弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

女子プロレスラーの自殺問題-番組制作・放送側に法的責任はないのか

1.問題は発信者情報開示だけか?

 ネット上に、

「木村花さんを苦しめたSNSの誹謗中傷。匿名の相手を訴える方法は?」

という記事が掲載されています。

https://news.yahoo.co.jp/articles/560d0eb9adaa2825d52f51e58b4baa978dbfc873

 記事には、

「プロレスラー木村花さん(享年22)の死をきっかけに、SNS上での誹謗中傷やデマについて、大きな話題となっています。これまでいくつもの事件が起こり、問題視されながらも、いっこうになくならないネットいじめやネットリンチ。一般人でも、いつ、なんのきっかけで自分がターゲットとなるかわかりません。」

「もし、SNS上でトラブルが起こったら、どうすべきなのでしょうか?」

と書かれています。

 この問題に関しては、誹謗中傷する人をどのように訴えるかという観点からの解説が多いように思います。

 確かに、誹謗中傷する人が一番悪いのは、その通りなのですが、番組制作・放送側にも法的責任はないのでしょうか。

 遺族の立場になった時、大量の誹謗中傷の発信者情報を一つ一つ特定して行って訴訟提起するというのは、あまり現実的ではないと思います。

 理由はたくさんありますが、主なものとしては、

① 発信者を特定するための手続は、一つやるだけでも、かなり大変であること、

② 大量に集まると人を自殺に追い込むほどの威力を持つ書き込みでも、一つ一つの威力はそれほどでもないこと、

③ 一つ一つの威力が微弱であるため、個々の書き込みに対して、自殺結果への因果関係を認定できるかという問題があること、

④ 因果関係を認定できるとしても、被告に選定した行為者の寄与度を、どのように評価するのかという問題があること、

⑤ 誹謗中傷した加害者に十分な賠償資力があるかが分からないこと(自殺事案の損害賠償金は、むしろ個人で払える人の方が少ない)、

といったことが挙げられると思います。

 そのため、本件のような事件で遺族側から相談を受けた場合、弁護士的な発想で言うと、先ず考えるのは番組制作・放送側を被告として法的責任を追及できないかということになります。

 誹謗中傷者の特定の問題はかなりクローズアップされていて、多くの弁護士がメディア上にコメントを出しています。

 しかし、番組制作・放送側の法的責任をテーマにした論考はあまりみられないため、この問題についての弁護士的な考えを書いてみようと思います。

2.番組制作・放送側の安全配慮義務

 この問題を考えるうえで、先ず考えなければならないのは、番組制作・放送側に、出演者の心身の安全を確保すべき何等かの義務(安全配慮義務)を措定することができるのかどうかです。

 結論から申し上げると、安全配慮義務を導ける可能性はあると思います。

 本件類似の問題をダイレクトに扱った先行裁判例は、私の知る限りではありません。

 しかし、参考になる裁判例なら幾つかあります。

 その中の一つに、大阪地判平27.4.17LLI/DB判例秘書登載という裁判例があります。

 これは、タレント養成学校に所属していた方(X1)が、被告Y1(放送番組の企画制作及び販売等を含めた放送事業を目的とする株式会社)の主催するイベントの開幕特別番組の製作に向けて実施した駅伝の試走リハーサルに参加した際、重度の熱中症に罹患して後遺障害が残ったとして、被告Y1と被告Y2(当時所属していたタレント養成学校の運営主体)に損害賠償を請求した事件です。

 この事件で裁判所は、

「被告Y1は、本件駅伝リハーサルに参加した原告X1らタレント生徒に対し、信義則上または役務提供契約に付随して、原告X1の生命及び身体を危険から保護するように配慮する義務を負う場合があると解される。
「被告Y1が原告X1に対して負う安全配慮義務は、リハーサルの危険性に関する要素として、本件リハーサル時の気象条件、本件駅伝リハーサルにおける原告X1の行動及び求められた運動量、タレント生徒がリハーサルから脱退することの現実的可能性に関する要素として、原告X1の年齢や個性、本件駅伝リハーサルに参加したタレント生徒と被告Y1の関係、本件駅伝リハーサルの危険性に関する被告Y1の認識もしくは認識可能性に関する要素として、本件駅伝リハーサルにおける状況認識、各通達の内容など、以上の諸要素を総合的に考慮して、その有無及び内容が決せられるべきである。
と判示しています。

 被告Y2の責任についても、

被告Y2が原告X1に対して信義則上又は在学契約に付随する安全配慮義務を負うか否か、負う場合の具体的な義務の内容は、本件駅伝リハーサルにおける被告Y2と被告Y1の関係、本件駅伝リハーサルに参加したタレント生徒と被告Y2の関係、被告Y2による本件駅伝リハーサル参加者の募集態様、本件駅伝リハーサルの危険性に関する被告Y2の認識等の具体的事情を総合的に考慮して決せられるべきものである。

と判示しています。

 安全配慮義務違反をめぐる訴訟では、直接の契約関係がないことや、当事者を規律している契約関係が労働契約でないことは、必ずしもネックにはなりません。

 安全配慮義務を負わせることが正当と言えるだけの関係性の存在を立証し、それを説明することができれば、安全配慮義務を導くことは可能です。

 もちろん、その作業は決して簡単ではありませんし、緻密な議論の積み上げが必要になります。安全配慮義務を措定できたとしても、義務違反の事実を立証できるかという問題があります。義務違反の事実が認定できたとしても、結果との間の因果関係を立証できるかという問題もあります。実際、大阪地判平27.4.17LLI/DB判例秘書登載でも、被告Y1の責任に関しては、

