弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

営業活動の費用を賃金控除の対象にできるのか?

1.賃金全額払いの原則とその例外

 労働基準法24条1項は、

賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。ただし、法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合又は厚生労働省令で定める賃金について確実な支払の方法で厚生労働省令で定めるものによる場合においては、通貨以外のもので支払い、また、法令に別段の定めがある場合又は当該事業場の労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定がある場合においては、賃金の一部を控除して支払うことができる。

と規定しています。

 この条文には複数のテーマが織り込まれているのですが、傍線を付した部分を「全額払いの原則」ないし「全額払原則」といいます。

 全額払いの原則とは、噛み砕いていくと、

使用者は労働者に賃金全額を支払わなければならない、

ただし、法令に定めがあったり、労使協定があったりする場合にのみ、例外的に一定の費目を控除することが可能になる、

というルールをいいます。

 法令に定めがある場合の例としては、給与所得税の源泉徴収や、社会保険料・労働保険料の控除などが挙げられます。

 労使協定がある場合の例としては、組合費のチェック・オフが典型とされています(水町勇一郎ほか編著『詳解 労働法』〔東京大学出版会、初版、令元〕617頁参照)。

 今回のテーマは、この「労使協定がある場合」の対象です。

 どのような費目を労使協定の対象にできるのかに関しては、昭和27年9月20日基発第675号という通達に規定されています。これによると、労働基準法24条1項但書は、

購買代金、社宅、寮その他の福利厚生施設の費用、労務用物資の代金、組合費等、事理明白なものについてのみ・・・賃金から控除することを認める趣旨である」

とされています。

 それでは、労使協定によって、営業活動費を賃金控除の対象にすることは許されるのでしょうか?

 近時公刊された判例集に、この問題を論じた裁判例が掲載されていました。京都地判令5.1.26労働判例1282-19 住友生命保険(費用負担)事件です。

2.住友生命保険(費用負担)事件

 本件で被告になったのは、生命保険業等を行う会社です。

 原告になったのは、被告の営業職員の方です。賃金から被告が業務上の経費を控除したことは労働基準法24条1項の全額払原則に反すると主張し、控除された分の支払い等を求める訴えを提起したのが本件です。

 原告が賃金から控除された費目には、携帯端末使用料、機関控除金(被告が週1回発行するチラシ代など)、会社斡旋物品代(「SUMITOMO LIFE」のロゴ入りチョコレート・飴等の販促品代など)がありました。

 本件では、こうした費用を賃金から控除することが許されるのかが争点になりました。賃金控除の可否は、

賃金控除に関する労使協定の有効性、

賃金控除の合意の存否、有効性、

と二つの段階で検討されます。

 このうち第一段階の労使協定の有効性について、裁判所は、次のとおり述べて、その有効性を認めました。

(裁判所の判断)

「被告は、組合との間で、営業職員の給与から、『募集資料等有料物品購入代金』、『市場対策・販売促進経費個人負担金』、『通信教育経費および各種受験経費個人負担金』、『会社設備使用時の個人負担金』、『会社が認めた諸研修会費』など、所定の費目を控除することができる旨を定めた本件協定を締結しており、これが労働基準法24条1項ただし書の『協定』に該当すると主張するのに対し、原告は、本件協定は、使用者が負担すべきものを労働者に負担させており、かつ、その具体的費目や金額が特定されていないから、事理明白なものであるとはいえず、無効であると主張する。

「そこで、本件協定が事理明白なもので有効といえるかについて検討する。」

「賃金は、直接労働者に、その全額を支払わなければならず(賃金全額払の原則。労働基準法24条1項本文)、使用者が賃金支払の際に適法に控除を行うためには、書面による協定が必要である(同項ただし書)。賃金全額払の原則の趣旨とするところは、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、もって労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活を脅かすことのないようにしてその保護を図ろうとするものである。」

「同項ただし書については、購買代金、社宅、寮その他の福利、厚生施設の費用、社内預金、組合費等、事理明白なものについてのみ、労使協定によって賃金から控除することを認める趣旨であるとされ、少なくとも①控除の対象となる具体的な項目、②各項目別に定める控除を行う賃金支払日が記載される必要があると考えられている(昭和27年9月20日基発675号、平成11年3月31日基発168号。甲20)。そして、ここでいう事理明白であることについて、厚生労働省は、社宅や寮の費用など、労働者が当然に支払うべきことが明らかなものを意味するとし、例えば、労働者が自主的に募金に応じる場合にはその募金額はこれに該当すると考えられる一方で、募金に応じる意思がない労働者の賃金から義援金として一律に控除することは認められないと解している・・・。」

「以上を踏まえると、事理明白なものとは、労働者が当然に支払うべきことが明らかなものであり、控除の対象となることが労働者にとって識別可能な程度に特定されているものでなければならないが、労働者がその自由な意思に基づいて控除することに同意したものであれば、労働者が当然に支払うべきことが明らかなものに該当すると認めることができ、上記規定に違反するものとはいえないと解するのが相当である。

「これを本件についてみるに、機関控除金に係る物品代及び会社斡旋物品代は本件協定に定める項目のうち『募集資料等有料物品購入代金』に該当し、異業種交流会兼名刺交換会の費用は『市場対策・販売促進経費個人負担金』に該当し、本件携帯端末使用料は『会社設備使用時の個人負担金』に該当し、JAIFA年会費及びオール住生会会費は『会社が認めた諸研修会費』に該当するとみることができ、控除の対象となることが労働者にとって識別可能な程度には特定されているものと認められ、また、控除される賃金支払日も『毎月24日』と定められている・・・。」

そうすると、上記控除対象項目が、労働者がその自由な意思に基づいて同意したものであれば、労働者が当然に支払うべきことが明らかなものとして、上記規定に違反するものではないといえる。

したがって、本件協定は、労働者がその自由な意思に基づいて同意したものに適用する限りにおいては、事理明白なものであり、有効であると認められる。

3.会社が負担すべき経費を労働者の賃金から天引きしてよいのか?

 今回問題となった費用は、会社の事業活動のために発生する経費という意味合いが強いように思います。こういった費用は賃金控除以前の問題として、そもそも労働者に転嫁すること自体に違和感があります。

 裁判所が、労働者への転嫁が許容されることを前提に、労使協定で賃金控除の対象にできると判示した点は、本当にそれが法の趣旨に適っている解釈なのかには、疑問を禁じ得ません。

 しかし、従前それほど十分な議論が行われてこなかったこの問題について、本件のような判断を示した裁判例が出現したことには、留意しておく必要があります。