弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

営業活動の費用を賃金控除の対象にできるのか?-個別合意の撤回の可否

1.賃金全額払いの原則とその例外

 労働基準法24条1項は、

「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。ただし、法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合又は厚生労働省令で定める賃金について確実な支払の方法で厚生労働省令で定めるものによる場合においては、通貨以外のもので支払い、また、法令に別段の定めがある場合又は当該事業場の労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定がある場合においては、賃金の一部を控除して支払うことができる。」

と規定しています。

 この条文には複数のテーマが織り込まれているのですが、傍線を付した部分を「全額払いの原則」ないし「全額払原則」といいます。

 全額払いの原則とは、噛み砕いていくと、

使用者は労働者に賃金全額を支払わなければならない、

ただし、法令に定めがあったり、労使協定があったりする場合にのみ、例外的に一定の費目を控除することが可能になる、

というルールをいいます。

2.労使協定に加えて求められる個別合意の撤回の可否

 上述のとおり、法令に定めや労使協定があれば、使用者は賃金控除を行っても、労働基準法24条違反の責任を問われることはなくなります。

 しかし、実際に賃金控除を行うためには、賃金控除を行うことが労働条件として労働契約に組み込まれている必要があります。具体的に言うと、労働協約や就業規則の根拠規定か、対象労働者との個別合意が必要になります。

 昨日、この個別合意に自由な意思の法理を適用した裁判例として、京都地判令5.1.26労働判例1282-19 住友生命保険(費用負担)事件を紹介しました。

 それでは、自由な意思に基づいて個別合意を交わしたとして、その個別合意を将来に向けて撤回することはできないのでしょうか? 住友生命保険(費用負担)事件は、この問題を考えるうえでも参考になる判断を示しています。

3.住友生命保険(費用負担)事件

 本件で被告になったのは、生命保険業等を行う会社です。

 原告になったのは、被告の営業職員の方です。賃金から被告が業務上の経費を控除したことは労働基準法24条1項の全額払原則に反すると主張し、控除された分の支払い等を求める訴えを提起したのが本件です。

 原告が賃金から控除された費目には、携帯端末使用料、機関控除金(被告が週1回発行するチラシ代など)、会社斡旋物品代(「SUMITOMO LIFE」のロゴ入りチョコレート・飴等の販促品代など)がありました。

 本件では、こうした費用を賃金から控除することが許されるのかが争点になりました。

 裁判所は、労使協定の効力を認めたうえ、個別合意に自由な意思の法理が適用されることを認めました。そのうえで、次のとおり述べて、明示的に異議を述べた時以降の賃金控除を否定しました。

(裁判所の判断)

「機関控除金に係る物品等は、各営業職員が、所定の注文書等を用いて注文するところ、当該注文書又は当該物品のチラシには、当該物品等の単価が明記されており、当該営業職員は、予め物品等の購入代金を把握した上で注文するものである。各営業職員は、本件携帯端末の画面上で、給与・報酬支給明細書や機関控除金・斡旋物品代明細リストを確認することにより、賃金から控除される機関控除金の金額や内訳を確認できる・・・。」

「原告は、平成5年3月に被告の営業職員となって以降、営業活動費は自己負担である旨が記載された勤務のしおりを毎年4月に交付され・・・、原告の請求期間の始期である平成24年10月に差し掛かるまでの約20年弱の間、機関控除金に係る物品等について、当該物品等を注文すれば、原告の給与から当該物品等の代金が引き去られることを承知の上、所定の注文書等により注文をしてきており、その状況下で、上記請求期間中も引き続き注文をしていたのであるから、原告と被告との間で、その注文の都度、機関控除金に係る物品等について、当該物品等を原告の費用負担で購入し、当該購入代金を原告の給与から引き去ることについての個別合意が成立したといえる。

「この点、原告は、機関控除金に係る物品は被告から自己負担での利用を強制されていたもので、合意はしていない旨主張するが、営業活動において機関控除金に係る物品を利用するか否かについては、被告からの推奨はあるものの、最終的には各営業職員の判断であり・・・、その利用が義務付けられていたことまでを認めるに足りる証拠はない。」
もっとも、原告は、平成30年11月27日、被告京都支社総務部長に対し、平成31年1月から、封筒代、京都おすすめスポットカレンダー代及びオーナーズ通信代が給与から控除されることについて同意できない旨、賃金から何らかの金員を控除するに当たり、朝礼で説明したことをもって同意したとは認められない旨を通知しており・・・、同月からの賃金控除について明示的に異議を述べたことが認められる。また、原告は、平成30年12月25日、被告京都支社総務部長を経由して、コンプライアンス推進室長に対し、封筒代及び募集資料コピー用紙代の賃金控除に関して疑問を呈して質問する通知書を提出している・・・。これらの事実によれば、少なくとも平成31年1月分以降については、原告の賃金から控除することについて原告が同意していたと認めることは困難であるといわざるを得ない。

4.合意は将来に向けて撤回できる

 上述のとおり、裁判所は、異議を述べてからの賃金控除を否定しました。

 賃金控除に関しては、

自由な意思の法理により合意の成否を問題にすることができるだけではなく、

仮に、合意の成立を認定されたとしても、異議を述べることにより将来に向けて個別合意の撤回をすることもできます。

 本件のように撤回が認められた裁判例の存在を踏まえると、賃金控除が不本意である場合、既成事実が積み重なっていたとしても、先ずは異議を明確に通知しておくことが重要です。