弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

合意退職の争い方-退職の意思表示の慎重な認定

1.合意退職の争い方

 労働契約法上、

「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。」

と規定されています(労働契約法16条)

 しかし、合意退職には、労働契約法上、特段の規律がなされているわけではありません。民法の一般原則に従い、錯誤(民法95条)、詐欺・強迫(民法96条)といった意思表示上の問題がない限り、その効力を否定することができないのが原則です。

 こうしたドライな考え方に対しては、従来から、修正を施す必要があるのではないかという問題提起がなされていました。修正の方法としては、主に二つの法律構成が考えられています。

 一つは、「自由な意思に基づいていない」という法律構成です。

 労働法の適用領域では、意思表示に錯誤、詐欺・強迫といった分かりやすい問題がなくても「自由な意思に基づいていない」との理屈で、合意の効力を否定できる場合があります。退職金を放棄してしまった場合、賃金や退職金を引き下げることに同意してしまった場合、妊娠中の軽易業務への転換を契機として降格されることに同意してしまった場合などで認められてきた法理です。この「自由な意思に基づいていない」という法理を合意退職の場面にも適用しようというアプローチです。

 しかし、この「自由な意思に基づいていない」という法律構成を合意退職の場面に適用することは、東京地判平31.1.22労働判例ジャーナル89-56ゼグゥ事件によって、次のとおり否定されています。

「賃金に当たる退職金債権の放棄(シンガー・ソーイング・メシーン事件判決)、就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に係る同意(山梨県民信用組合事件判決)、女性労働者につき妊娠中の軽易な業務への転換を契機として降格させる事業主の措置に対する同意(広島中央保健生協事件判決)などの存否が問題となる局面においては、労働者が、使用者の指揮命令下に置かれている上、自らの意思決定の基礎となる情報を収集する能力も限られており、使用者から求められるがままに不利益を受け入れる行為をせざるを得なくなるような状況に置かれることも少ないことから、『自由な意思と認められる合理的な理由』を検討して慎重に意思表示の存否を判断することが要請されているものと解される(山梨県民信用組合事件判決に関する判例解説(法曹時報70巻1号317~321頁)参照)。これに対し、退職届の提出という局面においては、労働者は使用者の指揮命令下から離脱することになるうえ、退職に伴う不利益の内容は、使用者による情報提供等を受けるまでもなく、労働者において明確に認識している場合が通常であり、上記各最高裁判決の判旨が直ちに妥当するとは解しがたい。

 もう一つは、合意の成立以前の問題として、退職の意思表示そのものが認められないとする法律構成です。

 この法律構成は、結果の重大性に注目し、厳格な事実認定(慎重な認定)を行うことで、合意退職した労働者の救済を図るというアプローチです。

 こちらの法律構成に関しては、東京地裁労働部でも採用された裁判例が複数現れています。

 例えば、東京地判令2.12.4労働判例ジャーナル110-48 東京都就労支援事業者機構事件は、

「被告の職員が退職を希望する場合、就業規程8条4号によれば、退職願を提出することが求められているところ・・・、原告が被告に対し退職願を提出したとの事実を認めることはできない以上、原告による退職の意思表示がなされたかどうかについては、慎重に検討する必要がある。」

と判示しています。

 また、東京地判令2.11.24労働判例ジャーナル110-40 メガカリオン事件は、

「仮に、本件退職勧奨の際、原告が被告主張のような発言をしていたとしても、退職が、労働者にとって生活基盤を喪失することにつながる重大な意思表示であることに照らすと、単なる発言が直ちに労働契約解消の法律効果を生じさせる確定的な意思表示としてされたものであるか否かについては慎重に評価する必要がある。」

と判示しています。

 東京地判令2.3.4労働判例1225-5 社会福祉法人緑友会事件は、

「労働者が退職に合意する旨の意思表示は、労働者にとって生活の原資となる賃金の源である職を失うという重大な効果をもたらす重要な意思表示であるから、退職の意思を確定的に表明する意思表示があったと認められるか否かについては、慎重に検討する必要がある。」