「被告Y1は、本件駅伝リハーサルの2回目の試走を中止すべきであったにもかかわらず、これを中止しなかった」

ことを認定しながら、後遺障害との間の因果関係は認定せず、結論として請求を棄却しています(Y2に関しては安全配慮義務違反を否定)。

 しかし、重要なのは、番組制作・放送側の責任が必ずしも一律に否定されるわけではないことです。

 本件は熱中症の事案ではありますが、生命や身体に危険が生じかねない番組を制作・放送する側に対し、出演者の生命及び身体を、予想される危険から保護するように配慮する法的義務があるという結論を導くことは、従来の裁判例の枠組みから考えても、決して無理のある議論ではありません。

 裁判所が採用するかまでは分かりませんが、リアリティ・ショーの出演者に不幸が生じていることが知見として報告・集積されている中、現にSNSで誹謗中傷されていることがリアルタイムで観測できていて、本人が弱っている様子も覚知できていたのであれば、被害にあっている出演者の健康や生命が損なわれないように何等かの安全配慮のための措置を講じるべきだったという議論を組み立てることに、それほどの違和感はありません。

3.自殺の予見可能性

 番組制作・放送側の法的責任を問題にしていくにあたり、もう一つ問題になるのが、自殺の予見可能性をどのように捉えるのかという点です。

 予見可能性という概念は、法文に書かれているわけではありません。

 しかし、損害賠償を請求するにあたっては、随所で問題になる概念です。

 例えば、「過失」という概念は予見可能性と結果回避義務という二つの要素から構成されると理解されています(我妻榮ほか『我妻・有泉 コンメンタール民法 総則・物権・債権』〔日本評論社、第6版、令元〕1467頁参照)。

 因果関係の認定にあたっても、加害者に特別の事情によって生じた損害(普通発生しない損害)を帰責するにあたっては、「当事者がその事情を予見すべきであったとき」(予見可能性があるとき)に該当することが必要とされています(民法416条2項)。

 誹謗中傷で自殺に至る事案というのは、割合的には全体のごく一部であることから、安全配慮義務違反が認められたとしても、予見可能性という観点から、義務違反に過失を観念することができるのか・相当因果関係を認めることができるのかが問題になります。

 ただ、この点については、労働法学の観点からではありますが、

「炭鉱労働者のじん肺発症の事案では、使用者の予見義務(可能性)は、生命・健康という被害法益の重大性に鑑み、安全性に疑念を抱かせる程度の抽象的な危惧で足り、必ずしも生命・健康に対する障害の性質・程度や発症頻度まで具体的に認識する必要はない

(中略)

「長時間労働やいじめ・嫌がらせによる疾病・死亡等の事案では、使用者がその原因であるいじめの存在やうつ防の発症などを認識している場合だけでなく、それを認識しうる状況にった場合にも予見可能性は肯定されうる。したがって、使用者が単に被害者がいじめを受けていたことやうつ病を発症していたことを知らなかったというだけでは、使用者はその責任(結果回避義務)を免れない。また、うつ病等の精神障害が発症した場合には、その病態として自殺に至る蓋然性が高いことが医学的に認められており、そのことを使用者が知らなかった(それゆえ自殺という結果を予想できなかった)というだけでは、使用者の責任は否定されない

という見解が示されています(水町勇一郎『詳解 労働法』〔東京大学出版会、初版、令元〕820-821頁参照)。

 人の死という重大な結果が問題になる事案においては、必ずしも発症頻度が予見可能性を否定するわけではありません。

 私の感覚で言うと、じん肺のような特殊な訴訟類型を除いて、実際の損害賠償請求訴訟では、何だかんだで具体的な予見可能性を主張・立証することが求められることが多いように思われます。

 そのため、軽々なことは言えないにしても、自殺の発生頻度が低いことは、誹謗中傷を放置していていい理由にはならないはずだ(自殺に至る可能性を考えなくて良い理由にはならないはずだ)という議論は、裁判所で展開しても決して変ではないです。

4.メディアは自身の法的責任の存否について議論してもよいのではないか

 この問題については、メディア側からも幾つかの倫理的な問題提起がなされているように思います。

 しかし、現行法の枠内においても、果たして番組制作・放送側に法的な責任がなかったのかについて、考察がされても良いのではないかと思います。この問題が倫理的な観点に矮小化される限り、言い換えると、法令順守の問題として認識されない限り、類似の問題はまた引き起こされると思います。

 誹謗中傷をする人が悪いことは指摘するまでもありませんし、発信者情報開示の手続に種々の問題があることはその通りなのですが、それと同じくらい、遺族の損害賠償の問題をどう考えるのか、番組制作・放送側の法的責任をどう考えるのかの考察には力点が置かれてもいいように思います。

 一般の方には少し難解な内容になっているかもしれませんが(自殺事案の法的責任の所在、損害賠償の問題は、専門家にとっても難解なので、なかなか簡単に説明することはできないのです)、遺族の損害賠償の問題、番組制作・放送側の法的責任に関する議論を進める一助になればと思い、本記事を書いてみました。