1.退職の意思表示の慎重な認定
労使間でトラブルになっている時に、売り言葉に買い言葉で辞意を口にしてしまうことがあります。こうした軽率な発言によって、本意ではないにもかかわらず退職扱いされてしまった場面で労働者を保護する法律構成の一つに、
退職の意思表示が行われたといえるのかどうかを慎重に認定すべきである
という議論があります。後先のことを慎重に考えず口をついて出た辞意は「退職の意思表示」とは認められない、ゆえに合意退職(退職の意思表示の合致)は成立しないとする主張です。こうした理屈で合意退職の効力を否定した裁判例が多々あることは、このブログでも紹介してきたとおりです。
近時公刊された判例集にも、この理屈によって合意退職の成立を否定した裁判例が掲載されていました。大阪地判令4.12.5労働判例ジャーナル131-1 近鉄住宅管理事件です。
2.近鉄住宅管理事件
本件で被告になったのは、分譲マンション、賃貸マンションの管理等を業とする株式会社です。
原告になったのは、被告との間で雇用契約を締結し、マンション(本件マンション)の管理員として働いていた方です。
本件の被告は、本件マンションの住民から新型コロナウイルスが流行しているにもかかわらずマスクをしていないと苦情が届いていることを告げたうえ、原告に対し、他のマンションの清掃業務への配置転換の話をするとともに、本件マンションに立ち入らないように告げました。この配転転換は、管理員として週5日勤務・給与月額16万3000円であったものを、清掃員として週3~5日勤務、給与月額6万円にするというものでした。
その後、被告は、
原告から電話で退職することにしたという連絡を受けたこと(合意退職の成立)、
新型コロナウイルス対策の不履行と通勤手当の不正受給を理由に原告を解雇したこと
を理由に原告を退職したものと扱いました。
これに対し、原告は、合意退職の不成立や解雇の無効を主張して、地位確認や賃金の支払等を求める訴えを提起しました(ただし、係争中に定年に達したため、地位確認請求は取り下げています)。
このような事実関係のもと、裁判所は、次のとおり述べて、合意退職の成立を否定しました。なお、裁判所は、解雇の効力も否定しています。
(裁判所の判断)
「被告は、原告が令和3年6月3日にE課長に電話をかけてきて退職することにした旨を述べ、被告も、同日、退職の申出を承諾したから、同日に退職合意が成立した旨主張し、証人Eもこれに沿う供述をする。」
「しかし、E課長の供述を的確かつ客観的に裏付ける証拠はない。かえって、原告は、同月11日に、F課長から離職票を交付された際に、その作成を拒絶していること・・・、同月14日付けで、被告に対し、勤務地の変更は可能であるが、管理員から清掃員への変更は承服できず、今後も管理員として雇用を続行することを求める旨の書面を送付していること・・・が認められるところ、これらの行為は、原告に退職の意思がなかったことをうかがわせる事情であって、同月3日に退職合意が成立したことと相容れないものである。」
「また、仮に、被告が主張するように、原告が同月3日に電話をかけて退職する旨の意思表示をしていたにもかかわらず、同月11日になって、原告が前言を翻して退職しない旨の意向を示したのであれば、F課長としては、その理由を尋ねたり、退職するよう説得することが想定されるが、F課長がそのような行為をした形跡はうかがわれず、また、同日以降に改めて退職届の提出を求めるなど、退職に向けた協議をした形跡もうかがわれない。」
「さらに、被告は、同月24日付けで、原告に対する普通解雇の意思表示を行っているところ・・・、同月3日の時点で退職合意が成立していると認識していたのであれば、既に原告が被告を退職していることになるから、改めて原告を解雇する理由も必要性もないことになる。そうすると、被告が、原告に対する解雇の意思表示を行ったという事実は、退職合意が成立していたことと相容れない事実となる。なお、被告としては退職合意が成立していると認識しているが、原告のその後の言動を踏まえて念のために解雇の意思表示を行うということは想定し得るが(F課長も同趣旨の供述をしている・・・、被告が原告に送付した書面・・・を見ても、そのような留保を付した上で解雇する旨の記載は見当たらない。」
「確かに、同月11日にF課長が離職票を持参していたこと(・・・なお、原告の陳述・・・を前提にすると、退職届も持参していたことになる。)からすれば、被告としては、原告が同月3日の電話の際に退職する意向を示したとの認識を有していた可能性はあるといえる。しかし、仮に、原告が、同月3日の電話の際に、退職する意向を示したとE課長が認識し得る発言をしたことがあったとしても、労働者にとって退職の意思表示をするということは生活に重大な影響を及ぼすものであることからすれば、口頭での発言をもって、直ちに、確定的な退職の意思表示であると評価するかについては慎重な検討が必要となる。そして、本件において、同日にどのようなやり取りがなされたのか的確かつ客観的に裏付ける証拠はないこと、被告において、通常の退職手続では、従業員から退職届が提出されたものを受理して会社側の承認手続をするという流れになるが・・・、本件において、原告から退職届は提出されていないこと、原告が被告に対し、勤務地の変更は可能だが勤務形態の変更は承服しかねる旨の書面を送付していること・・・など、その後の原告の一連の言動等に照らせば、仮に、同日に原告が何らかの発言をしていたとしても、同発言をもって、確定的な退職の申出であったと評価することは相当ではない。」
「以上からすれば、証人Eの供述を採用することはできず、ほかに、原告と被告との間において、同月3日に退職合意が成立したことを認めるに足りる証拠もない。」
3.直後の矛盾行動の積み重ねが効力を発揮する
上述のとおり、裁判所は、
離職票の作成の拒絶など退職合意とは相容れない行動をしていること、
口頭での発言をもって、直ちに、確定的な退職の意思表示であると評価するかについては慎重な検討が必要となること
などを指摘し、合意退職の成立を否定しました。
民法的な発想でいうと、契約は一旦成立させてしまったら、基本的にはどうにもなりません。しかし、合意退職という契約に限って言えば、辞意の表明が口頭でのものに留まっている限り、すぐに矛盾行動を起こすことによって覆せることがあります。
このような特性があるため、うっかり辞意を口にしてしまったことを後悔している方は、一早く弁護士のもとに相談に行くことをお勧めします。(民事的に有効であるかはともかく)辞意を撤回するなど、確定的な退職の申出意思があったことと矛盾する行動を積み上げる手助けができるからです。