1.精神障害の労災認定
精神障害の労災認定について、厚生労働省は、
令和5年9月1日 基発0901第2号「心理的負荷による精神障害の認定基準について」
という基準を設けています。
https://www.mhlw.go.jp/content/001140931.pdf
この認定基準は、
対象疾病を発病していること(第一要件)、
対象疾病の発病前おおむね6か月の間に、業務による強い心理的負荷が認められること(第二要件)、
業務以外の心理的負荷及び個体側要因により対象疾病を発病したとは認められないこと(第三要件)、
の三つの要件が満たされる場合、対象疾病を業務上の疾病として取り扱うとしています。
この認定基準は、行政に留まらず、多くの裁判所でも業務起因性の判断枠組として採用されています。
2.発病後の事情はどうなるのか?
ここで一つ疑問が生じます。
第二要件との関係で、発病後の出来事はどのように評価されるのかという問題です。
例えば、精神疾患の発病から自殺までの間にタイムラグがある場合、発病~自殺の間に発生した心理的負荷を生じさせた事情が、自殺の業務起因性を肯定するための考慮事情になるのでしょうか?
自殺事案の場合、「心理的負荷による精神障害の認定基準に係る運用上の留意点について」(令和5年9月1日 基補発0901第1号)という通達があり、
「業務上の精神障害によって、正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、又は自殺行為を思いとどまる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態で自殺が行われたと認められる場合には、結果の発生を意図した故意には該当しない。」
という取り扱いがなされています。そのため、精神障害の業務起因性が認められさえすれば、自殺にも業務起因性が認められることは多く、発病~自殺までの出来事を立証しなければならないケースは、それほど多くないようには思われますが、認定基準は次のように記述しています。
「精神障害を発病して治療が必要な状態にある者は、一般に、病的状態に起因した思考から自責的・自罰的になり、ささいな心理的負荷に過大に反応するため、悪化の原因は必ずしも大きな心理的負荷によるものとは限らないこと、また、自然経過によって悪化する過程においてたまたま業務による心理的負荷が重なっていたにすぎない場合もあることから、業務起因性が認められない精神障害の悪化の前に強い心理的負荷となる業務による出来事が認められても、直ちにそれが当該悪化の原因であると判断することはできない。」
「ただし、別表1の特別な出来事があり、その後おおむね6か月以内に対象疾病が自然経過を超えて著しく悪化したと医学的に認められる場合には、当該特別な出来事による心理的負荷が悪化の原因であると推認し、悪化した部分について業務起因性を認める。」
「また、特別な出来事がなくとも、悪化の前に業務による強い心理的負荷が認められる場合には、当該業務による強い心理的負荷、本人の個体側要因(悪化前の精神障害の状況)と業務以外の心理的負荷、悪化の態様やこれに至る経緯(悪化後の症状やその程度、出来事と悪化との近接性、発病から悪化までの期間など)等を十分に検討し、業務による強い心理的負荷によって精神障害が自然経過を超えて著しく悪化したものと精神医学的に判断されるときには、悪化した部分について業務起因性を認める。」
要するに、発病後の出来事は、病気が悪化しているのか、出来事が関係しているのかがよくわからないため、基本、考慮要素から排除するという意味です。
前置きが長くなりましたが、近時公刊された判例集に、発病後の期間も心理的負荷の評価期間に組み入れると判断された裁判例が掲載されていました。福岡地判令6.7.5労働判例ジャーナル151-28 国・熊本労基署長事件です。
3.国・熊本労基署長事件
本件は、いわゆる労災の不支給処分に対する取消訴訟です。
戸建て住宅等の建築請負・販売等を行とする株式会社(本件会社)に正社員として勤めていた方(亡d)が24歳で自殺したことを受け、父親が遺族補償給付や葬祭料の支給を請求しました。
これに対し、熊本労働基準監督署長(処分行政庁)が不支給処分をしたことを受け、その取消を求め、父親が国を訴えたのが本件です。
亡dが自殺したのは、平成28年1月1日で、原告と被告との間では、発病時期に認識の相違がありました。
具体的には、
原告が平成27年12月28日頃発病
と主張したのに対し、
