弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

解雇が無効であることを認識していれば退職しなかったとの錯誤主張が通った例

1.解雇が無効だと知っていたら退職しなかった

 退職勧奨の場面で、使用者から解雇権の行使を示唆されることがあります。こうした示威行為を受け、「(有効に)解雇されてしまうくらいであれば・・・」と思って合意退職してしまう方や、辞職の意思を表示してしまう方がいます。

 しかし、元々不本意であったためか、合意退職や辞職の意思表示の効力を否定することができないかという相談は少なくありません。

 合意退職や辞職の意思表示の効力を否定する伝統的な法律構成としては、詐欺や強迫(民法96条1項)、錯誤(民法95条)といった意思表示の瑕疵を主張することが考えられます。しかし、詐欺を主張するには使用者側の故意(騙す意思)を立証しなければなりません。強迫を主張するためには、かなり強烈な脅し文句が使われたことを立証する必要があります。錯誤を主張するためには、

真実は解雇が無効であること、

解雇が有効だと誤信したこと、

諸々の利害得喪・リスクを比較衡量してではなく、解雇を有効だと思ったから合意退職ないし辞職の意思表示をしたこと、

解雇を有効だと思ったから合意退職や辞職に応じてるという労働者の動機が表示されていること、

解雇を有効だと誤信したことに重大な過失がないこと

など、多くの要件をクリアしなければなりません。

 このように民法の規定による救済が難しいため、合意退職や辞職の意思表示の効力を否定する方法として、現在では、

最二小判平28.2.19労働判例1136-6山梨県民信用組合事件で判示されている「自由な意思」の法理の適用を主張することや、

退職合意に自由な意思の法理の適用が認められた例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

退職の意思表示の認定を厳格・慎重に行うことを主張すること

合意退職の争い方-退職の意思表示の慎重な認定 - 弁護士 師子角允彬のブログ

といった法律構成を用いることが多くなっています。

 しかし、近時公刊された判例集に、退職の申し出の錯誤無効(法改正により現在では錯誤による意思表示は無効ではなく取消の対象になっています)を認めた裁判例が掲載されていました。大阪地判令4.1.13労働判例ジャーナル124-54 新時代産業事件です。

2.新時代産業事件

 本件で被告になったのは、労働者派遣事業等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、被告との間で有期労働契約を締結した外国人男性(中国籍)です。来日外国人客への通訳・接客案内業務に従事するため、岐阜県下呂市所在の温泉旅館に派遣されていました。

 しかし、被告は、日本語能力が著しく不十分であることや、一方的に連絡を絶って無断欠勤したことなどを理由に、原告に対し、平成31年1月23日付けで解雇することを内容とした解雇予告通知書を送信しました。

 その後、原告は、被告に対し、新しい仕事を紹介されないので平成31年1月4日をもって退職するというメッセージを送ったり、退職証明書や源泉徴収票の交付を求めたりしました。

 しかし、退職が不本意であったためか、原告の方は、解雇や退職の意思表示の効力を争い、契約期間満了までの賃金の賃金の支払をを求める訴えを提起しました。

 この事案で、裁判所は、次のとおり述べて、退職の錯誤無効を認めました。

(裁判所の判断)

・本件解雇の有効性について

「被告は、本件解雇の理由として、原告の日本語能力が著しく不十分であったところ、原告に対して、日本語を習得するよう注意指導し、教育の機会を与えたが、原告はこれらを全く聞き入れなかったことを挙げる。しかし、上記認定事実・・・で認定説示したとおり、原告が通訳・接客案内業務のための研修を受けた事実を認定することができない。したがって、被告が挙げる上記解雇理由は、これに該当する事実が認められない。」

「次に、被告は、本件解雇の理由として、平成30年12月15日から26日までの間、一方的に連絡を断って無断欠勤をして向陽閣での顔合わせを欠席したことを挙げる。しかし、上記認定事実・・・のとおり、原告は同月14日に水明館での勤務を終えており、その後の勤務について被告から指示があったことをうかがわせる事情は見当たらない。また、上記認定事実・・・のとおり、原告は同月21日にあった面接を被告への連絡なく欠席したが、同面談への出席指示は面談開始時刻のわずか13時間35分前である午前0時10分に前触れなくされたものであり、このような深夜かつ直前の指示に従うことは著しく困難であるというほかない。そうすると、被告が挙げる上記解雇理由は、正当な理由のない無断欠勤と評価することができない以上、解雇理由に当たるとはいえない。」

「また、被告は、本件解雇理由として、原告が被告在籍中に訴外会社との間で労働契約を締結していたことを挙げる。しかし、上記認定事実・・・のとおり、原告は本件解雇前には訴外会社に人材派遣登録をしたにとどまり、同社との間で労働契約を締結して就労したのは本件解雇を告げられた後であるし、原告が人材派遣登録をしたことによって水明館における勤務に支障を来した事情は見当たらない。そうすると、被告が指摘する解雇理由に当たる事実は認められないし、認定された事実は解雇理由として評価することは困難である。」

「以上のとおり、被告が挙げる解雇理由は、いずれも該当する事実が認められないか、解雇理由として評価することが困難である。したがって、本件労働契約は有期労働契約であるところ・・・、本件解雇は労働契約法17条1項所定のやむを得ない事由があると認められないから、無効である。

・本件退職の錯誤無効の成否について

「上記認定事実・・・のとおり、原告は、平成30年12月26日に被告代表者から平成31年1月23日付けで解雇する旨のメッセージを受信したことを受けて本格的に就職活動を始め、同月4日に、被告代表者に対し、平成30年12月14日に派遣先での仕事を終了され、それ以降新しい仕事を紹介されないので、平成31年1月4日をもって被告を退職する旨を記載したメッセージを送信し、さらに、退職証明書や源泉徴収票の交付を求める旨のメッセージを送信した。そして、上記・・・において説示したとおり、本件解雇は客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められず、無効である。」

「以上によれば、原告は、被告代表者から本件解雇を告知されてこれが有効であることを前提に、再就職に当たって退職証明書や源泉徴収票の交付を早期に受けるために本件解雇の効力発生日(同月23日)より前の同月4日に本件退職の意思表示をしたものといえるところ、後に本件解雇が無効であることが判明したものである。そうすると、本件退職は、本件解雇が有効であるという動機が被告に表示されて法律行為の内容となり、もし錯誤がなければ原告が再就職に向けた活動をすることもなかったことから本件退職の意思表示をしなかったであろうと認められる。

したがって、本件退職は民法(平成29年法律第44号による改正前のもの。以下同じ。)95条所定の錯誤により無効である。

3.錯誤無効の主張が認められた例

 冒頭で述べたとおり、錯誤無効(現行法上の錯誤取消)の主張が通ることは、それほど多くありません。本件で錯誤無効の主張が認められたのは、解雇予告通知が書面の形で明確に残っており、これが諸々の意思決定の前提になっていることが分かり易かったからではないかと思われます。

 錯誤無効の主張が通じた数少ない例の一つとして、実務上参考になります。