弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

明示に合意したと認めるに足りる的確な証拠がないとして、3年に渡り異論を唱えていなくても合意退職の成立は認められないとされた例

1.合意退職の争い方

 労働者と使用者とで退職を合意することを合意退職といいます。

 合意退職は契約であって解雇ではありません。したがって、解雇権の行使を厳しく制限する労働契約法16条の適用を受けることはありせん。契約として民法上の意思表示理論の適用を受けます。言い換えると、錯誤(民法95条)、詐欺(民法96条1項)、強迫(民法96条1項)といった意思表示の瑕疵がなければ、その効力を否定することができないのが原則です。

 このような原則を補完する法理として、近時では、

① 自由な意思に基づいているとはいえない、

② 退職の意思表示がされたといえるのかを慎重に認定する必要がある、

といた理屈で、合意退職の効力を否定する裁判例も現れています。

退職合意に自由な意思の法理の適用が認められた例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

合意退職の争い方-退職の意思表示の慎重な認定 - 弁護士 師子角允彬のブログ

 このうち②の系譜に親和的な裁判例として、近時公刊された判例集に、

「明示に合意したと認めるに足りる的確な証拠がない」

と述べて合意退職の効力を否定した裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介した、東京地判令5.5.17労働判例ジャーナル146-46 エル・シー・アール国土利用研究所事件です。合意退職の事実を認定するには黙示的行為では足りないという読み方が可能であり、実務上参考になるため、ご紹介させていただきます。

2.エル・シー・アール国土利用研究所事件

 本件で被告になったのは、

不動産の鑑定評価、地域経済論及び不動産鑑定理論等に関する調査研究、出版等を目的とする株式会社(被告会社)

被告会社の代表取締役(被告B)

の二名です。

 原告になったのは、平成30年6月4日から同年8月末日まで被告会社の業務に従事していた不動産鑑定士の方です。被告から契約終了の意思表示をされたことを受け、自らの労働者性を主張し、解雇が無効であるとして、地位確認等を請求する訴えを提起しました。

 本件では「契約終了の意思表示」が合意解約なのか解雇なのかが問題になりました。

 原告は解雇だと主張したのですが、被告は次のとおり述べて合意解約だと主張しました。

(被告の主張)

「被告Bは、平成30年8月27日、被告に対し、本件契約が期間満了により同月末日に終了する旨を口頭で伝え、原告も何ら異議を述べることなく、これを了解した。

「本件契約の終了後、新たに、原告と被告会社との間でデータベースシステムの開発に関する請負契約が締結された。」

「その後、上記請負契約が令和元年7月頃に終了し、その事後処理に関する交渉が令和3年8月末まで行われていた。この交渉の中で、原告は、令和3年8月末になって突然、それまで全く主張していなかった、本件契約が雇用契約であることを前提とする請求を行ってきたのである。」

「このように、原告は、本件契約の終了時、本件契約の終了について何ら異議を述べることなく、これを了解していた。」

「そして、本件契約の終了後に、原告は、新たに、被告会社からシステム開発請負契約を受注しているのであり、原告は、本件契約が平成30年8月末日に終了したことを当然の前提としていた。」

しかも、原告は、本件契約の終了から3年近く経過した令和3年8月末に至るまで、本件契約が雇用契約であることを前提とする請求を一切行っていなかった。

「したがって、万一、本件契約が雇用契約と評価されるとしても、本件契約は、平成30年8月末日に合意により終了している。」

  このように、本件では、

契約終了に明示的な異議が述べられないまま、

3年近くも解雇の効力が争われてこなかった、

といった事案の特性がありました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、合意解約の成立を否定しました。ただし、原告の請求は解雇有効を理由に棄却されています。

(裁判所の判断)

「被告Bは、平成30年8月27日、原告に対し、本件契約について、当初の契約内容どおり同年8月31日に終了し、同年9月1日以降の契約は行わない旨を伝えた。また、被告Bは、原告に対し、今後不定期かもしれないが、原告が得意分野と言っているシステム開発業務を委託することも考えている旨も伝えた。被告Bは、原告から『コミュニケーションですか』と問われところ、『コミュニケーションもあるけど、社員とのトラブルもあったでしょうと、迷惑になった人もいたでしょう』などと答えた。」