被告は平成27年11月17日頃発病
だと主張しました。
なぜ、発病時期が争点になるのかというと、発病時期が起算点となって心理的負荷の対象期間が定まるからです(第二要件)。
このような状況のもと、裁判所は、発病時期について、次のような判断を下しました。
(裁判所の判断)
「認定基準において、精神障害の疾患名、発病時期等はICD-10診断ガイドラインに基づき医学的に判断すべきものとされている・・・。」
「そこで、医学的な見地から亡dの精神障害の疾患名、発病時期等を検討するに、特定医療法人p会理事長のq医師(以下『q医師』という。)は、平成29年11月28日付けで処分行政庁に提出した意見書・・・において、亡dが、平成27年11月17日午前1時頃に母親に架電し『俺死ぬけん。死んだら皆に連絡して。』と告げたこと、同月22日に母親が来訪して食事をした際には『心療内科で抗うつ剤をもらってでも、もっと頑張りたい。』、『胃腸の調子が悪く最近痩せた。食欲が落ちた。』などと愚痴を述べていたこと、同月24日に予定されていた業務を休みたいと本件事業場に連絡したこと等の事実経過から、この頃、亡dにはうつ病の三つの基本症状・・・である抑うつ気分、興味と喜びの喪失及び易疲労性がそれぞれ発現したと推測し得るものの、上記食事の際の母親の観察以外には日常生活における他者からの観察がなく、症状の持続も認められないため、中等症うつ病エピソードの診断基準を満たさない一方、同じ頃、亡dにはうつ病の一般症状である将来に対する希望のない悲観的な見方、自死の観念(希死念慮)及び食欲不振等が発現しており、全般的な診断的印象からその本質において抑うつ的と示唆されることから、亡dは最初に希死念慮が発現したと認められる同年11月17日の時点で他のうつ病エピソードを発病したと診断すべきである旨の意見を述べている。」
「また、q医師は、同人作成の令和4年10月5日付け医学意見書・・・及び同年12月16日付け医学意見書(追加意見)・・・において、亡dが、平成27年12月21日に産業医との面談を受けた際には上記基本症状を呈しておらず、『大丈夫と言わないとやばい』と自ら判断した上で、その旨の回答をしたこと、同月26日にはk統括、nら職場の上司・同僚と深夜までテレビゲームに興じたこと、同月28日には学生時代の友人らと深夜まで飲み会に参加して愚痴を述べ合うなどした後、友人宅に宿泊したこと等の事実経過に照らせば、亡dは同日頃の時点でも自ら利害得失を判断して受け答えをする精神的余裕があり、興味や喜びの感情に加え相応の活動性も保持していたと考えられるから、上記基本症状の発現・持続は認め難く、中等症うつ病エピソードの診断基準を満たさない旨の意見を述べている。」
「さらに、r病院理事長のs医師は、令和5年10月24日付けで作成した意見書・・・において、米国精神医学会策定の『精神疾患の診断・統計マニュアル』第5版(DSM-5)の診断基準を用いて診断しても同様の結論になるとして、q医師の上記意見を支持している。」
「上記・・・の精神科の医師らによる意見は、臨床上広く承認されたICD-10診断ガイドラインの解釈・・・を前提として、処分行政庁が収集した資料、関係者の供述等から認められる客観的・具体的事実関係に基づき示されたものであり、相応の信頼性、合理性を有していると考えられるから、亡dは平成27年11月17日頃に他のうつ病エピソードを発病していたものと認めることが相当である。」
「他方、t病院精神科のu医師(以下『u医師』という。)は、令和4年6月23日付けで作成した意見書・・・において、亡dは平成27年12月28日頃に極めて重い中等症うつ病エピソードを急激に発病した旨の意見を述べている。その内容は、亡dの発病した精神障害の疾患名、発病時期の点ではq医師らの意見と相違し採用できないものの、時間外労働が月100時間以上であれば精神障害を発病するほど過重で、それを下回ると過重でないという形式的な線引きが適切でないことについては首肯し得るし、交際女性との別離や中学生時代の既往症が亡dの自死の主因とは解されないとの判断は処分行政庁の判断とも矛盾せず、一定の信頼性、合理性を有する。また、仮に亡dが平成27年12月28日頃に精神障害を発病していたとしても、同日の3日後の平成28年1月1日に自死したことから、同日までに中等症うつ病エピソードの診断に求められる持続期間(2週間)を満たしていないのはやむを得ないというべきであり、それを前提として平成27年12月28日頃の亡dの症状を検討した上で精神障害の発病(ないし急激な悪化)を認めている点ではq医師の意見書よりも合理性があると考えられる(なお、原告は適応障害の発病も主張するが、上記u医師の意見書でも触れられていないことから採用できない。)。」
