用者に対して時間外勤務手当等を請求することができます。清算条項付きの書面にサインしてしまうことは、こうした法的な権利を清算してしまうことを意味します。損害賠償や時間外勤務手当等を請求しても、清算条項付きの書面にサインしてしまっていると、勤務先から、

「清算条項によって法律関係は清算されていますし、請求には応じられません。」

などと、にべもない対応をとられることになります。

 こうした形式論理的な法律関係の処理には批判的な見解も強く、裁判例の中にも、清算条項による残業代の清算を否定したものが散見されます。

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 近時公刊された判例集にも、こうした清算条項による残業代の清算を否定した裁判例群に一例を加える事件が掲載されていました。東京地判令3.9.10労働判例ジャーナル119-56 エム・テックス事件です。

2.エム・テックス事件

 本件で被告になったのは、ナノファイバー化学繊維製品及び製造機械の生産及び開発等を業とする株式会社です。

 原告になったのは、被告との間で雇用契約を締結し、企画・事務・営業補佐等の業務をしていた方です。被告を退職後、未払時間外勤務手当等(いわゆる残業代)を請求する訴えを提起しました。

 本件には幾つかの争点がありますが、その中の一つに、清算条項付きの合意書の効力をどのように理解するのかがありました。

 原告の方は、退職にあたり、被告との間で、

原告は、被告の退職勧奨に応じ、平成30年1月31日をもって被告を退職する

原告及び被告ともに、本件合意書に定める以外の権利及び義務を有しないことを確認する(7項)

と書かれた退職合意書を取り交わしていました。

 この退職合意書によって未払時間外勤務手当等を請求する権利は清算されてしまったのではないのかという問題です。

 本件の裁判所は、次のとおり述べて、退職合意書による未払時間外勤務手当等の清算を否定しました。

(裁判所の判断)

「被告は、原告と被告が取り交わした本件合意書7項で、原告及び被告ともに、本件合意書に定める以外の権利及び義務を有しないことを確認することが規定されていることを根拠に、原告の割増賃金等の支払請求権については清算された旨主張する。」

「しかしながら、本件合意書には、前文で原告の退職に関し合意をした旨が記載されていたところ・・・、同記載は本件合意書により合意をする対象を原告が被告を退職することに関する諸事項に限定するものとも解することができ、必ずしも割増賃金等の支払請求権の有無やその額等をも含めた合意をする趣旨であったのか明らかではない。また、証拠・・・によれば、本件合意書を取り交わすに当たって、原告とCの間では、健康保険の扱いについての話があり、その点に関し本件合意書の一部の条項について削除する修正がされたが、残業代その他の金銭の請求等に関する話はなかったと認められる。

したがって、本件合意書の前文の上記記載や本件合意書を取り交わすに当たっての原告と被告の間のやり取りからすれば、原告と被告との間で、割増賃金等の支払請求権の有無やその額については、何ら触れられることがなかったのであるから、原告と被告の間において本件合意書7項をもって割増賃金等の支払請求権についても清算をする意思があったとも認め難い。そうすると、本件合意書7項により、原告と被告が原告の割増賃金等の支払請求権について清算したと認めることはできない。

3.説明がなければ、諦めるのはまだ早い

 清算条項付きの退職合意書を交わしてしまっていたとしても、残業代に関する説明が一切なされなかった場合、残業代は清算されていないという理解が成り立つ可能性があります。

 本裁判例が孤立して存在するわけではなく、残業代の請求を認めた裁判例は公刊物に掲載されているだけでも複数存在します。

 請求することができないか気になる方は、一度、弁護士のもとに相談に行ってみるといいと思います。もちろん、当事務所でも相談をお受けすることは可能です。