1.あるべき安全対策
医療紛争の領域で、過失が認められるか否かの判断に関連し、「医療慣行」という言葉が使われることがあります。
医療慣行とは「医師の間で一般的に行われている診療行為等」(大島眞一『医療訴訟の現状と将来-最高裁判例の到達点-』判例タイムズ1401-5参照)をいいます。
随分以前、医療慣行に従った場合に、過失がないといえるかという問題が考えられたことがあります。
この問題について、最判平8.1.23民集50.1.1は、
「医療水準は、医師の注意義務の基準(規範)となるものであるから、平均的医師が現に行っている医療慣行とは必ずしも一致するものではなく、医師が医療慣行に従った医療行為を行ったからといって、医療水準に従った注意義務を尽くしたと直ちにいうことはできない。」
「本件麻酔剤を使用する医師は、一般にその能書に記載された二分間隔での血圧測定を実施する注意義務があったというべきであり、仮に当時の一般開業医がこれに記載された注意事項を守らず、血圧の測定は五分間隔で行うのを常識とし、そのように実践していたとしても、それは平均的医師が現に行っていた当時の医療慣行であるというにすぎず、これに従った医療行為を行ったというだけでは、医療機関に要求される医療水準に基づいた注意義務を尽くしたものということはできない。」
と判示しています。
この最高裁の判示に対しては、
「一般に医療慣行は、本来合理的な根拠を有するがゆえに多くの医師の支持を得て慣行となるものであろうが、中には医学の進歩に伴う新しい知見の下で合理性を失うものもあれば、主に医療側の事情(例えば医療スタッフの不足や経費の節減など)を考慮して慣行となったものもあり得ると思われる。上記最判はこれらのことを考慮して医療慣行が直ちに注意義務の基準とはならないことを示したと考えられる。」
「つまり、医師の間で一般的に行われている診療行為等は、医療慣行となっていることからそれに従っていたから過失はない、ということにはならない。医療慣行が合理的根拠に基づいているか否かということが重要であると考えられる。」
と評価されています(前掲論文)。
要するに、業界慣行に従っただけでは、過失がないということにはならないという趣旨です。
近時の公刊物に、労働法領域での安全配慮義務違反が問題になった局面において、これと類似した判示がなされた裁判例が掲載されていました。
東京高判平30.4.26労働判例1206-46日本総合住生活ほか事件です。
2.東京高判平30.4.26労働判例1206-46日本総合住生活ほか事件
(1)事案の概要
この事件で原告・控訴人になったのは、造園会社の従業員の方(X)です。
造園工事の作業中に、欅の木から転落して受傷し、完全四肢麻痺の後遺障害が生じました(転落事故日:平成25年1月10日)。
これについて、安全配慮義務が適切に尽くされていなかったとして、元請(Y1、被告・被控訴人住生活)、一次下請(Y2、被告・被控訴人昭立造園)、二次下請(Y3、被告・被控訴人グリーン計画)、二次下請の代表者(Y4、被告・被控訴人丁原)に対して損害賠償請求訴訟を提起したのが本件です。
本件の争点は多岐に渡りますが、その中の一つが安全帯の装着に関するものです。
原告・控訴人側は、
「平成23年8月までには、二丁掛けの安全帯やロープワークが高木の剪定作業に採用できる実用段階に達しており、また、現場で剪定作業を行う者が知っておくべき基本的・基礎的知識の一つとされていた。」
と二丁掛けの安全帯を使用するべきであったと主張しました。
安全帯というのは、
「作業員が腰のあたりに装着するベルトにつながっているひものこと」
を指します。
「1本の安全帯がつながっている状態で使用する場合を一丁掛け、2本の安全帯がつながっている状態で使用する場合を二丁掛け」
といいます(原審東京地判平28.9.12の判決文より引用、高裁でもこの認定は維持)。
これに対し、被告・被控訴人側は、
「控訴人らは、安全帯の使用に関しては、平成23年8月までには、二丁掛けの安全帯やロープワークが高木の剪定作業に採用できる実用段階に到達していたなどと主張するが、そのような事実はない。本件事故当時、造園業界では、安全帯は一丁掛けが一般的であり、法律上のみならず、慣習上も二丁掛けの安全帯の使用は義務付けられていなかった。」
と反論しました。
(2)裁判所の判断
裁判所は、次のように述べて、Y3・Y4には二丁掛けの安全帯を提供し、その使用方法を指導し、本件作業に使用させる義務があったと判示しました。また、分量との関係で省略しますが、類似の義務を導くことにより、元請(Y1)、一次下請(Y2)の責任も認められています。
(判決の要旨)
-一丁掛け・二丁掛けの業界慣行について(改め文を一文にまとめたもの)-
「二丁掛けの安全帯を使用する場合、木を登り降りする際や移動する際に、ひもを掛け替えながら登り降り、移動することができ、どちらか一方のひもは常にかかっていることから、落下を防ぐことができる(証人D17頁、被告Y2本人32、33頁、弁論の全趣旨)。他方、デメリットとしては、2本のひもがあることから、木にひっかかりやすくなり、また、一丁掛けのものと比べて重量が重くなり登りにくく、作業効率が落ちるという点が挙げられる(証人D17頁、証人E23頁、弁論の全趣旨)。」(原審)
