弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

医師の配転-専門医としてのキャリアの断絶は著しい不利益ではないのか?

1.配転のルール

 配転命令の適法性について、最二小判昭61.7.14労働判例477-6 東亜ペイント事件は、

「使用者は業務上の必要に応じ、その裁量により労働者の勤務場所を決定することができるものというべきであるが、転勤、特に転居を伴う転勤は、一般に、労働者の生活関係に少なからぬ影響を与えずにはおかないから、使用者の転勤命令権は無制約に行使することができるものではなく、これを濫用することの許されないことはいうまでもないところ、当該転勤命令につき業務上の必要性が存しない場合又は業務上の必要性が存する場合であつても、当該転勤命令が他の不当な動機・目的をもつてなされたものであるとき若しくは労働者に対し通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものであるとき等、特段の事情の存する場合でない限りは、当該転勤命令は権利の濫用になるものではないというべきである。」

との判断枠組を示しています。

 つまり、業務上の必要性に基づく配転命令がなされた場合であったとしても、それが労働者に対して通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものである場合、配転命令の効力は否定されます。

 それでは、医師に対し、専門医としてのキャリアを断絶させる配転命令を行うことは、「通常甘受すべき程度を著しく超える不利益」に該当するのでしょうか?

 昨日ご紹介した、東京地判令3.5.27労働判例ジャーナル114-1 日本赤十字社(成田赤十字病院)事件は、この問題を扱った事件でもあります。

2.日本赤十字病院(成田赤十字病院)事件

 本件で被告になったのは、成田赤十字病院(本件病院)を設置する日本赤十字社法に基づいて設立された法人です。

 原告になったのは、大学医学部の循環器内科の医局に所属していた医師の方です。複数の病院で勤務した後、平成12年4月1日、被告との間で労働契約を締結し、循環器内科の医師としての勤務を開始しました。その後、平成19年4月には、本件病院の循環器内科部長に昇任しました。このように循環器内科の専門医としてのキャリアを積んでいたところ、令和元年5月9日、本件病院院長から、同年10月1日付けで人間ドック及び生活習慣病予防健診等を所管する健診部長(健康管理センター長)への異動を内示されました。本件は、この内示通りに行われた同日付けの異動命令(本件命令)の効力が問題になった事件です。

 この事件で、原告は、職種限定合意のほか、東亜ペイント事件で示されている枠組に従って本件命令は権利濫用だとも主張しました。

 権利濫用との関係では、本件命令が、原告に「通常甘受すべき程度を著しく超える不利益」を負わせるものでないのかが問題になりました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、これを否定し、本件命令を有効だと判示しました。

(裁判所の判断)

「本件命令によって、原告は、毎週月曜日の午前中の外来診療を除いて、専門分野である循環器内科の診療を行う機会は無く、カテーテル治療は行えず、原告の自覚によれば、同治療の技術は衰えている・・・。」

「しかし、本件命令後、原告は部長職として変わらない待遇を受け、勤務場所にも変更はない・・・。担当する業務の量が多くなったということもない・・・。約30年来従事し、かつ、急患に対応するため連日24時間体制で電話呼出しにも従事するなど、責任を持って果たしてきた循環器内科の診療をほとんど行えず、誇りとしてきたカテーテル治療の技術の衰えが回避できないことは、原告にとって不利益といえるが、通常甘受すべき程度を著しく超えるとまでは認められない。

3.キャリアの断絶を軽視しすぎではないだろうか

 近時、「45歳定年制」という提言が話題になりました。

サントリー新浪社長「45歳定年制」を提言 定年延長にもの申す(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

 これに限らず、産業界からは人財の流動性を高めたいという要請が継続的に出され続けています。

 しかし、人材の流動性を高めるのであれば、そのカウンターとして、労働者のキャリア・専門性を蓄積する利益にも光が当てられて然るべきではないかと思われます。古典的な配転の判断枠組のみ維持し、人材の流動性を高める施策を打ち出しても、キャリアをぶつ切りにされ、専門性を身に付けられなかった労働者が丸腰で市場に放り出されるだけになってしまうことが懸念されます。

 裁判所は不利益性を著しいとまではいえないと判示しましたが、個人的には労働者のキャリア・専門性を蓄積する利益を軽く見すぎているのではいかと思います。東亜ペイント事件の判断枠組についても、もう少し厳格にする方向で見直されてもよいのではないかという感が否めません。