弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

留学費用の返還請求への対応-留学とは関連しない部署に配属された労働者が辞めてしまう問題

1.労働基準法16条(賠償予定の禁止)

 労働基準法16条は、

「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。」

と規定しています。

 ここでいう「労働契約の不履行」については「典型的なものは、期間の定めのある労働契約において期間満了前に退職する場合であるが、契約形式は期間の定めのないものであっても、そのうち一定期間について就業義務を予定する場合、例えば、会社所属の技能教習所を修業した者に対し、修業期間の二倍に相当する期間の勤務義務を課し、この勤務義務違反者に対して一定額の弁済義務を課すること」も該当すると理解されています(厚生労働省労働基準局編『労働基準法 上』〔労務行政、平成22年版、平23〕241-242頁参照)。

 この規定との関係で、しばしば使用者の労働者に対する留学費用の返還請求の可否が問題になります。一定期間勤務を継続することを条件に会社の費用負担のもと留学しながらも、当該期間内に会社を辞める労働者が後を絶たないからです。

 それでは、なぜ、高額の費用請求を受けるリスクを冒してまで、労働者は一定期間内に勤務先を辞めてしまうのでしょうか?

 それは、日系企業の社費留学制度の特徴にあるように思われます。

 個人的な実務経験の範囲内での話ですが、日系企業では、社費留学で勉強してくる内容と、留学後に命じられる業務とが、関連していないことが多々みられます。留学で得た知見とは無関係の業務に就くことを命じられると、留学により刺激を受けてきた労働者は、得られた知見が無為に陳腐化して行くように感じられます。こうした処遇に嫌気がさして、労働者は留学経験を活かせる場所に転職しようとします。

 それでは、労働基準法16条は、使用者による留学費用の返還請求への対抗策として機能するのでしょうか?

 この問題は演繹的・一律に結論が決まるわけではありません。具体的な事案次第で、肯定・否定のいずれの結論もありえます。

 近時公刊された判例集に労働者の返還義務を認めた裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介した、東京地判令3.2.10労働判例ジャーナル110-2 みずほ証券事件です。労働者側として留意すべきポイントを押さえるうえで参考になるので、ご紹介させて頂きます。

2.みずほ証券事件

 本件で原告になったのは、みずほフィナンシャルグループに属する総合証券会社です。

 被告になったのは、被告の元従業員です。原告の公募留学制度を利用して米国の大学のMBAプログラムに在籍しました。

 留学に先立って、被告は、

「留学期間中にみずほ証券株式会社を特別な理由なく退職する場合あるいは解雇される場合、また、留学終了後5年以内に留学後復帰したみずほ証券株式会社及びみずほ証券グループ会社・・・を特別な理由なく退職する場合あるいは解雇される場合には、当該留学に際し貴社が負担した留学に関する・・・費用を退職日までに遅滞なく弁済することを誓約いたします。

などと書かれた誓約書を提出していました。

 しかし、被告は、日本に帰国した後、約4か月後に原告を退職しました。

 これを受けて、原告は、被告に対し、消費貸借契約に基づく貸金として、留学費用3045万0219円とその遅延損害金の支払いを求める訴訟を提起しました。

 本件では、原告の主張する消費貸借契約の労働基準法16条違反の有無が問題になりました。

 裁判所は、この論点について、次のとおり判示し、原告の請求を認めました。

(裁判所の判断)

「被告は、仮に、原告被告間に留学費用の支給について消費貸借契約が成立していたとしても、同契約は労働基準法16条に違反し無効である旨主張する。」

「この点、労働基準法16条が、使用者が労働契約の不履行について違約金を定め又は損害賠償額を予定する契約をすることを禁止している趣旨は、労働者の自由意思を不当に拘束して労働関係の継続を強要することを禁止することにある。そうすると、会社が負担した留学費用について労働者が一定期間内に退社した場合に返還を求める旨の合意が労働基準法16条に違反するか否かは、その前提となる会社の留学制度の実態等を踏まえた上で、当該合意が労働者の自由意思を不当に拘束し労働関係の継続を強要するものか否かによって判断するのが相当である。

「前記前提事実及び認定事実によれば、本件留学制度の選考に応募するか否かは、原告の業務命令によるものではなく労働者の自由な意思に委ねられており、その留学先や履修科目の選択も労働者が自由に選択できるところ、被告は、国際的に活躍するバンカーになるために必要なスキル、経験、人脈等を身に付けることなどを目的として自ら本件留学制度の選考に応募し、自ら志望した大学への進学を決めて留学している。また、被告は、留学先の大学での履修科目や課外活動については自らの意思で決めており、基本的に、留学期間中の生活については被告の自由に任せられていたものと認められる。被告は、留学期間中、履修科目の成果等についての報告、宿泊に伴い大学所在地を離れる場合や休暇の際の一定の届出の提出、公募留学候補生に対するバックアップなどを原告から求められているが、これらは、原告の業務に直接関係するものではなく、被告が原告の従業員であることから原告の人事管理等に必要な範囲で求められているものにすぎない。被告は、留学期間中、原告から原告の採用イベントに関する協力を求められているものの、被告が同イベントへの参加をキャンセルする旨連絡した際には、原告は、被告に対し、あくまでお願いなので学業を優先するよう返答していることからすれば、これは原告の業務命令によるものではなく、あくまで原告が被告に協力を依頼したものにすぎないといえる。このような本件留学制度の実態に加え、公募留学生の留学終了後の配属先は、必ずしも留学先大学において取得した資格や履修科目を前提とした配属になっていないことからすれば、本件留学制度を利用した留学は、原告の業務と直接関連するものではなく、また、原告での担当業務に直接役立つという性質のものでもないといえる。むしろ、被告を含む公募留学生は、本件留学制度を利用した留学によって原告での勤務以外でも通用する有益な経験や資格等を得ている。そうすると、本件留学制度を利用した留学は、業務性を有するものではなく、その大部分は労働者の自由な意思に委ねられたものであり、労働者個人の利益となる部分が相当程度大きいものであるといえ、その費用は、本来的には、使用者である原告が負担しなければならないものではない。」

「したがって、留学費用についての原告被告間の返還合意は、その債務免除までの期間が不当に長いとまではいえないことも踏まえると、被告の自由意思を不当に拘束し、労働関係の継続を強要するものではないから、労働基準法16条に反するとはいえない。」

「よって、被告の主張は採用することができない。」

3.本末転倒なことをやっているのではないか?

 裁判所は、留学後の配属先が留学と直接関連するとはいえないことを返還請求を認めるための積極要素として位置付けました。

 原告会社が被告を留学とは関係のない部署に配属したのは、こうした裁判所の判断を意識し、留学の業務関連性を薄めさせ、返還請求を認められやすくするための工夫だと思います。

 しかし、私の観測する限り、留学後の労働者が時間を置かずに辞めてしまうのは、留学によって得たキャリアを仕事で活かせないことが多いからです。

 労働者を辞めさせないようにしようと思うのであれば、留学とは無関係な部署に配属したうえで返還請求のプレッシャーを利用するよりも、留学によるキャリアを活かせる部署に配属した方が良いのではないかと思われます。

 原告会社の措置も、外側から眺める限り、本末転倒な人事政策をとっているのではないかという感が否めません。