弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

残業代が発生していることの説明を受けずに退職した労働者の方へ-認識なき残業代請求権の放棄は無効

1.既発生の賃金債権の放棄

 最高裁は、

「既発生の賃金債権を放棄する意思表示の効力を肯定するには、それがの自由な意思に基づいてされたものであることが明確でなければならないと解すべきで労働者ある(最高裁昭和44年(オ)第1073号同48年1月19日第二小法廷判決・民集27巻1号27頁参照)」

との規範を示しています(最一小判平15.12.18労働判例866-14 北海道国際航空事件)。

 それでは、どのような場合であれば

「自由な意思に基づいてされたものであることが明確」

であるといえるのでしょうか?

 近時公刊された判例集に、この論点に関し、興味深い判示をした裁判例が掲載されていました。札幌地判苫小牧支判令2.3.11労働経済判例速報2417-23 ザニドム事件です。

2.ザニドム事件

 この事件の何が興味深いのかというと、残業代が発生していることを具体的に認識しないまま、何らの債権債務もないことなどを定めた退職合意書に署名しても、残業代を請求する権利を放棄したと解釈することはできないと判示した点です。

 本件は原告(元従業員)が被告会社に対して提起した残業代請求訴訟です。固定残業代の有効性のほか、原告が被告に差し入れた「申出書」及び「退職合意書」の解釈が問題になりました。

 原告が被告に差し入れた「申出書」には、

「時間外労働及び休日労働に対する割増賃金が年俸契約月額賃金に含まれることを承知している旨等」

が記載されていました。

 また、「退職合意書」には、

「原告が・・・自己都合退職すること、原告と被告との間に何らの債権債務がないことなど」

が定められていました。

 被告会社は原告が退職合意書を提出したことを根拠に、残業代請求権は放棄されたと主張しました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、退職合意書に残業代請求権を放棄する意味合いを読み込むことはできないと判示しました。

(裁判所の判断)

「被告は、原告が、被告に対し、割増賃金の請求がない旨を記載した書面を提出し、被告との間で、債権債務がないことを確認する旨を合意した書面を作成していることから、原告は、割増賃金請求権を放棄した旨を主張する。前記認定のとおり、確かに、原告は、被告を退職するに当たり、時間外労働及び休日労働に対する割増賃金が年俸契約月額賃金に含まれることを承知している旨等が記載された『申出書』や原告と被告との間に何らの債権債務がないことなどを定めた退職合意書に署名をするなどしている。しかし、原告が、当時、固定残業代部分を超える割増賃金が発生していることやその金額等について具体的に認識していたことをうかがわせる適格な証拠はなく、むしろ、被告は、固定残業代部分を超える割増賃金がないことを前提として、その確認を求める趣旨で、社員に対して申出書に署名することを求めているのであって(被告代表者本人)、原告が上記『申出書』等に署名をしたことから、原告が一切の割増賃金請求権を放棄したと解釈することは困難であり、その他、原告が一切の割増賃金請求権を放棄したと認めるに足りる事情もない。

「したがって、原告が、割増賃金請求権を放棄したとは認められない。」

3.残業代が発生していることの説明を受けずに清算条項付き合意書への署名・押印を求められ、これに応じてしまっても、まだ諦める必要はない

 裁判所は、

「固定残業代部分を超える割増賃金がないことを前提として、その確認を求める趣旨で、・・・申出書に署名することを求め」

るといった手法で、残業代請求権の存在や金額を具体的に認識していない労働者から清算条項付きの退職合意書への署名・押印を取り付けても、そんな書面に残業代請求を封じる意味はないと判断しました。

 使用者が退職時に清算条項付きの退職合意書への署名・押印を迫る背景には、残業代の支払義務を踏み倒す目的があることが少なくありません。札幌地裁苫小牧支部の判決は、そうした済し崩し的な残業代の踏み倒しを許さないとした点に特徴があります。この判決の趣旨に従えば、使用者は残業代を支払う義務があることやその額について労働者に説明しない限り、幾ら清算条項付きの退職合意書を交わしたところで、残業代の支払義務を免れることはできなくなります。

 本件では固定残業代の有効性が認められたため、原告には元金で僅か3987円の残業代請求しか認められませんでした。

 しかし、逆に言うと、僅か3987円の残業代請求権しか存在しなかったとしても、その存在や金額についてきちんと労働者に理解させないまま、清算条項付きの退職合意書を取り交わすことで残業代を踏み倒すことは許されないということです。

 清算条項付きの退職合意書を取り交わしていても、必ずしも残業代請求を諦める必要はありません。清算条項付きの退職合意書を取り交わして残業代を請求できなくなったと後悔している方がおられましたら、一度、弁護士のもとに相談に行ってみると良いと思います。もちろん、当事務所でもご相談をお受けすることは可能です。