と判示しています。

 最近の東京地裁労働部の裁判例の流れとして、退職の意思表示を慎重に認定するというアプローチは定着してきた感があります。

 近時公刊された判例集にも、こうした裁判例の潮流に沿った事件が掲載されていました。東京地判令3.3.30労働判例ジャーナル114-52 リバーサイド事件です。

2.リバーサイド事件

 本件で被告になったのは、寿司店(本件寿司店)を経営する特例有限会社です。

 原告になったのは、被告と期間の定めのない労働契約を締結していたシフト制の労働者です。被告が合意退職の成立を根拠に平成31年3月31日付けで退職処理をしたことに対し、合意退職は成立していないとして、地位確認等を求める訴えを提起したのが本件です。

 被告が合意退職の成立の根拠としたのは、平成31年3月12日に、原告がD店長に対して言った「3月末か4月半ばに辞める」という趣旨の発言です。こうした発言の後、原告は、同月13日以降のシフトを提出せず、出勤しなくなりました。

 このような事実関係のもと、本件では、原告と被告との間に合意退職が認められるのか否かが問題になりました。

 裁判所は、次のとおり述べて、合意退職の成立を否定し、地位確認請求を認めました。

(裁判所の判断)

「原告は最終出勤日の勤務終了の際にD店長に対して3月末か4月半ばに辞める旨の発言をしたが、これをもって原告が退職の意思表示をしたといえるか否かについて検討する。」

「ところで、退職の意思表示は労働者にとって生活の原資となる賃金の源である職を失うという重大な効果をもたらすものであるから、労働者による退職する旨の発言が退職の意思表示であるといえるか否かを判断するに当たっては、当該発言内容のほか、当該発言がされた状況及びその経緯、当該発言後の労働者の言動その他の事情を考慮して、確定的に雇用契約終了の法律効果を生じさせる意思が表示されたといえるか否かを慎重に検討すべきである。

「原告の上記・・・の発言内容は、そもそも退職時期を3月末か4月半ばとする不明確な内容であり、しかも不確定的な表現であった可能性があるものである。そして、前記・・・のとおり原告の上記・・・の発言は原告の最終出勤日の勤務終了時になってD店長からの問いかけに端を発してされたものであり、それまでD店長と原告とは原告が平成31年3月13日以降のシフトを提出しないことに関するやり取りをしたことがなかったこと・・・からすれば、原告は同日時点では積極的に退職の意思を表明することを予定していなかったと推認される。これらのことに加え、原告は同日以降も本件寿司店に私物を置いたままであり、原告とD店長との間で原告が所持していた本件寿司店の店舗の鍵の返還に関するやり取りがされなかったこと・・・も併せて考慮すれば、原告の上記・・・の発言は3月末か4月半ば頃に退職の意思表示をする旨の予定を告げるにすぎないものとみることができる。」

「これに対し、原告は、前記・・・のとおり平成30年11月下旬頃に年内に辞める旨述べた後、平成31年1月以降に勤務日数を減少させ、同年3月13日以降は勤務せず・・・、その後の同年4月10日まで被告に対して連絡したことがなかったのであるが・・・、原告は同年3月まで10年以上にわたって被告で勤務していた者であり・・・、同月13日の後も被告において原告と連絡可能な状態にあったこと・・・、本件雇用契約では週の勤務日数等は特に定められておらず、各アルバイト従業員がシフトを提出する際の希望によって勤務日が定められていたこと・・・、原告は同年4月10日にD店長から社会保険の資格喪失についての連絡を受けた際、今は休むが復帰する旨伝えるなどの本件雇用契約の継続を前提とする発言をしたこと・・・に照らすと、原告が同年3月13日以降のシフトを提出せず、出勤しなかったことなどをもって、原告の上記・・・の発言が退職の予定を告げるにすぎないものであったことを否定することはできない。」

「したがって、原告の上記・・・の発言をもって、確定的に雇用契約終了の法律効果を生じさせる意思が表示されたということはできず、退職の意思表示をしたということはできない。また、上記・・・に述べたところに照らすと、黙示の退職の意思表示があったと認めることもできない。

以上に述べたところによれば、原告と被告との間に合意退職が成立したとは認められない。

3.勢いで軽率に辞めると言ってしまっても、争える場合がある

 伝統的な考え方では、勢いで軽率に辞めると言ってしまったとしても、錯誤、詐欺・強迫といった事情がなければ、合意退職の効力を争うことは困難とされてきました。

 しかし、近時は、退職の意思表示の存在を慎重に検討・認定することで、個別事案における労働者の保護を図る裁判例が出されるようになっています。

 錯誤、詐欺・強迫といった事情のない合意退職事案でも、争える可能性があることは、広く知られておくべきであるように思われます。