1.「求人詐欺」問題
求人票で示された労働条件と現実の労働条件が異なることを、俗に「求人詐欺」といいます(水町勇一郎 『詳解 労働法』〔東京大学出版会、第3版、令5〕1065頁参照)。
分かり易く言うと、求人票で高い労働条件を示して魅力ある人材を募り、入社させた後、済し崩し的に求人票よりも低い労働条件で働かせようとするものです。
当たり前ですが、このようなことをやるのは違法です。職業安定法65条は、
「虚偽の広告をなし、又は虚偽の条件を提示して、職業紹介、労働者の募集、募集情報等提供若しくは労働者の供給を行い、又はこれらに従事したとき」
「虚偽の条件を提示して、公共職業安定所又は職業紹介を行う者に求人の申込みを行つたとき」
は6月以下の懲役又は30万円以下の罰金に処すると規定しています(職業安定法65条9号、10号参照)。
また、このようなことは、法制上、できないようにもなっています。
具体的に言うと、労働基準法15条1項が、
「使用者は、労働契約の締結に際し、労働者に対して賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならない。この場合において、賃金及び労働時間に関する事項その他の厚生労働省令で定める事項については、厚生労働省令で定める方法により明示しなければならない。」
と規定しています。
求人票で人を釣っても、労働契約の締結に先立っては、労働条件通知書を交付する必要があります。ここで求人票に記載されている労働条件が「盛られた」ものであったことが分かるため、労働者としては、労働契約の締結を拒否することができます。
労働条件通知書の交付にも刑事罰が定められており、違反すれば30万円以下の罰金に処せられます(労働基準法120条1号)。
このような仕組みがとられているため、「求人詐欺」とは言っても、労働契約の締結前のどこかの段階で、真実の労働条件が分かるのが普通です。
しかし、少数ではあるものの、実社会の中には、法律を気にしない使用者がいます。職業安定法も労働基準法も気にされていないケースでは、入社後に真実に気付くという本当の意味での「求人詐欺」が発生します。
この「求人詐欺」との関係で、近時公刊された判例集に、興味深い裁判例が掲載されていました。仙台高判令5.11.30労働判例1318-71 足利セラミックラボラトリー事件です。
2.足利セラミックラボラトリー事件
本件で被告(被控訴人・附帯被控訴人)になったのは、歯の補綴物及び義歯の製作等を業とする株式会社です。
原告(控訴人)になったのは、平成29年3月に歯科技工士専門学校を卒業した方です。就職活動中に被告の求人票を見て、採用試験に応募し、採用内定を経て、平成29年4月1日付けで入社しました。
被告の求人票は歯科技工士の求人票で、「賃金」の欄には
基本給与 17万円
出勤奨励手当 5500円
精勤手当 5000円、
との記載があり、「時間外手当」の欄には、
時給750円~1500円
との記載がありました。
しかし、雇用契約書が作成されたり、労働条件通知書が交付されたりされないまま、入社後、
基本給 13万3000円
超過勤務手当 3万7000円
との名目で賃金が支給されるようになりました。
当然、揉めるわけですが、平成29年7月7日、会社側は次のような説明を行いました。
(原審認定事実-高裁でも維持)
「平成29年7月7日、原告は、同僚とともに、被告の顧問社会保険労務士であるG(以下『G社労士』という。)と面談し(本件説明会)、残業代が付与されていないこと、基本給が求人票と異なっていること、社会保険に加入していないことなどを記載した資料を交付して、改善を求めた・・・。」
「本件説明会の際、G社労士は、『会社としては、もう17万なのは17万なんですよね。』『超過勤務手当とまとめて17万円で働いてくださいよというのが今の会社からのメッセージ。』などと発言した。また、求人票の記載に関して、G社労士は、『実際13万3000円、固定残業3万7000円ですよという求人票を会社が作れるかというと、なかなか作りづらいというのも、そこは入社されて、社会人として。』などと発言した。」
その後、仙台への配転などを経て、令和2年6月30日、未払基本給や残業代、違法な配転命令等のパワーハラスメントを受けたことを理由とする損害賠償などを請求する訴えを提起しました。
