1.賃金全額払いの原則
労働基準法24条1項本文は、
「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。」
と規定しています。
この規定があるため、使用者は、労働者に対して債権を持っていたとしても、これを賃金支払債務と相殺することができないと解されています。
ただ、この規定は、使用者側からの一方的な相殺を禁止しているに留まります。相殺がされたのと同様の効果を、労使間の合意によって作り出すことまでが禁止されているわけではありません。
しかし、合意の名のもとに相殺禁止のルールが骨抜きにされないよう、裁判所は合意が有効になる範囲を限定しています。具体的に言うと、合意が有効であるためには、
「労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在する」
ことが必要であるとされています(最二小判平2.11.26労働判例584-6 日新製鋼事件参照)。
それでは、裁判所のいう「労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在する」場合とは、具体的にどのような場合のことを指すのでしょうか?
この問題を考えるうえで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令2.10.28労働判例ジャーナル108-26 独立行政法人国立病院機構事件です。
2.独立行政法人国立病院機構事件
本件で被告になったのは、医療の提供等を目的として設立された独立行政法人です。
原告になったのは、被告の運営する病院で院長を務めていた医師です。退職手当を対象とする相殺を合意したものの、当該合意は労働基準法24条1項に違反すると主張して、控除された額に相当する未払賃金の支払を求める訴えを起こしました。
院長は訴外日本債権回収という会社に負債があり、同社から給料の差し押さえを受けていました。しかし、原告は院長として、差押命令に基づく日本債権回収への支払いを停止させました。その後、日本債権回収の取立訴訟を受け、これに敗訴した被告は、日本債権回収機構への多額の支払いを余儀なくされました。
その後、被告は、原告との間で、
取立訴訟により支払いを余儀なくされた額、
取立訴訟への応訴対応のため支出した弁護士費用
の合計を退職金から支払ってもらう合意を交わしました。
この相殺合意に法的な効力が認めらられることを争い、原告が訴訟提起したのが本件です。
裁判所は、次のとおり述べて、相殺合意の効力を認め、原告の請求を棄却しました。
(裁判所の判断)
労基法24条1項本文の定めるいわゆる賃金全額払の原則の趣旨とするところは、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、もって労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活を脅かすことのないようにしてその保護を図ろうとするものというべきであるから、使用者が労働者に対して有する債権をもって労働者の賃金債権と相殺することを禁止する趣旨をも包含するものであるが、労働者がその自由な意思に基づき相殺に同意した場合においては、その同意が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは、その同意を得てした相殺は同規定に違反するものとはいえないものと解するのが相当である(最高裁平成2年11月26日第二小法廷判決・民集44巻8号1085頁参照)。」
「そこで検討すると、前記認定事実によれば、福山医療センターの院長の地位にあった原告が、本件差押命令に基づく支払を停止したことにより、被告は、別件取立訴訟を提起され、本来原告が負担すべきである約1425万円もの多額の金銭の支払いを余儀なくされたことから、B理事長は、本件面談の際に、原告に対し、返済方法について質問したところ、原告が、一括での返済が不可能であるため被告から色々と提案して欲しいなどと述べたのに対し、B理事長は、丁寧な口調で本件退職手当から控除する旨提案し、原告は、特段、躊躇したり、質問したりすることなく、これに応じ、本件合意書に署名押印しているのであって、本件合意書の作成過程において、強要にわたるような事情はうかがえない。」
「また、本件相殺合意をすることは、原告としても、定年退職までの約9か月間、被告に対する支払いを猶予してもらえるという利点があるし、返済の有無及び方法は原告に対する懲戒処分の軽重に影響しうる事情であると考えられるのであるから、本件相殺合意をすることが、原告の一方的な不利益になるということもできない。」
さらに、本件合意書においては、本件退職手当から法定控除及び差押命令に基づく弁済額の合計額を差し引いた残額を相殺の対象とすることが明示されているなど、合意の内容に不明確なところはない。
以上によれば、本件相殺合意は、原告の同意を得てなされたものであり、その同意は、原告の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在していたものというべきである。
したがって、本件相殺合意は、労働基準法24条1項に違反するものではなく、また他の労基法違反を認める事由もないから、労基法13条により無効となるものではなく、原告の主張には理由がない。
3.相殺合意が許されるのかを検討するに当たっての考慮要素
以上のとおり、裁判所は、労働者側からの提案、丁寧な説明、書面の取り交わし、懲戒処分との関係での原告の利益などを考慮要素として指摘したうえ、相殺合意の効力を認めました。
相殺合意の可否は、規範が抽象的であるため、その意味内容を知るための一事例として、本件は参考になるように思われます。