弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

弁護士の重過失によって訴訟で係争中の損害賠償請求権が清算されてしまった例

1.労働事件の特徴-権利関係の錯綜

 労働事件の特徴の一つに、権利関係が錯綜しやすいことが挙げられます。

 例えば、サービス残業やパワハラの横行している会社で、クビになった従業員が解雇の効力を争う場合、

労働契約上の権利を有することの確認、

解雇が無効であることを前提とした賃金の請求、

時間外勤務手当の請求、

付加金の請求、

パワハラを理由とする損害賠償請求、

といったことが請求の趣旨に掲げられます。

 従業員の側に何らかの不手際があって会社に損害を与えていた場合、会社側から損害賠償を求める反訴を提起されることもあります。

 請求の趣旨がたくさんある事件では、それを基礎づける請求の原因も分厚くなり、原被告間で大量の書面が行き交うことも珍しくありません。

 また、従業員は集団になって会社を訴えることもあります。争点がある程度共通するとはいっても、一人ひとりの権利関係を主張、立証して行くためには、かなりの分量の主張、証拠が必要になってくることがあります。

 従業員1人が持つ権利の個数という面においても、多数当事者訴訟に発展しやすいという面においても、労使紛争は権利関係が錯綜・複雑になり易い事件類型だと思います。

 一つの手続の中で応酬される書面の分量があまりに多くなると、本当に収拾がつかなくなるためか、同一当事者間で複数の訴訟が同時並行的に係属するという事態が生じることもあります。

 東京地判平30.2.9判例タイムズ1463-176も、そうした経過を辿っていた事件の一つです。

 これは、弁護士が限定のない清算条項を用いて訴訟上の和解をしてしまったところ、同時並行して裁判所に係属していた損害賠償請求権まで清算されてしまったという事件です。

2.東京地判平30.2.9判例タイムズ1463-176

(1)事実経過

 この裁判例は、会社が原告となって、元従業員に対し、損害賠償を請求する訴訟を提起した事件です。

 原告会社は、被告従業員が、原告代表者の暴行等を撮影した動画を週刊誌に提供したり、動画共有サイトに投稿したり、ツイッターで言い触らしたりしたとして、不法行為を理由に損害賠償請求訴訟を提起しました(平成27年(ワ)第16414号)。訴状送達は平成27年7月2日であるとされています。

 これに対し、被告従業員の側から対抗措置がとられました。被告従業員は、平成27年8月11日、原告会社に対し、未払賃金等を請求する訴訟を起こしました(平成27年(ワ)第22642号)。

 未払賃金等請求訴訟は、多数の従業員達が既に提起していた未払賃金等請求訴訟と併合審理されることになりました。その後、審理が続けられ、平成28年8月26日、原告会社が被告ら27名の従業員に対し、総額2660万円を支払う内容の和解が成立しました(別件和解)。

 この別件和解には、次のような清算条項が含まれていました。

「原告ら(ややこしいですが、平成27年(ワ)第16414号の被告従業員らのことです 括弧内筆者)及び被告(平成27年(ワ)第16414号の原告会社のことです 括弧内筆者)は、原告らと被告との間には、本件和解条項に定めるもののほか、本件に限らず、何らの債権債務がないことを相互に確認する。ただし、原告乙山二郎及び被告との間の当庁平成27年(ワ)第17410号意見に係る債権債務については、この限りでない。」(別件清算条項)。