原審(仙台地判令5.6.1労働判例1318-81)の認容が請求の一部に留まったことから、原告側が控訴したのが本件です。原告の控訴に合わせ、被告からも付帯控訴がされています。
本件では賃金の消滅時効が争点の一つとなりました。
原審は、
「原告は、基本給について詐欺的な取扱いをしていた被告に消滅時効を援用する資格はなく、消滅時効の援用は信義則に反し又は権利の濫用として許されないと主張する。確かに、被告が本件求人票に『基本給与』が17万円であると記載しながら、この中には固定残業代3万7000円が含まれるなどとする独自の主張を前提とする取扱いをしてきたことは非難に値するものの、原告の権利行使を妨げたといった事情も見当たらず、消滅時効を援用することが信義則違反や権利濫用に当たるとはいえないから、原告の上記主張は理由がない。」
と消滅時効の援用を認めましたが、控訴審は、次のとおり述べて、被告の消滅時効の援用を権利濫用だと判示しました。
(裁判所の判断)
「被告は、令和2年6月30日に本件訴えが提起されていることから、平成29年4月支払分から平成30年5月支払分までの原告の賃金債権は、遅くとも令和2年5月31日の経過により時効により消滅していると主張して消滅時効を援用する。」
「しかし、被告は、求人票に『基本給与』が17万円であると記載しておきながら、求人票に記載された被告の勤務条件や会社情報等を信頼し、採用試験を受け歯科技工士専門学校を卒業して就職した原告に対し、就職後に給与を支払う段になって、給与明細書に、基本給13万3000円、超過勤務手当3万7000円と記載して給与を支払い、求人票に記載した『基本給与』17万円の中には、固定残業代3万7000円が含まれ、基本給月額13万3000円、固定残業代月額3万7000円という内容の労働契約が成立したなどと主張したのであり、このような被告の求人、採用と給与支払の方法やこれに基づく労働契約の内容についての欺瞞的な主張は、原告のような社会的に未熟な求職者を騙しして労働者を安い給料で働かせようとしたものと評価するほかはない。」
「被告は、基本給が17万円という労働契約を締結したはずではないかと求人票を信頼した主張をする原告に対し、顧問の社会保険労務士を使って会社の主張を暗黙のうちに承認させようと説得を試みたり、後述するとおり、被告代表者において、被告の主張に沿った雇用契約書に署名しないと勤務できなくなると脅したりして会社の主張を追認させようとするなど、原告の権利の行使を妨げてきた。」
「求人票に記載した『基本給与』に固定残業代が含まれるなどという欺瞞的な方法により、求人票を信頼した労働者に対し、求人票の記載と明らかに異なる低額の基本給による労働契約の成立を主張し、その差額の基本給の支払を求め続けてきた労働者の権利行使を様々な手段を通じて妨害してきた被告が、入社直後から権利主張を続け、入社3年後には本件訴えを提起した原告に対し、令和2年法律第13号による改正前の労働基準法115条に基づいて、2年の期間の経過による消滅時効を援用して権利の消滅を主張することは、労働契約上の信義に反し、権利の濫用にあたるから許されない。」
3.求人詐欺一本で決まったわけではないが・・・
本件では求人詐欺以外にも、
社会保険労務士を使った説得や、
被告の主張に沿った雇用契約書に署名しないと勤務できなくなるという脅し
などの事実にも触れられています。
そのため、求人詐欺一本で時効の援用を阻止できるかといえば、そこまで言い切ることはできません。
また、現在の実務家の時効制度に関する標準的な理解は原審寄りなのではないかと思います。
しかし、控訴審裁判所は、
「被告の求人、採用と給与支払の方法やこれに基づく労働契約の内容についての欺瞞的な主張は、原告のような社会的に未熟な求職者を騙しして労働者を安い給料で働かせようとしたものと評価するほかはない。」
とかなり強烈な非難を加えたうえ、消滅時効の援用を権利濫用で許されないとするかなり踏み込んだ判断を示しました。
余程心証が悪かったのだと思われますが、この判断は、かなり画期的なものだと思います。
後に追随する裁判例がどの程度現れるのかは未知数ですが、労働者側としては、本裁判例を求人詐欺の事案で積極的に活用して行くことが考えられます。