弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

退職者に対するセミナー受講料返還請求の可否

1.賠償予定の禁止

 労働基準法16条は、

「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。」

と規定しています。

 ここでいう「労働契約の不履行」については「典型的なものは、期間の定めのある労働契約において期間満了前に退職する場合であるが、契約形式は期間の定めのないものであっても、そのうち一定期間について就業義務を予定する場合、例えば、会社所属の技能教習所を修業した者に対し、修業期間の二倍に相当する期間の勤務義務を課し、この勤務義務違反者に対して一定額の弁済義務を課すること」も該当すると理解されています(厚生労働省労働基準局編『労働基準法 上』〔労務行政、平成22年版、平23〕241-242頁参照)。

 この規定との関係でしばしば問題になるのが、「特定の修学又は研究の費用を使用者が貸与し、その条件として、一定期間当該使用者のもとで勤務した場合は費用の返還の要はないが、その一定期間勤務しなかった場合には費用を返還させるという契約」の効力です。こうした契約の効力は、損害賠償予定の契約と考えられる場合には無効となり、純然たる貸借契約として定められたものであれば有効だと理解されています(前掲文献242頁)。

 しかし、事実上の損害賠償予定の契約なのか、純然たる貸借契約なのかの区別は、それほど容易ではありません。そのため、こうした契約の効力は、有効例と無効例が錯綜していて、見通しを立てることが困難な状況にあります。このような状況のもとで見通しの精度を高めるためには、個々の裁判例の検討を通じて、実務感覚を磨いて行くよりほかありません。

 近時公刊された判例集に、使用者から退職者に対するセミナー受講料返還請求が労働基準法16条との関係で許容されるのかどうかが問題になった裁判例が掲載されていました。一昨日、昨日とご紹介させて頂いている長崎地判例3.2.26労働判例1241-6ダイレックス事件です。

2.ダイレックス事件

 本件は、残業代請求事件と、セミナー受講料等の返還請求事件とが、併合審理されていた事件です。

 被告になったのは、日用雑貨、化粧雑貨などの販売を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、被告の従業員であった方です。食料品や酒等の販売が中心である被告店舗で勤務していました。

 原告が残業代を請求する訴えを提起したところ、被告からも原告に対してセミナー受講料等の返還を請求する訴えが提起されました。

 被告の立論の根拠は、

平成24年3月11日に受講から2年以内に被告を退職した場合には被告に受講料を支払うことを合意した、

原告は平成24年4月25日から平成27年8月19日にかけてセミナーを聴講した、

しかし、原告は平成28年10月2日に被告を退職した、

というものです。

 被告の親会社(サンドラッグ)では、研修システムを構築しており、社員や関連会社社員を対象とするセミナー(本件セミナー)を開催していました。そして、本件セミナーに参加するにあたって、原告は平成24年3月11日付けで「教育セミナーを受講期間中もしくは受講終了後2年以内に退社した場合は、会社が負担した全ての費用を全額返納します。」と書かれた「教育セミナー受講契約書」を作成していました。

 本件セミナーの内容は医薬品を中心とするサンドラッグのPB商品(プライベートブランド)商品の説明が主なものとされていました。また、正社員に登用された準社員のうち75%は本件セミナーを受講していました。

 こうした事実関係のもと、本件では、「原告が受講終了後2年以内に被告を退職した場合、被告が負担した受講料等の全額を被告に返還すること」の合意(本件合意)が、労働基準法16条に違反するのではないかが問題になりました。

 この問題について、裁判所は、次のとおり述べて、本件合意が労働基準法16条に違反していると判示し、被告の請求を棄却しました。

(裁判所の判断)

「本件セミナーの受講は労働時間と認められ・・・、その受講料等は本来的に被告が負担すべきものと考えられること、その内容に汎用性を見出し難いから、他の職に移ったとしても本件セミナーの経験を生かせるとまでは考えられず、そうすると、本件合意は従業員の雇用契約から離れる自由を制限するものといわざるを得ないこと、受講料等の具体的金額は事前に知らされておらず・・・、従業員においても被告に負担する金額を尋ねることができるとはいっても、これをすることは退職の意思があると表明するに等しく、事実上困難というべきであって、従業員の予測可能性が担保されていないこと、その額も合計40万円を超えるものであり、原告の手取り給与額(平成26年8月から平成28年9月までで月額15万円から26万円。平均すると、月額18万6000円。ただし、平成27年4月以降は家族手当を含む。・・・)と比較して、決して少額とはいえないことからすれば、本件合意につき被告が主張するような法形式をとるとしても、その実質においては、労働基準法16条にいう違約金の定めであるというべきである。」

「したがって、本件合意は無効である。」

3.修学・研修・研究費用返還の合意が問題になるケースは存外多い

 効力が有効になるのか無効か不安定である割に、修学・研修・研究費用の返還合意を行っている企業は少なくありません。

 本件の金額規模はそれほどでもありませんが、長期間に渡る海外留学費用になると、時として数千万規模の紛争に発展することもあります。裁判所の判断を予想することが難しい事件類型でもあるため、勤務先から修学等の費用を請求されてお困りの方は、お早目に対応を弁護士に相談することをお勧めします。