弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

独立を視野に入れている労働者は会社から支給される「情報秘密保持手当」に注意

1.顧客情報を利用しての独立

 労働者が会社から独立して事業を営もうとした時、顧客情報を利用しないようにと要求されることがあります。強い言葉が使われることが多いこともあり、不安に感じて弁護士のもとに相談に来る方は少なくありません。

 しかし、会社からの要求を深刻に受け止めなければならないケースは、それほど多くはありません。

 確かに、顧客情報が不正競争防止法上の営業秘密に該当する場合、顧客情報を利用しないことを特に約束していなかったとしても、会社からの要求を無視することはできません。しかし、不正競争防止法上の営業秘密は、単に会社が形式的に秘密とすればこれに該当すると理解されているわけではありません。秘密として厳格に管理されていることが必要になるなど、法律で定義された厳格な要件を充足している必要があります(不正競争防止法2条6項)。顧客情報といっても、法所定の要件を満たすほど厳格に管理している会社はそれほど多くありません。会社と特に約束を交わしていなければ、不正競争防止法上の営業秘密に該当しない限り、原則として自由に情報を活用することができます。

 不正競争防止法上の営業秘密に該当しなかったとしても、別途、競業避止契約・競業禁止契約が締結されていて、会社が秘密と指定した情報全般の活用が禁止されていれば、契約を根拠に顧客情報の利用禁止を求められることはあります。しかし、競業避止契約・競業禁止契約が有効であるためには、地理的・場所的な限定があるうえ、一定の代償措置がなければならないとする見解が有力であり、競業避止契約・競業禁止契約も、それほど簡単に有効になるわけではありません。

 しかし、近時公刊された判例集に、情報秘密保持手当を受領していたことなどを根拠に顧客情報の利用の差止を認めた仮処分決定例が掲載されていました。横浜地決令4.3.15労働経済判例速報2480-18 X事件です。

2.X事件

 本件で債権者となったのは、美容室を営む会社(申立外会社)の代表取締役の方です。美容師を個人で雇用し、申立外会社が運営する美容室で就労させ、申立外会社から支払われる業務委託料の中から美容師の賃金を支払うというスキームで収入を得ていた方です。

 債務者になったのは、債権者と雇用契約を締結した美容師です。債権者と雇用契約を交わすに際し、平成27年3月31日付けで次の条項を含む「誓約書兼同意書」を提出していました。

「私は、在職中はもとより、退職(退任)した後も、在職中に知り得た会社およびサロンの取引先(顧客)の経営上、技術上、営業上その他一切の情報(個人情報を含みます。以下『本件情報』といいます。)をサロンの業務外の目的に使用するなどの不正使用や、インターネット上でソーシャルネット等に無断での書き込み、本件情報を知る必要があるサロンの従業者以外の者に開示しないことはもとより、取扱いに関する指示を守り、これらの秘密を保持します。」(本件特約)

 そして、平成28年7月以降、債権者から債務者には、毎月5000円~1万4000円の情報機密保持手当が支払われるようになりました。

 しかし、給料額が低いと考えたことから、債務者は転職を意図するようになり、店舗に設置されたパソコンを操作して顧客データを閲覧し、その顧客の情報を携帯電話(スマートフォン)に記録しました。

 こうした事実関係のもと、債権者が、退職届を提出した債務者に対し、顧客に係る情報を用いた営業活動の禁止等を求めて申立をしたのが本件です。

 この事案の裁判所は、次のとおり判示して被保全権利の存在を認めました。結論としても、営業活動等の差止を肯定しています。

(裁判所の判断)

「本件特約は、債務者に対して、債権者との雇用契約終了後においても、『サロンの取引先(顧客)』すなわち債権者が申立外会社から運営を委託されている美容室の顧客の個人情報について秘密保持義務を負わせるものと解されるところ、退職後に債務者が本件店舗の顧客情報を利用すると、債権者が申立外会社に対して機密情報の秘密保持義務等を負うことから債権者の申立外会社に対する信用が棄損され、また、債権者が運営する美容室の売上等の営業上の利益が真偽されること、本件店舗で就労する債務者は美容師として顧客から情報を取得し、また、顧客の情報を利用するなど顧客の情報を知り得る立場にあること、債権者が債務者に対して情報秘密保持手当を支給していたことを考慮すれば、本件特約は合理性を有しているというべきである。この点、債務者は、『サロンの取引先(顧客)』とは、申立外会社のことである旨主張するが、本件店舗の顧客も差権者の取引先であるし、『取引先』を申立外会社に限定する根拠もないことから、債務者の主張は採用できない。」

「そして、顧客の氏名、住所、電話番号が個人情報に含まれることは一般的に認識されていることから、債務者においてもこれらの情報が個人情報に含まれることを認識したうえで本件特約を締結したと認められる。」

「よって、債務者は、本件店舗の顧客の氏名、住所、電話番号について、債権者との雇用契約終了後においても秘密保持契約を負うというべきである。」

3.顧客情報に限定されていれば、比較的少額の代償措置でも拘束されるのか?

 本件の情報秘密保持手当は、それほど高額というわけではありません。また、労働契約の途中から導入されており、必ずしも雇用時に合意した事実があるわけではなさそうです。

 それでも、裁判所は、情報秘密情報保持手当と顧客情報の不活用を結びつけることを肯定し、本件特約に顧客情報の利用を阻止する効力があることを認めました。

 こうした例が公表されると、今後、少額の手当を支払うことで顧客情報の利用に制限をかけて行くという手法が広がってゆくことが予想されます。

 競業避止・競業禁止とは異なり、顧客情報の利用の禁止に限定されていれば、代償措置(手当)が比較的少額でも、合意に効力が認められる可能性があります。

 一定額の情報秘密保持手当の支払いを受けるのと引き換えに、顧客情報の利用の禁止に合意することを迫られた場合、それが果たして割の合う話であるのかは、慎重に検討しておく必要がありそうです。