弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

退職合意に自由な意思の法理の適用が認められた例

1.自由な意思の法理の射程

 最二小判平28.2.19労働判例1136-6山梨県民信用組合事件は、

「使用者が提示した労働条件の変更が賃金や退職金に関するものである場合には、当該変更を受け入れる旨の労働者の行為があるとしても、労働者が使用者に使用されてその指揮命令に服すべき立場に置かれており、自らの意思決定の基礎となる情報を収集する能力にも限界があることに照らせば、当該行為をもって直ちに労働者の同意があったものとみるのは相当でなく、当該変更に対する労働者の同意の有無についての判断は慎重にされるべきである。そうすると、就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無については、当該変更を受け入れる旨の労働者の行為の有無だけでなく、当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度、労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等に照らして、当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも、判断されるべきものと解するのが相当である(最高裁昭和44年(オ)第1073号同48年1月19日第二小法廷判決・民集27巻1号27頁、最高裁昭和63年(オ)第4号平成2年11月26日第二小法廷判決・民集44巻8号1085頁等参照)。」

と判示しています。

 この最高裁判例は、錯誤、詐欺、強迫といった瑕疵が認められない場合であったとしても、「自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在」するとは認められないとして、労使間での合意の効力を否定する余地を認めるものです。この法理は使用者から一方的に労働条件の不利益変更を押し付けられてしまった労働者の保護に広く活用されています。

 最高裁判例の判示からも分かるとおり、この法理が賃金や退職金の減額の場面で適用されることに疑問の余地はありません。しかし、労働契約の解消、合意退職の場面でも適用されるのかには争いがあります。

 例えば、東京地判平31.1.22労働判例ジャーナル89-56ゼグゥ事件は、

「賃金に当たる退職金債権の放棄(シンガー・ソーイング・メシーン事件判決)、就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に係る同意(山梨県民信用組合事件判決)、女性労働者につき妊娠中の軽易な業務への転換を契機として降格させる事業主の措置に対する同意(広島中央保健生協事件判決)などの存否が問題となる局面においては、労働者が、使用者の指揮命令下に置かれている上、自らの意思決定の基礎となる情報を収集する能力も限られており、使用者から求められるがままに不利益を受け入れる行為をせざるを得なくなるような状況に置かれることも少ないことから、『自由な意思と認められる合理的な理由』を検討して慎重に意思表示の存否を判断することが要請されているものと解される(山梨県民信用組合事件判決に関する判例解説(法曹時報70巻1号317~321頁)参照)。これに対し、退職届の提出という局面においては、労働者は使用者の指揮命令下から離脱することになるうえ、退職に伴う不利益の内容は、使用者による情報提供等を受けるまでもなく、労働者において明確に認識している場合が通常であり、上記各最高裁判決の判旨が直ちに妥当するとは解しがたい。

と述べて退職合意の場面で自由な意思の法理が適用されることを否定しています。

 退職合意の場面で自由な意思の法理の適用が否定されたとしても、退職の意思表示を慎重に認定する一連の裁判例群がある関係で、労働者側が致命的に困るということはありません。

合意退職の争い方-退職の意思表示の慎重な認定 - 弁護士 師子角允彬のブログ

 しかし、意思表示の慎重な認定で自由な意思の法理を完全に代替できるかどうかは必ずしも明らかではなく、両方の理屈が認められた方が労働者に好ましいことは間違いありません。こうした観点から判例集に目を通していたところ、退職合意に自由な意思の法理の適用を認めた裁判例が掲載されていました。東京地判令3.10.14労働判例1264-42 グローバルマーケティングほか事件です。

2.グローバルマーケティングほか事件

 本件で被告になったのは、美容院、理容院の経営等を業とする合同会社(被告会社)とその代表者(被告乙山)らです。

 原告になったのは、被告らが経営する店舗(本件店舗)で美容師として勤務していた方です。被告会社らとの間で交わされた退職合意が不成立・無効であると主張して、労働契約上の権利を有する地位にあることの確認等を請求したのが本件です。

 原告が被告会社と交わした退職合意書には、

「私は、貴社を退職するにあたり、下記の項目に同意したことをここに証します。」

などと書かれていました。

 しかし、これは、上司Cや被告乙山に対する暴行を否認する原告に対し、被告乙山とその弁護士が「(防犯カメラに)全部録画されているから。」「それも映ってます。」「何がしかの賠償になる。「映像も全部分析して、あなたが言ったことも全部暴いて。」「(退職に)応諾しないのであればもう私が出てるから、就業拒否で自宅待機。」で、貯回解雇。」「(懲戒解雇になると)転職先からですね、過去の経歴調査が入るんですよ。」などと言って取り付けたものでした。

 ところが、被告らの事務所に設置されていた防犯カメラには、問題となった暴行の場面は録画されていなかったことが後に明らかになりました。

 こうした事実関係のもと、本件では退職合意の効力が争点になりました。

 裁判所は、次のとおり述べて、退職合意の成立・効力を否定しました。

(裁判所の判断)