 この別件清算条項付きの和解が成立した時、原告会社の被告従業員に対する平成27年(ワ)第16414号事件は、依然として裁判所に係属したままでした。

 この別件清算条項付きの和解が成立したのと同じ日、平成27年(ワ)第16414事件の期日が行われました。

 そこで被告従業員は、別件清算条項により、本件で問題となっている損害賠償請求権は清算されたと主張しました。

 こうした主張の当否が問題になったのが、本件裁判例です。

(2)裁判所の判断

 裁判所は、次のように述べて、本件損害賠償請求権は、別件清算条項によってきれいさっぱりなくなってしまうと判断しました。

訴訟代理人たる弁護士が関与して成立した訴訟上の和解の文言の解釈においては、その文言自体が相互に矛盾し、又は文言自体によってその意味を了解し難いなど、和解条項それ自体に瑕疵を含むような特別の事情のない限り、和解調書に表示された文言と異なる意味に解すべきではない(最高裁昭和43年(オ)第1246号同44年7月10日第一小法廷判決・民集23巻8号1450頁)。」
前記のとおり、別件清算条項は、『原告ら及び被告は、原告らと被告との間には、本和解条項に定めるもののほか、本件に限らず、何らの債権債務がないことを相互に確認する。ただし、原告G及び被告との間の当庁平成27年(ワ)17410号事件に係る債権債務については、この限りでない。』というものであり、『本件に関し』との限定を付さない包括的清算条項である。
「しかも、別件清算条項にはあえて『本件に限らず』との文言が付加されているのであるから、別件和解成立時に原被告間に存在する債権債務については、別件訴訟2の訴訟物とされた債権債務に限らず、あらゆる債権債務を対象とする趣旨であると解するほかない。

 また、原告会社は、

本件損害賠償請求権が別件清算条項で清算されるとは思っていなかった、

原告会社が錯誤に陥っていたことを被告従業員は知っていたのだから、これを保護する必要はない、

とも主張しました。

 しかし、裁判所は、次のように述べて、錯誤無効の主張を排斥しました。

「本件損害賠償請求権は別件清算条項の対象になるところ、弁論の全趣旨によれば、原告はこれと異なる認識を有していたことが認められるから、この点について原告の意思と表示の間に不一致があり、原告に要素の錯誤があったと認められる。
しかしながら、別件和解は原告の訴訟代理人たる弁護士が関与して成立したものであるところ、法律家である弁護士が別件清算条項の文言を見れば、別件和解成立時に原被告間に存在するあらゆる債権債務がその対象になることは容易に理解し得るものである。
それにもかかわらず、これと異なる認識を有したというのであるから、原告の上記錯誤には重大な過失があるというべきである。
「これに対し、原告は、原告の上記錯誤について被告は悪意であった旨主張する(なお、原告は、原告の上記錯誤について被告には過失があった旨も主張するが、法的根拠がなく、主張自体失当である。)。」
「しかしながら、別件清算条項の文言に照らせば、被告においては、本件損害賠償請求権が別件清算条項の対象になることについては原告も同様の認識を有していると認識していたものと推認され、これを覆すに足りる証拠はないから、被告が原告の上記錯誤について悪意であったと認めることはできない。」

3.現に裁判所で係争中の権利まで清算されるのは厳しいようにも思われるが・・・

 現に裁判所で係争中の事件の処理について何の言及もしていない以上、本件で原告会社が戦意を喪失していないことは明らかで、清算の対象は本件損害賠償請求権にまで及ぶものではないという判断も有り得たとは思います。

 しかし、そうした解釈を裁判所は採用せず、あくまでも全部の権利関係が清算されると判断しました。

 のみならず、本件の損害賠償請求権が清算されないと誤信したことは、訴訟代理人たる弁護士の重大な過失だとまで指摘しました。

 一般に弁護士が独断で訴訟上の和解をしてしまうことはありません。和解にあっては、必ず和解条項案を依頼人に確認してもらい、依頼人の了解のもとで和解します。

 一般の方は、法律の素人であることが多く、大まかなことは理解できても、技術的なことは、それほどチェックできないのではないかと思います。

 しかし、技術的なことを熟知しておくまでの必要はないものの、清算条項の意味くらいは分かっておいた方が良いかもしれません。

 和解条項案の末尾の方に定型的な条項として挿入されるため、読み飛ばされがちですが、別件手続との関係で、決定的な重要性を持ってくる可能性のある重要な条項だからです。