「その上で、精神障害の悪化には、自然経過による悪化過程においてたまたま業務による心理的負荷が重なったにすぎない場合もあるから直ちに当該心理的負荷を精神障害の悪化の原因とは判断できない旨の医学的知見があること(令和5年7月報告書19頁参照)を踏まえても、被災者に発病した精神障害が自然経過を超えて著しく悪化したような場合には発病後の業務による心理的負荷を考慮することが可能であるものと解される。」
「そして、亡dは、平成27年11月17日頃に他のうつ病エピソードを発病した後も精神科への通院治療や服薬をすることなく通常の勤務を継続することができており、同年12月21日の産業医との面談でも特に異常は見られず・・・、同月26日にk統括やnら上司、同僚と夜中テレビゲームで遊んだ際も盛り上がり楽しそうにしていたこと・・・、ところが、年内の労働が終了した翌日である同月28日の同窓会の二次会及び同月29日の実家への帰省以降、亡dは憔悴して旧友のv(以下『v』という。)や母親から見ても言動に明らかな異変を生じ・・・、その異変が初めて見られた上記同窓会の二次会からわずか4日後の平成28年1月1日に自死に至ったものであることに照らすと、亡dの精神障害は平成27年11月17日頃に他のうつ病エピソードとして発病して以降、平成28年1月1日の自死までの間に自然経過を超えて著しく悪化したものであるといえるから、亡dの他のうつ病エピソードの著しい悪化及びそれに起因する自死については、平成27年11月17日頃から同年12月28日頃までの本件会社の業務による心理的負荷も含めて業務起因性を判断すべきであると考えられる(なお、自死の原因についてその直前の自死者の就労状況、生活状況等を考察するのはむしろ自然かつ適切であるといえる。)。」
「したがって、本件会社の業務による亡dの心理的負荷の評価期間については、亡dが自死した平成28年1月1日の4日前である平成27年12月28日頃からおおむね6か月前(亡dが他のうつ病エピソードを発病した平成27年11月17日頃のおおむね5か月前を含む。)とすることが相当である。」
・被告の主張について
「被告は、平成27年12月28日頃以降亡dに中等症うつ病エピソードの診断に求められる症状の2週間以上の持続が認められないことから、他のうつ病エピソードの発病時である同年11月17日頃からおおむね6か月の間を亡dの業務による心理的負荷の評価期間とすべきである(それ以降の期間を含むべきではない)旨主張する。」
「しかし、前記・・・のとおり亡dが平成28年1月1日に自死したことからすれば、仮に平成27年12月28日頃に亡dに中等症うつ病エピソードを発病していたとしても、診断に求められる症状の2週間以上の持続の要件を満たすことはあり得ないのであるから、同要件を満たさないからといって直ちに、その時期に亡dが何らの精神障害も発病・悪化しておらず、他のうつ病エピソード由来の症状の動揺の範囲にとどまっていたということにはならない。その上で、亡dの労働時間が平成27年11月17日頃から増大しており、11日の連続勤務も生じていること(後記3)や、先輩職員による指導に不適切な面が見られたこと(同4)に照らすと、平成28年1月1日の亡dの自死については、その1か月半前である平成27年11月17日頃に発病した他のうつ病エピソードが本件会社での時間外労働等の業務に起因する心理的負荷により自然経過を超えて著しく悪化したことによる可能性が高いと考えられるのであって、他のうつ病エピソードの症状初発時から自死までの期間を業務による心理的負担の評価対象としないことが適切であるとは考え難い。よって、被告の上記主張を採用することはできない。」
4.発病時期と心理的負荷の評価期間が切り離された例
上述のとおり、裁判所は、発病時期と心理的負荷の評価期間を切り離して考えました。こうした判断を踏まえると、今後、事案によっては、無理に発病時期に関する医学論争に持ち込む必要がないと判断できるものも出てきそうに思えます。
労災の認定基準に照らしても例外的な場面で理論的にあり得るとは思っていましたが、実際にこうした判断があることが実証されました。
発病時期は心理的負荷の評価期間との関係で争点となることが多い問題であり、本裁判所の判断は、実務上参考になります。