1.吉本興業の誓約書
ネット上に、
「吉本、NSC合宿の『死亡しても責任負わない』誓約書は『無効』 芸能弁護士が批判」
との記事が掲載されていました。
https://www.bengo4.com/c_23/n_9947/
記事には、
「吉本興業が運営する芸人養成所『NSC』の研修生に対し、合宿に参加する際、『死亡しても吉本興業は一切の責任は負わない』『合宿で起きた障害について、吉本興業に賠償請求は行えない』などとする誓約書の提出が求められていたことが、朝日新聞で報じられた。」
「問題とされた誓約書には、『合宿中、負傷した場合、またこれらに基づいた後遺症が発生した場合、あるいは死亡した場合においても、その原因いかんを問わず吉本興業株式会社に対する責任の一切は免除されるものとする』と書かれていた。」
「また、『今回の合宿で起きた障害について吉本興業株式会社に対する賠償請求、訴訟の提起など支払い請求は行えないものとする』ともあり、訴訟リスクをあらかじめ回避しようとする意図の文言も含まれていた。」
と書かれています。
これに対し、記事でコメントをしている弁護士は、
「一言でいうと誓約書に記載されていることは法的にはまったく無効となります。」
「つまり、『今回の合宿で起きた障害について吉本興業株式会社に対する賠償請求、訴訟の提起など支払い請求は行えないものとする』という書面に署名押印したとしても、何らの法的効果も生じません。」
「今回のケースに限らず、『請求できない』『訴訟提起できない』という書面は無効になります。憲法で保障された裁判を受ける権利は、書面によって奪うことはできないからです。実際、このような規定が無効とされた過去の裁判例もありますし、消費者契約法上もこのような規定は無効となります。」
と述べています。
私も、所掲のような誓約書に、法的な効力はないと考えています。
しかし、その理由付けは、コメントをしている弁護士の方とは異なります。
2.不起訴合意は、憲法上、おしなべて認められないのか?
裁判をしないという合意は、講学上、不起訴合意といいます。
不起訴合意の法的効力に関しては、通説的には以下のように理解されています。
「(訴えの利益について)問題になるのは、特定の権利または法律関係について訴えを提起しない旨の当事者の合意、いわゆる不起訴の合意である。この合意の趣旨を一般的な訴権の放棄と解すれば、憲法32条との関係上無効と解すべきである。しかし、それを特定の紛争に関わる権利保護の利益の放棄と解すれば、それは当事者の処分の許されている事項に関わるから、強いて無効と解する必要はない。」
「不起訴の合意があるにもかかわらず提起された訴えは、権利保護の利益を欠くものとして却下すべきである。この点についての上告審の判例はないが、下級審の判例では、合意を有効と解して訴えを却下しているもの・・・が圧倒的に多い。」
(以上、秋山幹男ほか著『コンメンタール民事訴訟法〔第2版〕』12頁〔日本評論社、平30〕より引用)
確かに、一般的に裁判を受ける権利を放棄するかのような合意は憲法32条との関係で無効であると理解されています。
しかし、それと特定の権利について訴えを提起しないことは別の問題です。特定の権利について訴えを提起しない旨の合意は基本的には有効と扱われています。
吉本興業の誓約書に関しては、
「今回の合宿で起きた障害について吉本興業株式会社に対する賠償請求」
と対象となる権利関係が特定されています。
したがって、憲法との関係で無効だという、やや粗めな理屈で裁判所を説得できるかというと疑問符がつきます。
3.消費者契約法は適用できるのか?
