弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

勤務先から損害賠償を求められ、言われるがままに念書を作成してしまった方へ

1.勤務先からの損害賠償請求

 仕事でミスをしたことを理由に、勤務先から損害賠償を請求される例があります。

 しかし、勤務先からの労働者に対する損害賠償請求は、それほど簡単に認められるわけではありません。損害賠償責任が認められる場合も、損害の公平な分担という見地から、信義則を根拠に、多くの事案で減額措置がとられています。

 独立行政法人 労働政策研究・研修機構のホームページでも、

「労働者が損害賠償責任を負う場合の賠償額についても、社会通念に照らして加害行為によって生じたといいうる(加害行為との間に『相当因果関係』が認められる)損害額を賠償するという民法の原則は修正され、信義則(民法1条2項)を根拠として、上記の原則に基づく額からの減額が行われる。」

との理解が示されています。

https://www.jil.go.jp/hanrei/conts/06/65.html

 勤務先の金銭を横領したといったような悪質な場合は別として、単なる不注意から勤務先に損害を与えてしまった場合に関して言うと、全損害の賠償をしなければならないようなケースは限定的だと言っても差し支えないように思われます。

 しかし、法律相談を受けていると、

「勤務先から損害賠償を求められ、損害を賠償するという念書にサインさせられた。」

といった相談は結構あるように思います。

 ミスをした負い目もあって、その場では仕方ないとサインしたものの、よくよく考えると金額の根拠も良く分からないし、言われるがままにお金を払わされるのは納得いかない、という趣旨の相談です。

 こうした場合、詐欺・強迫といった問題行為が介在してれば、ある程度何とかなります。しかし、そうした分かりやすい問題がない場合、言い換えると、念書の徴求・作成自体は穏当に行われているという場合、相談者の利益を守るために、どのような法律構成が考えられるのかは、結構難しい問題です。

 過去、相談に乗ったケースでは、

「念書の作成は準消費貸借であるところ、旧債務が存在するとは思われないから払わない。」

という論理構成を用いました。

 少し荒っぽい説明にはなりますが、損害賠償債務は合意によって借金に転化させることが可能です(民法588条)。これを専門的な用語で準消費貸借といいます。

※ 民法588条(準消費貸借)

「消費貸借によらないで金銭その他の物を給付する義務を負う者がある場合において、当事者がその物を消費貸借の目的とすることを約したときは、消費貸借は、これによって成立したものとみなす。」

 ただ、借金に転化させるにあたっては、既に「金銭・・・を給付する義務」(旧債務)を負っていることが条件になります。

 私が用いたのは、

「元々、労働者側で損害賠償責任を負うような場面であったとは認識していない。旧債務が存在しない以上、念書に基づいて発生したとされる借金も存在しない。」

といった論理です。

 これまで経験したケースに関して言えば、相談者は既に退職した方ばかりで、金額規模もそれほどでもなかったことから、通知を送って金銭を支払わないでおいたら、勤務先側もそれほどの執着を見せず、有耶無耶になって紛争が沈静化していました。

 そのため、上記のような理屈が訴訟での実用に耐えられるかどうかは、良く分からないまま、思考に霧がかかったような状態になっていました。

 そのような中、この種の事案を処理するにあたり、参考になる裁判例が判例集に掲載されていました。東京高判平30.5.17判例タイムズ1463-99です。

2.東京高判平30.5.17判例タイムズ1463-99

 この事案で原告(被控訴人)になったのは、呉服卸売等を業とする会社です。

 被告(控訴人)になったのは、原告の元従業員の方です。

 不正経理によって売掛金の回収ができなくなったとして、原告は被告に145万円の支払いを求めました。

 これに応じ、被告は総額145万円を分割して弁済することを合意し(本件分割合意)、その旨を記載した念書(本件念書)を作成しました。

 分割が滞ったことから、原告が被告を訴えたのが本件です。

 ここで被告が用いた論理構成の一つが、

「準消費貸借契約に類似する」

という議論です。

 具体的には、

「本件弁済合意は、原因となる債権債務関係が存在することを前提に、その支払を約束するものであり、その性質は準消費貸借契約に類似する。その成立要件として、従前の債務の存在が必要である。」

という立論です。

 一審はこれを独自の見解であると一蹴したようですが、被告側控訴を受けた本件二審はこの議論を受け入れました。

 本件二審は次のとおり判示しています。

(裁判所の判断)

「本件弁済合意は、控訴人と被控訴人との間で、控訴人の損害賠償責任の有無やその賠償額について交渉が行われた上で合意されたものではなく、互いに譲歩してその間に存する争いをやめることを約したものとはいえないから、和解契約とは認められない。」

「合意に至る上記経緯からすると、本件弁済合意は、被控訴人の要求する金額について控訴人と被控訴人との間で分割支払の合意がされた債務弁済契約と認めるのが相当である。したがって、本件弁済合意で定められた債権債務が認められるには、その原因となった被控訴人の控訴人に対する損害賠償請求権が存在することが必要である。

・・・

「被控訴人は、控訴人に対し、本件弁済合意に係る債権として、合計59万3500円の損害賠償請求権を有していたことが認められるが、被控訴人は、平成26年3月までに、これを上回る額を回収済みと認められるから、被控訴人の控訴人に対する本件弁済合意に係る債権の請求権はない。」

3.念書の作成に不穏当な行為が介在していなくても、賠償額は実損害の限度に抑えられる可能性がある

 本件裁判例の趣旨からすると、責任の存否や額についての実質的な交渉を経ず(和解契約とは認められない状況下で)、勤務先に言われるがまま損害賠償を払うという念書を交わしたとしても、ある程度何とかなる可能性があります。

 義務を負うことそれ自体を否定することは難しくても、実損害の限度に債務を圧縮できる余地はあると思います。

 お困りの方は、ぜひ、一度ご相談ください。