1.「自由な意思」の法理の適用範囲
賃金や退職金の減額は、これを受け入れる行為があるとしても、必ずしも有効になるわけではありません。減額を受け入れる行為が「労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在」しない場合、同意に基づく賃金等の不利益変更の効力は否定されます(最二小判平28.2.19労働判例1136-6山梨県民信用組合事件参照)。
この「自由な意思」の法理は昔からあった理屈ではありますが、山口県民信用組合事件の最高裁判決以降、その適用範囲が拡大する傾向にあります。
近時公刊された判例集に、留学費用の返還合意に「自由な意思」の法理を適用したと解される裁判例が掲載されていました。東京地判令3.2.10労働判例ジャーナル110-2 みずほ証券事件です。
2.みずほ証券事件
本件で原告になったのは、みずほフィナンシャルグループに属する総合証券会社です。
被告になったのは、被告の元従業員です。原告の公募留学制度を利用して米国の大学のMBAプログラムに在籍しました。
留学に先立って、被告は、
「留学期間中にみずほ証券株式会社を特別な理由なく退職する場合あるいは解雇される場合、また、留学終了後5年以内に留学後復帰したみずほ証券株式会社及びみずほ証券グループ会社・・・を特別な理由なく退職する場合あるいは解雇される場合には、当該留学に際し貴社が負担した留学に関する・・・費用を退職日までに遅滞なく弁済することを誓約いたします。」
などと書かれた誓約書を提出していました。
しかし、被告は、日本に帰国した後、約4か月後に原告を退職しました。
これを受けて、原告は、被告に対し、消費貸借契約に基づく貸金として、留学費用3045万0219円とその遅延損害金の支払いを求める訴訟を提起しました。
本件では、
原告の主張する消費貸借契約の労働基準法16条(使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない)違反の有無のほか、
誓約書に基づく合意が「自由な意思」の法理によりその効力が否定されるのではないのか
が問題になりました。
「自由な意思」の法理との関係での被告の主張は、次のとおりです。
(被告の主張)
「本件誓約書には返済を要する費用項目が羅列されるのみで、各費用について具体的な説明がないこと、原告が実施したオリエンテーション等の説明会においては本件誓約書の詳細について言及はなく、被告は、本件誓約書で返済義務を負う可能性のある費用の内容や金額の目安といった具体的な説明は受けていないことなどからすれば、原告から被告に対して、本件誓約書を締結することの不利益、リスク、妥当性について十分な説明や情報提供があったとは到底認められない。被告は、平成28年6月17日、原告から本件誓約書を提示されて、『署名しなければ留学には行かせない』と説明され即時の署名を求められたことからすれば、本件誓約書の徴収は性急かつ一方的なものであり、労働者側に十分な検討期間や熟慮期間を与えるなどの配慮がないものであった。被告は、同日時点で留学に向けた準備を完了しており、この時点で本件誓約書への署名を拒否して留学を取り止めるという選択肢は事実上取り得なかった。」
「以上のことからすれば、本件誓約書に基づく合意が被告の自由な意思に基づくものであると認めるに足りる合理的な理由は認め難いといえ、本件誓約書に基づく合意は無効である。」
この被告の主張に対し、裁判所は、次のとおり判示しました。
(裁判所の判断)
「被告は、本件誓約書に基づく合意は被告の自由な意思に基づくものではないとして、その合意は無効である旨主張する。」
「前記前提事実及び認定事実によれば、被告は、留学前に開催された公募留学候補生向けのガイダンスにおいて、原告から、帰国後5年以内に原告を退職した場合には一切の留学費用を原告に返済する必要があり、その旨記載された誓約書を渡航前に原告に提出する必要があると説明されている。加えて、被告は、その後留学前に開催された公募留学候補生に対する渡航前のオリエンテーションにおいて、原告から、本件誓約書と同内容の誓約書を渡された上、帰国後5年以内に原告を辞める場合には留学関連費用の一切を返してもらう旨説明されている。このように、被告は、本件誓約書を提出する前に、本件誓約書の内容について十分な説明を受けており、同誓約書の内容自体も前記記載のとおり不明確なものではなかったことからすれば、被告は、本件誓約書の内容を理解した上で、それに自ら署名押印して原告に提出しているといえるから、本件誓約書に基づく留学費用の返還に係る合意は、被告の自由な意思に基づくものであったと認めるのが相当である。」
「被告は、本件誓約書に基づく合意によって返済義務を負う可能性のある費用の内容や金額の目安といった具体的な説明は受けていない旨主張するが、原告は被告に対し、前記のとおり、本件誓約書の内容について、帰国後5年以内に原告を退職した場合には留学費用の一切を返してもらう旨説明しているし、留学前の時点で個々人の留学に関する具体的な金額の目安を示すことは困難であるから、本件誓約書に基づく合意に関する原告の被告に対する説明が不十分であったとはいえない。また、被告は、本件誓約書の内容について十分に検討する期間を与えられていなかったなどと主張するが、原告は、被告に対し、遅くとも被告が本件誓約書に署名押印した日の約1か月前には、本件誓約書と同じ内容の誓約書を配布している上、それ以前から、本件誓約書の内容については説明していることからすれば、被告が本件誓約書の内容を十分に検討することができなかったとは認められない。」
「よって、被告の主張は採用することができない。」
3.失当主張とは理解されていない
裁判所は被告労働者側の主張を採用しませんでした。
しかし、裁判所が、失当主張(主張自体失当)という扱いをしなかった点は注目に値します。
主張自体失当というのは、法論理的に意味のない主張のことです。意味のない主張は、その当否の判断に踏み込むまでもなく排斥されます。
「自由な意思」の法理は、法文に書かれているルールではありません。そのため、誓約書に基づく留学費用の返還に係る合意との関係で、「自由な意思」の法理が妥当しないと考えるのであれば、その当否に踏み込むまでもなく、裁判所は、原告の主張を、主張自体失当であるものとして排斥することができました。
しかし、そうした扱いはせず、裁判所は、被告の自由な意思に基づくものであったと認めるのが相当であるから、本件誓約書に基づく留学費用の返還に係る合意の効力は否定されないと判示しました。
これは説明が不十分なケースでは、合意の効力が自由な意思に基づいていないとして否定された可能性を示唆するものです。
労働者敗訴の事案ではありますが、留学費用の返還合意との関係で「自由な意思」の法理の適用可能性を示した事案として、本裁判例は参考になります。