弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

合意退職(退職の意思表示)の錯誤主張が認められた例

1.合意退職の争い方

 労働者と使用者とで退職を合意することを合意退職といいます。

 合意退職は契約であって解雇ではありません。したがって、解雇権の行使を厳しく制限する労働契約法16条の適用を受けることはありせん。契約として民法上の意思表示理論の適用を受けます。言い換えると、錯誤(民法95条)、詐欺(民法96条1項)、強迫(民法96条1項)といった意思表示の瑕疵がなければ、その効力を否定することができないのが原則です。

 このような原則を補完する法理として、近時では、

自由な意思に基づいているとはいえない、

退職の意思表示がされたといえるのかを慎重に認定する必要がある、

といた理屈で、合意退職の効力を否定する裁判例も現れています。

退職合意に自由な意思の法理の適用が認められた例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

合意退職の争い方-退職の意思表示の慎重な認定 - 弁護士 師子角允彬のブログ

 自由な意思の法理や、退職の意思表示を慎重に認定する手法は、錯誤、詐欺、強迫がある場合だけではなく、不本意な合意をした場合全般を広く適用対象とする理屈です。

 しかし、これらの判例法理は裁判官毎の考え方の振れ幅が大きく、判断が安定しないという難点があります。そのため、これらの判例法理の活用が一般化した現在においても、なお、伝統的な意思表示理論に従って合意退職が認められた事例を検討することの重要性は変わりありません。

 近時公刊された判例集に、錯誤を理由に退職の意思表示の効力を否定した裁判例が掲載されていました。東京地判令4.3.25労働判例1269-73 テイケイ事件です。どのような場合に錯誤の主張が認められるのかを考えるにあたり参考になるため、ご紹介させて頂きます。

2.テイケイ事件

 本件で被告になったのは、警備業、請負業、人材派遣業を業務内容とする株式会社です。

 原告になったのは、被告との間で期間の定めのない雇用契約を締結し、派遣先で警備員として勤務していた方です。昼休憩後の遅刻に伴い勤怠管理システムに本来休憩時間を2時間と記載すべきであるのに、遅刻なく現場に戻ったものとして勤怠入力を行ったところ、被告から「『電子計算機等詐欺罪』という執行猶予のつかない犯罪である」などと告げられたうえ退職勧奨を受け、退職届を作成・提出してしまいました。

 その後、

本件退職のお意思表示は、自由な意思に基づくものではない、

退職届を書かないと被告から電子計算機使用詐欺罪で告訴されると誤信したが、当該誤信がなければ、本件退職届に署名することはなかったのであり、本件退職の意思表示は錯誤により無効である(法改正前は錯誤は意思表示の取消原因ではなく無効原因とされていました。括弧内筆者)、

本件退職の意思表示は、被告の強迫によるものである、

などと退職の意思表示の効力を否定し、地位確認等を求める訴えを提起しました。

 この事案で、裁判所は、次のとおり述べて、錯誤無効の主張を認めました。

(裁判所の判断)

「原告は、本件決意表明において、今後も被告で働くことを前提に改善策を記載しており、本件決意表明を作成した時点では被告を退職する意思を有していなかったことが明らかである。」

「ところが、原告は、K及びHから、原告の行為が『電子計算機使用詐欺罪』に当たり、執行猶予が付かない重大な犯罪であると説明され、Hが『調書を取りましょう。』『このパターンだと、福井と新宿署は両方休みです。』『電子請求なんで。犯罪を行った場所はここ。受け取った場所が新宿。だから、二つの警察署まで。』などと、『警察」』るいはそれに関連する言葉を繰り返し述べたため、警察に突き出されるのではないかとの強い不安を感じたものである。」

「もっとも、電子計算機使用詐欺罪は執行猶予が付かない犯罪であるとのHの説明は虚偽である。また、本件遅刻に関して、原告の給与が過大に支払われていたとしても、原告は、寝坊について気を付けるようにとの注意を受けただけで、休憩時間を2時間と申告するようにとの指示を受けることもなかったのであり、特に遅刻の場合と同様給料が減額になるということに思い至っていなかったのであって、過失で給与を過大に受け取ったにすぎないものと認められる。したがって、原告は故意に給与を騙しとったものではないから、電子計算機使用詐欺罪に当たるとの説明も虚偽に当たるというべきである。」

「このように、原告は、本件決意表明を作成した後、K及びHから、虚偽の情報や説明を受け、犯罪者にされて警察に突き出されるかもしれないという誤った認識を持つ状態となり、強い不安を感じる心理状態となったと認められる。」

「その後、原告は、Kに言われるがままに本件自認書に記載し、Hからの虚偽の説明を認める内容の自認書を作成しているが、これは、Kが言うとおりに自認書を書けば、警察に突き出されることを回避できると考えたからである。原告は、今後同じことが起きないよう反省し、仕事を続けられるように本件自認書を作成したのであり、この時点でも、被告を退職しようとは思っていなかった(原告本人)。」

「原告は、上記のとおり強い不安を感じる心理状態の中で、警察だけは困る旨をKに伝えたところ、K及びHが、現職の人間は警察に連れていくが、退職すれば警察には連れて行かない旨を原告に告げたため、原告は、被告を退職するのであれば警察に突き出されずに済むが、被告に残るのであれば徹底的に調べられて警察に突き出されることになると理解するに至った。そして、原告は、犯罪者として警察に突き出されるか、被告を退職するかのどちらかしかないと思い込み、犯罪者として警察に突き出されることを回避するために、初めて被告を退職するという考えに至り、その場で退職届に署名するしかないと思い込み、本件退職届に署名指印したものと認められる。」

「以上の経緯に照らすと、原告は、K及びHから退職勧奨を受けるまで、被告において就労を続ける強い意思を持っていたのであるが、①Hから、原告の行為が『電子機器使用詐欺罪』に当たり、執行猶予が付かない重大な犯罪であるとの虚偽の説明されたこと、②K及びHから、自己の行為が『電子機器使用詐欺罪』に当たることを認識していた旨の本件自認書を書かされていたこと、③K及びHから、現職の人間は警察に連れていくが、退職すれば警察には連れて行かない旨を告げられたことから、犯罪者として警察に突き出されることを避けるためには被告を退職するしかないと誤信したために本件退職の意思表示をしたのである。

「原告は、K及びHから、現職の人間は警察に連れていくが、退職すれば警察には連れて行かない旨を告げられ、警察に行くのは困ると述べた上で本件退職届を作成しているから、原告の行為が電子計算機使用詐欺罪に当たり退職しなければ罪を免れることができないという原告の退職の動機は被告に表示され、退職の意思表示の内容となっているといえる。」

「そして、客観的にみて、上記の錯誤がなければ原告が本件退職の意思表示をしなかったであろうことは上記認定に照らして明らかである。」

「したがって、本件退職の意思表示は錯誤による意思表示として無効である。

3.警察の威嚇力を背景とした威迫行為は結構ある

 法律相談をしていると、それほど重大ともいえない在勤中の行為が殊更に取り上げられて退職勧奨を受け、辞職や合意退職をしてしまった人を、結構な頻度で目にします。

 こうした人々の中には、誤った法的知識を伝えられ、合意退職や退職の意思表示をしてしまった方も少なくありません。

 本件は事例判断ではありますが、本件のような出来事は割と多く生じています。似たようなことをされて合意退職や退職の意思表示をしてしまった方は、本裁判例などを根拠に、その効力を争って行ける可能性があります。