「本件事故当時、本件工事のような樹木の剪定作業において、二丁掛けの安全帯を常態的に使用するという慣習はなく」(原審)、「被控訴人住生活が平成23年3月頃まで改訂を重ねてきた『工事現場における安全衛生の手引き』にも一丁掛けの安全帯のイラストを掲載して安全帯の着用を指示していたにとどまっていた」(控訴審)
「しかし、一方で、一般社団法人日本造園建設業協会が発行した「街路樹剪定ハンドブック」の平成23年8月改訂版には、樹上作業者の墜落防止対策に関して、①近年、安全帯の二丁掛け及びロープワークが注目され始めている旨、②安全帯を掛け替えるときに事故が発生していることを受けて安全帯の二丁掛けが考案されたもので、墜落防止に効果的である旨、③ロープワークは、樹木のなるべく高い位置の幹等から親綱を降ろし、その親綱に作業者が装着したハーネスを掛けることで墜落防止を行うもので、安全帯の二丁掛けより作業性は良いが、セットするまでに時間がかかり、また、実作業については専門家による講習を受けないと難しい旨が記載されていた(甲149)。」(控訴審)
-安全配慮義務違反について(Y3・Y4関係)-
「二丁掛けの安全帯を使用していれば、原則として、樹上で作業する際にはもとより、木を登り降りする際や樹上で移動する際にも、落下事故を防ぐことはできるといえる。そして、控訴人X1は、本件樹木に設置された脚立はしごを使用して高さ約2.9メートルの高さまで登り、そこから本件樹木に移動して、南の通路側に張り出した2ないし3本の太目の幹のうち地上から約5.2メートルの高さにある最上部の幹まで登って作業をしようとしていたというのであるから、その幹自体を取付設備として、二丁掛けの安全帯を使用し、本件作業をしていれば、本件事故を防ぐことはできたものと認められる。また、本件事故が発生した当時すでに発行されていた前記『街路樹剪定ハンドブック』の改訂版には、安全帯を掛け替えるときに事故が発生していることを受けて安全帯の二丁掛けが考案され、近年注目され始めている旨が記載されていたほか、本件事故後、被控訴人Y1は、本件植物管理工事に従事する作業者らに二丁掛けの安全帯を交付してその使用を指示し、これに先立つ講習会では、被控訴人Y4自身が実際に二丁掛けの安全帯を使用した作業方法を実演したというのであるから、被控訴人Y3において、控訴人X1に二丁掛けの安全帯を提供し、その使用方法を指導し、本件作業の際にそれを使用させることは可能かつ容易であったということができる。そして、本件作業においては、上記のとおり高所作業車の導入や仮設足場の設置により作業床を設けることは困難であって、安衛則518条2項が定める防網もなかった以上、作業員の安全確保のためには、安全帯の役割に期待するほかなく、取り分け二丁掛けの安全帯の使用とその徹底が求められるべきであった。たとえ本件事故当時、造園業界において、二丁掛けの安全帯が一般的ではなかったとしても、一丁掛けの安全帯では、安全帯を別の枝に掛け替える際には、三点支持により労働者が自ら落下を防ぐしかない状態が生じ、安衛則518条2項が予定している『労働者の危険を防止するための措置』が何ら講ぜられていない状態が発生することになるから、違法であることが明らかであり、被控訴人Y3は、控訴人X1に対し、二丁掛けの安全帯を提供し、その使用方法を指導し、本件作業にこれを使用させる義務があったというべきである。」
「被控訴人Y4は、本件事故当時、被控訴人Y3の代表者であり、また、上記認定事実(4)のとおり、現場代理人、主任技術者、安全衛生責任者及び雇用管理責任者として、従業員である控訴人X1に対し、作業方法等について指示をする立場にあったにもかかわらず、使用する安全帯は一丁掛けのものでも完全確保は十分であるとの誤った認識の下に漫然とその使用を指導していたにとどまり、二丁掛けの安全帯を提供し、その使用方法を指導し、本件作業の際にこれを使用させようとしなかった点において、被控訴人Y3には安全配慮義務違反があったといわざるを得ない。」
3.安全対策は業界慣行に従っておけば足りるというものではない
業界慣行と法的に在るべき注意義務の水準が異なるという理屈は、医療紛争の場面などで随分前から提示されていたものではあります。
発想自体は斬新なものではありませんが、労働者に対する安全配慮義務違反が問われる局面においても同様の考え方を明示的に採用した点は、注目に値するのではないかと思います。
安全対策には常に最新の知見を導入することが必要であり、法もそれを要求しています。
業界慣行には一定の合理性があることが多く、これを突き崩すのは大変だとは思います。しかし、業界慣行通りの安全対策がとられていたからといって、必ずしも損害賠償請求を諦めなければならないわけではありません。
労災は事故による損害の全てをカバーしてくれるわけではありません。重度の後遺障害が発生している場合には、多額の損害賠償を請求できる可能性があります(本件控訴審も、被控訴人住生活・被控訴人昭立造園に、連帯して3787万円あまりの賠償金を支払うように命じています)。
防げたはずの事故ではなかったのか、そういった疑問をお持ちの方は、一度、弁護士に損害賠償請求の可否を相談してみるとよいと思います。