弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

仕事が遅い・病院に行かない・転職しない-これらは自殺者の過失か?

1.過失相殺

 民法418条は、

「債務の不履行又はこれによる損害の発生若しくは拡大に関して債権者に過失があったときは、裁判所は、これを考慮して、損害賠償の責任及びその額を定める。」

と規定しています。

 これは債務不履行で損害賠償を請求するにあたり、損害を受けた側にも責任を分担すべき理由がある場合に、それを考慮して損害賠償額を減じる仕組みです。この仕組みは一般に過失相殺と呼ばれています。

 例えば、100万円の請求権がある場合でも、3割の過失相殺がされると、被害者が請求できる金額は70万円に減じられることになります。

 債務不履行類型だけではなく、不法行為の場合でも、過失相殺の仕組みは採用されています(民法722条2項)。

 この過失相殺が熾烈に争われる類型の一つに自殺事案があります。

 自殺者の遺族が損害賠償請求をする場合、多くの事案では請求額が高額になります。

 例えば、損害賠償額が5000万といった金額になると、過失相殺割合が1割違うだけで500万円もの金銭が動くことになります。過失相殺割合の微妙な認定が賠償額に大きな影響を与えるため、争いが熾烈になるのです。

 それでは、長時間労働等によって精神障害を発症し、労働者が自殺に至ったケースにおいて、仕事が遅かったこと・病院に行かなかったこと・転職しなかったことは、労働者側(遺族側)で損害を分担すべき事由になるのでしょうか?

 この点が問題となった事案に、福岡地判平31.4.16労働経済判例速報2412-17 Y歯科医院事件があります。これは以前にも「ブラック企業での勤務は生死に関わる」という題名の記事で触れた事件です(この時は労働判例ジャーナルという雑誌に掲載されていた裁判例として紹介しています)。

https://sskdlawyer.hatenablog.com/entry/2019/07/29/234554

2.Y歯科医院事件

 本件は自殺した労働者Dの遺族(両親)が提起した損害賠償請求訴訟です。

 原告らは、子Dが自殺したのは、被告歯科医院における過重な労働等によって精神障害を発症したからだと主張し、被告歯科医院に対して損害賠償を請求しました。

 本件では幾つかの争点がありましたが、その中の一つが過失相殺です。

 被告歯科医院は、

「被告歯科医院における亡Dの作業は容易なものであり、労働密度が極めて薄く、強い心理的負荷を受けるものではなかったから、残業の寄与度が極めて低いといえること、亡Dは被告から勧められたのに、心療内科を受診することなく放置していたこと、亡Dが原告Bから転職を勧められたのに、これに応じることなく、被告歯科医院における勤務を続けたことを考慮すれば、亡Dにも8割程度の過失が認められるべきである。」

との主張を展開しました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、過失相殺の主張を一切認めませんでした。

(裁判所の判断)

「被告は、被告歯科医院における亡Dの作業は容易なものであり、亡Dの労働密度は極めて薄く、強い心理的負荷を受けるものではなかったから、残業の寄与度が極めて低いといえること、亡Dは被告から勧められたのに、心療内科を受診することなく放置していたこと、原告Bから転職を勧められたのに、これに応じることなく、被告歯科医院における勤務を続けたことを考慮すれば、過失相殺が認められるべきであると主張する。」

「しかし、亡Dの労働時間や労働実態等からすれば、亡Dが過重な労働に従事していたといえることは前記2のとおりであり、亡Dの自殺について、時間外労働の寄与度が低いとはいえない。また、亡Dにおいて、業務を処理する速度が遅く、やり直しとなることが多かったことが、亡Dの長時間労働に影響した面があるとしても、亡Dは、別紙2の労働時間において、基本的には業務に従事していたのであるから、被告として、亡Dの労働時間を把握した上で、長時間労働となっている場合には、亡Dの能力や業務内容を考慮し、更なる負担軽減等の措置を考慮する必要があった。しかし、被告は、客観的資料に基づく労働時間の把握を何ら行っていなかったのであるから、この点を、亡Dの過失として考慮するのは相当ではない。

「また、亡Dが、自身の心身の変調に気づいていなかった可能性もあり、被告から心療内科への受診を勧められたにもかかわらず、受診しなかったことをもって、亡Dの過失とはいえない。そして、亡Dが大人しい性格であり、業務の処理速度が遅く、やり直しとなることが多かったことからすると、被告歯科医院とは異なる環境の職場に変わることに抵抗があった可能性もあり、またそのように感じてもやむを得ず、転職を勧められたのに、これに応じなかったことをもって、亡Dの過失とはいえない。
「よって、本件において、過失相殺を認めるべき事情はないから、被告の主張は採用できない。」

3.少なくとも、当然に過失と評価されるような事情ではない

 仕事が遅いからといって使用者の安全配慮義務や労働時間の管理義務を弛緩させてもよいという議論は直観的に違和感があります。

 また、過労死・長時間労働による精神障害での自殺の事案では、病院に行けないほど、あるいは、転職を考えられないほど追い込まれている状態になっていることが問題の本質であるため、これを過失と評価したのでは被害者(遺族)の救済が大きく損なわれることになります。

 そうした観点から、裁判所の判断は極めて常識的だと思います。

 しかし、過労死や自殺事案では、今後とも使用者側からの類似の主張は続くと思われます。冒頭で述べたとおり、こうした事案では訴額が大きいので、言えることは何でも言うという発想に流れがちだからです。

 Y歯科医院事件での福岡地裁の上述の判示事項は、死の責任を労働者に転嫁する使用者の主張に反駁するため、覚えておいて良い立論だと思います。