労働者が使用者の退職勧奨に応じて退職の意向を示した場合、使用者と労働者との間の交渉力に差異がある一方で、退職が労働者にとって生活の糧を喪失するなどの大きな不利益を生じさせ得ることに照らせば、労働者による退職の意思表示というためには、当該退職の意向が示されるに至った経緯等を踏まえ、労働者の自由な意思に基づいて退職の意思が表示される必要があり、自由な意思に基づくといえるか否かは、当該意思表示をした動機、具体的言動等を総合的に考慮して判断するのが相当である。
「これを本件についてみるに、前記前提事実及び認定事実によれば、原告は、令和元年5月30日、本件面談において、被告乙山及びB弁護士から退職を勧奨されて退職合意書等に署名しており、被告らの退職勧奨に応じて退職の意向を示したものと認められる。」
「そこで、本件面談の経緯を具体的にみると、B弁護士は、依頼者である被告乙山から直前に依頼を受けて本件面談に同席したものの、自ら事実確認する時間的余裕がなく、被告乙山及びCに対する暴行の内容、程度や原告の不良かつ指導によっても改善のみられない勤務状況という事実関係については、被告乙山の説明を前提として当日初対面の原告との本件面談に臨んだものであるから、原告が違法な暴行行為に及んだとの認識に基づき、懲戒解雇事由が存在し、不法行為も成立し得るとの見解に立ち前記認定に係る各発言をしたことは、準備時間が限られており、依頼者からの一面的な情報に基づいていた面があることを踏まえると、依頼者の代理人として交渉に当たった弁護士として必ずしも不当とはいえない面もある。また、本件面談の様子の録音・・・全体を通じてみると、原告は、本件面談前日の被告乙山とのやり取りについて、監禁されたことを基礎付ける証拠は見当たらないにもかかわらず『監禁された』と述べたほか、約2時間に及ぶ本件面談において、退職条件についても自己の要求を具体的に述べた上、結果的に要求の相当部分をB弁護士に手書きで条項を追記させる形で実現した上で退職合意書等に署名しているということができる。このように、本件面談全体をみると、原告が退職に当たって自らの要求を貫徹し、これを実現した面があることは否定できない。」
「しかしながら、上記原告の要求は、本件面談当初から持ち出していたものではなく、原告は、本件面談の当初は、在職を希望していたのである。すなわち、被告乙山は、本件暴行の事実を否定した原告に対し、実際には防犯カメラの映像を確認していないにもかかわらず、『全部録画されているから』、『それも映ってます。」』などと述べ、B弁護士も、被告乙山の同発言を前提として、原告に対し、『映像を全部分析して、あなたが言ったことも全部暴いて。』、『応諾しないのであればもう私が出ているから、就業拒否で自宅待機。で、懲戒解雇』、『転職先からですね、過去の経歴調査が入るんですよ。』などと述べたことから、原告は、当初希望していた在職を希望しなくなり、退職を前提とした退職条件の交渉に終始した経緯に照らせば、原告は、上記被告乙山及びB弁護士の一連の発言により、防犯カメラ映像に本件暴行の様子が記録されており、当該映像の存在及び内容を前提にすると法的に懲戒解雇や損害賠償請求が認められると認識したことにより、在職を諦め、退職の意向を示すに至ったとみるのが相当である。」
「そして、被告乙山及びB弁護士は、本件面談の際、防犯カメラの映像を確認しておらず、しかも、当該映像には本件暴行の場面は記録されていなかったというのであるから、防犯カメラに本件暴行の様子が記録されており、当該映像の存在及び内容を前提にすると法的にみて損害賠償請求や懲戒解雇が認められるという、原告が退職の意向を示すに至った前提となる事情が客観的には存在しなかったものである。」
「さらに、前記前提事実及び認定事実のとおり、原告が、本件面談の当初、本件暴行の事実を否定し、在職を希望していたことに加え、当時、美容師の資格は有していたものの、既に再就職先を確保していたことや、再就職先を探していたことはうかがわれないこと、原告は、当時、扶養すべき家族があり(原告本人)、実際にも被告会社らを退職後に美容師とは全く職種の異なる不動産会社の営業職に就職していることからすれば、退職に伴う原告の不利益は大きいものがあったことなどの事情を総合すると、原告において、防犯カメラの映像に本件暴行の場面が記録されているとの認識を持たなければ、退職の意向を示すことはなかったことが認められる。」
以上に判示したところを総合考慮すれば、原告は、被告乙山及びB弁護士から、実際には記録されていなかった防犯カメラの映像に本件暴行の場面が記録されており、これを前提として懲戒解雇や損害賠償請求が認められると言われ、在職を希望する言動から退職を前提とした退職条件の交渉に移行して退職合意書等に署名したものであるから、その自由な意思に基づいて退職の意思表示をしたものとは認められず、本件退職合意の成立は認められないというべきである。

3.錯誤取消が認められそうな事案ではあるが・・・

 本件では「ある」と思っていた映像が実は「なかった」ものであり、錯誤取消が認められてもおかしくなかったように思われます(民法95条)。

 その意味で、自由な意思の法理によらなければ救済ができなかったケースとは言えないかも知れません。それでも、退職合意・合意退職に自由な意思の法理の適用を認めたことは注目に値します。

 退職合意・合意退職の効力を争うにあたり、本裁判例は、退職の意思表示を慎重に認定する裁判例群とともに、労働者側にとって有力な武器となる可能性があるように思われます。