また、本件で消費者契約法を適用できるのかに関しては疑義があります。
消費者契約法が対象としているのは、法律の名称からも分かるとおり、
「消費者契約」
です。
消費者契約法上の
「消費者契約」
は、
「消費者と事業者との間で締結される契約をいう」
と定義されています(消費者契約法2条3項)。
また、
「消費者」
は、
「個人(事業として又は事業のために契約の当事者となる場合におけるものを除く。)をいう」
と定義されています。
消費者庁の逐条解説によると、
「『事業』とは、『一定の目的をもってなされる同種の行為の反復継続的遂行』であ
るが、営利の要素は必要でなく、営利の目的をもってなされるかどうかを問わない。
また、公益・非公益を問わず反復継続して行われる同種の行為が含まれ、さらには
『自由職業(専門的職業)』の概念も含まれるものと考えられる。」
とされています。
https://www.caa.go.jp/policies/policy/consumer_system/consumer_contract_act/annotations/
芸人さんは芸事を、プロフェッショナルとして・反復継続することを目的として、NSCとの契約を結んでいるのではないかと思われます。
個人事業主としてNSCと契約していると理解される可能性が多分にあり、この契約が消費者契約法の適用を受けると言い切ることには、慎重になった方が良いように思われます。
4.憲法論、消費者契約法の適用には難点がある。それでは・・・
上述のとおり、憲法32条や消費者契約法に依拠した法律構成が裁判所で通用するかには疑義があります。
この誓約書の効力を否定するにあたっては、どのような法律構成が考えられるのでしょうか。
私なら民法90条を根拠とします。
民法90条は、
「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。」
とする規定です。
能見善久ほか編『論点体系 判例民法 1 総則〔第2版〕』220頁〔第一法規、平25〕は以下のとおり記述しています。
「契約や約款の条項が著しく不公正な内容である場合、公序良俗違反とされる。消費者契約法8~10条により消費者契約の場合においては一定の不当条項が無効とされるが、こうした規定でカバーできない消費者契約の不当条項の場合、又は、消費者契約以外の契約・約款の不当条項の場合に、本条が著しく不公正な内容の条項を無効とする。」
そして、航空機事故にもとづく乗客の死傷に対する損害賠償責任について、運送約款で航空会社の責任の最高限度額を金100万円とすることの可否が問題となった事案で、大阪地判昭42.6.12判例タイムズ207-30は次のとおり判示し、公序良俗違反を理由に約款の効力を否定しています。
「人間の生命、身体は人の生存の根本的基礎そのものであり、何にもまして人命が尊重せらるべきことについては何人も異論のないところであろうし、本件の如き人身事故、人的損害の損害賠償の関係においては人命の尊重とか被害者ないしその家族の救済という面での配慮が強く要請されるのが常であり、また、当然でもある。」
「人間の生命、身体に対する侵害は人の生存の根本的基礎そのものを直接に奪うものであり、かかる危険の発生に対してはあらかじめ可能な限りの万全の予防措置がとられるべきであるとともに、一旦、人の生命、身体が侵害された場合には、その侵害につき責任を負うべき者は元来、これにより生じた全損害を賠償すべき責に任ずるのが原則である。」
「形式上運送約款による契約が成立したからといつてあくまでも右制限条項に従うべきものとすることは、結果的には、企業者たる被告が経済的優位にあることを利用して事実上これに対抗する手段を有しない乗客に対し不当な不利益を課することを承認することになり、実質的平等、衡平の観念に反するものといつても過言ではない。結局、本件運送約款第二四条に定める一〇〇万円は、乗客の死傷事故に関する責任の最高限度額としてはあまりに低額に過ぎ、かかる条項の適用を強いることは公序良俗に反し許されないものと解するのが相当である。」
人命の尊重や、人の生存の根本的基礎といった理念、経済的優位性を背景とした企業と個人との実質的衡平といった概念を根拠として、死亡事故の責任の最高限度額を100万円とすることを否定しています。
100万円ですらダメなのだから、死んでも免責・訴えることも許さない、といった無茶な約定が有効とされることはないだろうと思います。
5.なぜ、このようなことを書くのか
最後に、結論が合っているのに、なぜ、このような記事を書くのかを付言しておきます。
端的に言うと、所掲の記事を盲信するのは危ないからです。
特に危険なのは、不起訴の合意の部分です。
上述のとおり、不起訴合意は対象となる権利・法律関係が特定されている限り、有効とする裁判例が多数出されています。
消費者契約であればともかく、事業者間での契約となると、不起訴合意を取り交わすことには非常に大きな危険があります。
「合意しても、どうせ憲法との関係で無効にできる。」と安易に考えて不起訴合意をしてしまうと、それこそ取り返しのつかないことになりかねません。
中身がそれほど極端な内容ではなく、事業者間での契約という場合、不起訴合意を無効にするのは、決して容易なことではありません。
飽くまでも、おかしな書面は作らないのが基本です。
「ネットに書いてあったし、作っても効力を否定できるだろう。」という考えは、非常に危険なので注意してください。