弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

化学物質過敏症-化学物質の曝露に関して過失が認められた例

1.化学物質過敏症

 化学物質過敏症とは、

「過去にかなり大量の化学物質に一度曝露された後、または長期間慢性的に化学物質の曝露を受けた後、非常に微量の化学物質に再接触した際にみられる不快な臨床症状」

を言います。

 化学物質過敏症は、空気中に微量に含まれる化学物質が人にどのような影響を与えるのかや、そのメカニズムが未解明な疾患です。

化学物質過敏症とは - シックハウス,化学物質過敏症,家庭用品について | 広島県

8 「化学物質過敏症」とは 東京都保健医療局

 メカニズムが未解明であることは、法的責任を追及するにあたり、様々な壁となって立ちはだかります。

 その内の一つが、昨日テーマにした因果関係です。人体への影響や、影響を及ぼすメカニズムが未解明であることからか、業務が原因で化学物質過敏症に罹患したことを立証することは並大抵のことではありません。

 もう一つが過失論です。債務(安全配慮義務)不履行だろうが、不法行為だろうが、損害賠償を請求するためには、加害者に過失が認められる必要があります。加害行為と結果の発生に因果関係があるだけではありません。加害行為の時点で損害の発生が予見でき、予見結果との関係で求められる結果回避義務に違反したことまで立証できなければ、過失責任を問うことはできません。メカニズムが未解明であることは、結果の具体的予見を困難にすると同時に、どのような回避措置をとったらよいのかを特定しにくくします。そのため、何となく化学物質が不快な臨床症状と結びついているであろうことが確信できたとしても、それが特定の責任主体の過失に基づいていることを論証するのは困難を極めるのが普通です。

 昨日ご紹介させて頂いた、高松地判令5.3.24労働判例ジャーナル137-44 環境技術研究所事件は、化学物質過敏症との関係で、因果関係だけではなく過失を認めた点でも、先例的な価値のある裁判例といえます。

2.環境技術研究所事件

 本件はいわゆる労災民訴の事案です。

 被告になったのは、各種環境測定・分析及び改善業務等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、被告の正社員として、鉛や有機溶剤に関する業務に受持していた方です。被告が従業員の健康に配慮する義務を怠ったことなどを理由、損害賠償を請求したのが本件です。

 本件では、化学物質過敏症の発症と業務との因果関係だけではなく、原告を化学物質に曝露させた被告に過失が認められるのかも問題になりました。

 裁判所は、化学物質過敏症の発症と業務との因果関係を認めたうえ、次のとおり述べて、被告の過失を肯定しました。

(裁判所の判断)

・予見可能性

「前記・・・認定事実・・・のとおり、原告は、被告における業務を行うに当たり、種々の有機溶剤や酸のばく露の可能性は否定し難いとはいえ、ばく露があるとしても、ばく露量は極めて微量であったと認められる。」

「そして、前記1認定事実・・・のとおり、本件分析室の換気には特段の問題はなく、ドラフトチャンバーの排気の性能は劣っていたとはいえ稼働しており、また、有機溶剤等を保存する瓶も冷蔵庫ないし本件分析室内の薬品庫に保管され、保管状態に特段の問題はなかったほか、本件分析室については、原告の平成25年4月の入社当時や平成26年5月の発症時のものではないにせよ、作業環境等の測定結果も問題はなかったと認められる。」

「そうすると、そもそも、化学物質過敏症は生活環境中の極めて微量な化学物質に接することによる症候群で、化学物質に対する適応能力は一人一人異なるところ・・・、被告の本件分析室において、有機溶剤や酸を用いた分析作業等が行われているとはいえ、ばく露量は極めて微量で、しかも、換気等に関して相応の措置が講じられている状況下では、有機溶剤等の使用によって、直ちに、労働者に化学物質過敏症等の傷害の結果が発生することについて予見することは困難であって、予見可能性があったとは認められない。」

「なお、原告は、決して微量ではない有害な物質にばく露していた旨主張するが・・・、労働基準監督署の調査結果においても、総合的にはばく露量は微量なものと思料されるとされているように・・・、それが多量であったと認めるに足りる的確な証拠はないというべきである。」

もっとも、前記・・・認定事実・・・のとおり、原告は、平成26年5月20日に激しい腹痛と下痢症状が発生して以降、症状がおさまらず、そのために病院で診察を受けたことを被告に報告し、同年6月6日には、アレルギーの原因として有機溶剤が疑わしいと病院で言われたことをも被告に報告したこと、その後、いったん体調は良好となったものの、同年7月15日には再び腹痛が出現し、被告に対し酸性ガスが原因であると思う旨を告げたこと、同年8月には腹水が消滅し、同年9月には一般健康診断において異常なしという結果となり、腹痛や下痢等の症状も軽減していったものの、同年11月には再び腹痛や下痢等の症状が生じ、それ以降も同様であったことが認められる。

そうすると、被告としては、原告から、症状の出現・軽減・再出現の事実、受診の事実、考えられる原因等について告げられていたことからすると、前記・・・認定事実・・・のとおり6か月以内に1回の有機溶剤等健康診断が実施されていれば、遅くとも、アレルギーの原因として有機溶剤が疑わしいと病院で言われた同年6月6日から6か月後の同年12月6日の時点では、他の従業員には同様の症状はなかったによせ、原告の体調不良が一過性のものではなく、被告の業務に起因する疑いがあるということを認識できたというべきであるから、同時点において、有機溶剤等の使用によって、原告に化学物質過敏症等の傷害の結果が発生し、それが増悪することについて予見すべきであり、予見可能性があったと認めるのが相当である。