原告は、上記・・・につき、本件契約が終了することについて何ら異議を述べなかった。

「原告は、平成30年9月4日、被告Bに対し、『この度は、私の力不足の為、このような結果に至ったこと、誠に申し訳なく存じます。三か月の間、教育のために投下した資本と比して、私が挙げた成果は微々たるものであり、もはや給料を頂くのさえ憚られるのが正直なところであります。』、『先に口頭で述べましたように、この三ヶ月、業務を覚えることに邁進し、その結果、「会社に利益をもたらす人材」としては、何とか最低限の水準には達したのではないかと思っております。ですが、それは雇用継続の為には、あくまで必要条件であって十分条件ではないのは当然です。もう一つの視点として、「一緒に働きたい人材」であるかどうか、この重要性は論を俟たないでしょう。』、『まず、コミュニケーションが決定的に欠けていたことは多言を要しません。』、『さらに敷衍すれば、清潔感の欠如、挙動不審、その他、私独自の奇妙なキャラクターが相俟って、一部の方に、「生理的に受入れられない」といった感情を惹起させてしまった可能性も十分に考えられるところであります。』、『結局のところ、「一緒に働きたい人材」としては致命的な欠陥があるというのがこの度の主たる原因であると認識し、最優先して解決すべき課題であると考えております。』、『もし今後、御社に足を踏み入れる機会があるならば、まず最低限のマナーには十分に留意するとともに、さらに担当者とのコミュニケーションを要するとなれば、私に対しいて抱いていた「頼みにくい」といった精神的障壁を払拭すべく、尽力する覚悟であります。』、『不定期ではあるにせよ、私が必要とされる事、役に立つという事、それ自体が私の喜びであることにいささかの相違もございません。必要とあれば何なりとお申し付けの程、一日千秋の思いでお待ち申し上げております。」などと記載したメールを送信した・・・。」

「被告Bは、平成30年9月6日、原告に対し、『こちらこそ、三ヶ月お世話になりました、今後も、是非、交流を持たせてください。』、『Aさんの長所も理解しておりますので、ご対応戴きたい案件なり、仕事がありましたら、ご連絡差し上げます。』などと記載したメールを送信した・・・。」

(中略)

「被告らは、平成30年8月27日に、原告と被告会社との間で、原告が同月31日をもって、被告会社を退職する合意が成立していたと主張する。」

そこで検討すると、被告Bは、平成30年8月27日、原告に対し、本件契約を終了することを伝えたこと・・・、原告は、本件契約を終了することについて何ら異議を述べなかったこと・・・、原告は、令和3年8月28日頃の催告書まで、本件契約が雇用契約であることや解雇されたとの主張をしていなかったこと・・・が認められ、原告は、本件契約が終了することについて、何ら異議を述べず、その後のシステム開発に関する請負契約が終了した後、本件契約終了から3年近く経過してから、初めて解雇されたと主張していることが認められる。

しかしながら、被告会社を退職することについて、被告Bと原告の間で明示に合意したと認めるに足りる的確な証拠がないこと、原告は、平成30年8月27日、原告は、被告Bに対し、本件契約の終了する原因について確認していること・・・などに照らせば、本件契約が終了することについて、3年にわたり、何ら異論を唱えていなかったことなどを踏まえたとしても、平成30年8月27日に、退職について合意が成立していたとまでは認めることはできない。

「よって、被告らの主張は採用することができなよい。」

3.放っておくだけでは合意解約は認められないとされた

 通常の紛争では、何年も異議を述べずに放置していたような場合、そのこと自体が黙示的な意思表示であると評価されてしまうことが多いように思われます。

 しかし、本件の裁判所は、異議を述べないまま、約3年間が経過しても、明示的な合意を認定でいるだけの証拠がない以上、合意解約の成立は認められないと判示しました。

 古い事件を掘り起こすことは基本的に難しく、この裁判例があるからといって、3年前の出来事を直ちに争うことができるわけではありませんが(実際、本件は原告の請求棄却に終わっています)、裁判所が述べている

異議を述べないまま放置しているだけでは合意退職は成立しない、

という事実認定のルールは、他の事案にも応用可能な意義のある判示だと思います。具体的には、「異議を述べないまま3年が経過した事案でさえ、明示的な合意を認めるに足りないとして合意退職の成立が否定されるのだから・・・」といった理屈を展開して行くことが考えられます。

 合意退職の成否を争う事件を処理するにあたり、本件は覚えておいて損のない裁判例だと思います。