1.専門家であることの意味
専門家には、一般人よりも高度の注意義務が課せられることがあります。同じことをしても、素人であれば許されるのに、専門家であれば許されないという局面は、決して少なくありません。このことは、一定の場面において、専門家が、素人よりも、責任追及をされやすいことを意味します。
それでは、逆に、専門家が責任を追及「する」という局面において、その専門性は、法的に、どのように評価されるのでしょうか? 被害者が損害の発生を回避できるだけの専門的知見を持っていた場合、そのことを理由に、加害者は責任を免れることができるのでしょうか?
この問題を考えるうえで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。名古屋地判令和2年10月26日労働判例ジャーナル107-18 愛知県事件です。
2.愛知県事件
本件は、熱中症を発症し、虚血性心疾患により死亡した愛知県農業総合試験場の主任研究員P1の遺族が、使用者である愛知県に対し、安全配慮義務違反を理由として国家賠償を請求した事件です。
亡P1は農業技術者として採用され、経歴の全てを農業関係機関で過ごしており、夏季の熱中症の予防方法について十分な知識を有していました。本件では、このことが、安全配慮義務違反が認められるか否かの判断にあたり、どのように影響するのかが問題になりました。
裁判所は、次のとおり述べて、専門性を有していたことを、安全配慮義務違反を認めるにあたっての消極要素として位置付け、被告愛知県の責任を否定しました。
(裁判所の判断)
「亡P1は、平成27年8月2日までにまがりなりにも11日間連続して出勤しており、死亡前の1か月間に一定の時間外労働(合計33時間18分)に従事していたことなどの事情から、一定の肉体的疲労を蓄積させていたものの、その程度が甚だしいものであったとは認められない。他方、被告は、亡P1について一般定期健康診断を行っていたが、亡P1は、医師による治療等を必要とするような指示を受けておらず、他に熱中症発症のリスクや循環器疾患を発症するような素因を有していたとは認められない。そして、本件試験場では、職員の安全の確保及び職員の健康の保持増進を図るために設置された衛生委員会を通じて、かねてより熱中症対策について議題として取上げていたものであり、亡P1が死亡する直前の時期にも、農林水産部長から熱中症対策を講じるよう求める通知を受け、P2室長も、2回にわたって熱中症予防に関する文書を、亡P1を含む職員の回覧に付しており、これらの通知や文書には、熱中症の予防や対処方法について詳細な記載がされていたところである。さらに、本件では、被告の本件試験場の主任研究員であった亡P1に対する義務違反の有無が問題とされているところ、亡P1は、その経歴から明らかなとおり、平成8年4月1日に被告に農業技術者として採用されて以来、19年以上の経歴の全てを被告の農業関係機関で過ごしてきたものであるから、屋外や温室での作業に習熟しており、したがって、夏季の熱中症の予防方法についても十分な知識を有していたといえるばかりか、現に、本件試験場の衛生委員として熱中症の予防について審議しており、これを他の職員に周知する立場にあったものである。」
「しかも、亡P1は、上記のとおり農業技術の専門家であったことに加えて、本件試験場での勤務を開始してから1年4か月が経過していたのであるから、平成27年8月2日に古典ギク幼苗への上水道からの水やりに当たって、30ないし50mの距離を、ジョロ(容量6リットル)を持って50回程度往復するという肉体的負荷の大きな方法によることなく、より近接した場所にある上水道を利用し、あるいは資材庫に備え付けられていたホース、ジョロを運搬できる一輪車又は動力噴霧器を活用することや、このような肉体的負荷の大きな作業に従事し、さらに他の作業にも従事した以上、空調や冷蔵庫が完備した調査棟事務室及び会議室、冷蔵庫や扇風機が備わっていた休憩室、あるいは常時冷房がされていた生育制御温室を利用して体を冷却し、さらには水分及び塩分の補給をする必要があることを、いずれも上司の指示等を待つまでもなく容易に想到することができたはずである。」
「以上のとおり、亡P1は、平成27年8月2日までに一定の肉体的疲労を蓄積させていたものの、その程度は、甚だしいものとは認められない一方、被告は、同日までに、亡P1に対し、一般定期健康診断のほか、熱中症予防に関する労働衛生教育を具体的に行っており、農業用水が断水した場合に熱中症を予防しつつ水やり等の作業を実施できるだけの設備を備えていたのであって、亡P1も、熱中症発症のリスクや循環器疾患を発症するような素因を有していたとは認められず、むしろ、本件試験場の衛生委員として、あるいは長期間の経験を有する熟練した農業技術の専門家として、熱中症の予防方法や、水やり作業に利用可能なこれらの設備の存在を十分に理解していたものと認められる。そうすると、被告は、同日が晴天であってWBGTの温度基準が平均31.3℃の『厳重警戒』又は『危険』を示しており、温室内の温度が外気よりも3ないし6℃高いばかりか、農業用水が断水しているという状況下であったとしても、そのことから亡P1が本件試験場における水やり等の作業に従事したために熱中症を発症することを予見することができたとは認めるに足りず、亡P1の熱中症予防について、亡P1に対して上記に加えてさらに何らかの労働衛生教育を行い・・・、あるいは高温多湿の環境下で農業用水が断水しているという状況下で、亡P1のために何らかの具体的な作業計画を立案し・・・、さらには、定期的な巡視により亡P1の健康状態を確認し、亡P1に対して作業前後及び作業中の水分及び塩分の定期的な摂取の指導を行い・・・、あるいは休憩場所等に体温計や体重計の設置等を行う・・・義務を負っていたとまでは認められない。」
(中略)
「被告は、亡P1の死亡につながった熱中症発症を予見することができたとは認められず、被告において国家賠償法1条1項所定の過失又は民法415条所定の安全配慮義務違反があったとは認められない。」
3.むしろ、専門家であることは、安全配慮義務違反の積極要素ではないのか?
裁判所は、上述のとおり、専門家は自分の身を自分で守ることができるのだから、使用者が専門家である被用者の熱中症発症を予見することは不可能だったとして、愛知県の責任を否定しました。
しかし、裁判所の判示に対しては、本当にそうだろうかという疑問があります。経営者や自律的な働き方をする立場にあったのであればともかく、被用者として他人の指揮命令下で働いていた場合、熱中症対策に専門的知見を有していることは、専門的知見を活用する余裕がなくなるほど追い詰められていたことを意味するのではないかと思います。
本件では公務災害認定が受けられており、原告遺族は何の保護も受けられなかったわけではありません。そうした背景もあり、裁判所には、安全配慮義務違反まで認める必要はないという発想があったのかも知れません。
しかし、被用者の専門性を、使用者の安全配慮義務を軽減・免除する方向で用いることに対しては、個人的には強い違和感を覚えます。このような発想が許されるとすれば、杜撰な安全衛生環境のもと、専門家を使い潰すことが正当化されかねないからです。