「なお、原告は、同年5月21日以降身体の不調を訴え続けたことや、同年6月6日に有機溶剤が原因であると伝えたことをもって、遅くとも、同時点において予見し得た旨主張するが(前記第2、4(2)ア)、上記アと同様、原告が身体の不調を訴えたことをもって直ちに予見すべきであったとはいい難く、また、同月17日に受診した結果は、原告の体調が落ち着きつつあって経過観察となったというものであったことからしても、同月6日の時点で直ちに予見すべきであったともいい難い。」

(後略)

・結果回避義務

「原告は、前記・・・のとおり、被告には諸法令等で示されているとおり、原告が稼働していた作業環境中に、少なくとも特定の物質を存在させ、かつ、原告の体内に取り込まれる状況としてはならない義務があるのにこれを怠った旨主張する。」

「確かに、使用者は、労働者に対し、労働者が労務提供のため設置する場所、設備もしくは器具等を使用し又は使用者の指示の下に労務を提供する過程において、労働者の生命及び身体等を危険から保護するよう配慮すべき義務、すなわち安全配慮義務を負っているものではあるが、使用者がいかなる具体的な安全配慮義務を負うのかについては、原告が特定すべきであるところ、原告の上記主張だけをみると、被告の負うべき義務が全く特定されていないといわざるを得ず、このような主張を採用することはできない。」

「もっとも、原告においても、被告による結果回避義務違反の具体的な内容を主張するところであるから、以下、この点を検討する。」

「〔1〕本件分析室の換気、〔2〕ドラフトチャンバーの能力については、前記・・・認定事実・・・のとおりであり、また、本件分析室の作業環境状態は前記・・・認定事実・・・のとおりであって、換気状態が良くなかったことや、ドラフトチャンバーの能力が不十分で不適切であったことを認めるに足りる的確な証拠はない。」

「〔3〕サンプリングバッグからの排出は、前記・・・認定事実・・・のとおり、本件分析室で行われているところ、本件分析室の換気状態は上記のとおりであり、十分にばく露を防御できる作業環境ではなかったことを認めるに足りる的確な証拠はない。」

「〔4〕廃液タンクの蓋の破損の事実及び直ちに破損に対する対処がされなかった事実自体は、前記・・・認定事実・・・のとおり認められるが、廃液タンク内の物質が空気中に漂っていたことを認めるに足りる的確な証拠はない。」

「〔5〕金属分析の前処理のために行う、捕集濾紙の硝酸及び塩酸を使用した加熱分解の際に、バケツの中の酸性ガス回収液が揮発する状況であり屋外に有害なガスが充満していたことや、〔6〕ガス漏れなどによる周囲への漏洩を認めるに足りる的確な証拠はない。」

「〔7〕有機溶剤等を保存する瓶からの漏洩については、当該瓶の保管状態は前記・・・認定事実・・・のとおりであり、上記漏洩を認めるに足りる的確な証拠はない。」

「〔8〕マスク、防護衣などの装備については、前記・・・認定事実・・・のとおり、本件分析室には、局所排気装置としてのドラフトチャンバーが設置されていたから、有機溶剤中毒予防規則によるとマスクの使用が必要であるとはされておらず、また、労働安全衛生規則593条、594条によっても、マスクや防護衣を着用させる義務があるとは直ちには認められない。」

「〔9〕健康管理及び法定の検診等については、前記・・・認定事実・・・のとおり、被告については、6か月に1回の作業環境測定の実施及び6か月以内に1回の有機溶剤等健康診断の実施が必要であるのに、被告はいずれもしていなかったことは確かである。しかし、上記・・・のとおり、本件分析室については、原告の平成25年4月の入社当時や平成26年5月の発症時のものではないにせよ、作業環境等の測定結果も問題はなかったと認められることからすると、作業環境測定の実施によって結果が回避できたとは認められない。そして、上記・・・のとおり、有機溶剤等の使用によって原告に化学物質過敏症等の傷害の結果が発生し、それが増悪するであろうことについて、被告に予見可能性が生じたのは平成26年12月6日の時点であって、上記健康診断の実施によってその結果が回避できたとは認められない。」

「〔10〕安全衛生教育については、確かに、被告が十分な安全衛生教育を行っていたことを認めるに足りる証拠はないものの、十分な安全衛生教育の実施によって結果が回避できたと認めるに足りる証拠もない。」

〔11〕原告の身体の不調発生後の対応について上記・・・のとおり、被告は、平成26年12月6日の時点において、有機溶剤等の使用によって、原告に化学物質過敏症等の傷害の結果が発生し、それが増悪するであろうことについて予見可能性があったと認められる。

したがって、被告においては、同時点において、原告の健康に配慮して、原告の就業場所の変更等の配置転換を行って健康の保持に必要な措置を講ずることは容易に可能であったから、原告からの申出がなくとも、そのような措置を講ずるべき義務があったのに、前記・・・認定事実・・・のとおり何ら措置を講じることなく、これを怠ったものと認めるのが相当である。

(中略)

したがって、被告は、原告に対する化学物質のばく露に関する過失及び安全配慮義務違反があると認められるから、不法行為及び安全配慮義務違反による損害賠償責任を負うというべきである。

3.化学物質過敏症と過失責任

 メカニズムが不明瞭であることから、化学物質過敏症と民事裁判は相性が良くありません。化学物質過敏症への罹患を理由とする労災申請、損害賠償請求が認められる例は、私が観測する限り、決して多くはありません。

 本件は、過失責任が認められた数少ない裁判例として、メカニズムが不明瞭な疾患との関係での予見可能性や結果回避義務の主張・立証活動の参考になります。