1.固定残業代
固定残業代とは、
「時間外労働、休日および深夜労働に対する各割増賃金(残業代)として支払われる、あらかじめ定められた一定の金額」
をいいます(白石哲編著『労働関係訴訟の実務』〔商事法務、第2版、平30〕115頁参照)。
固定残業代は、一定の要件(判別性、対価性)のもとで残業代の支払としての有効性が認められています。
しかし、固定残業代は使用者にとって損でしかない仕組みです。
残業時間が予定された時間に満たなくても固定残業代部分の賃金を支払わなければならない反面、実労働をもとに計算した残業代が固定残業代を上回っている場合には、その差額を労働者に支払わなければならないからです。労働者の労働時間を把握する責務から解放されるわけでもなく、固定残業代の導入には、何のメリットもありません。
しかも、固定残業代の有効性が否定されると、固定残業代の支払に残業代の弁済としての効力が認められなくなるほか、使用者は固定残業代部分まで基礎単価に組み込んで計算した割増賃金を改めて支払うことになります。このことが使用者側にもたらすダメージは大きく、一般に「残業代のダブルパンチ」(白石哲ほか編著『労働家計訴訟の実務』〔商事法務、第2版、平30〕118頁)などと呼ばれています。
このように使用者側にとって危険な仕組みであることが周知されてきたためか、最近では、
固定残業代を廃止したり、
ダブルパンチを回避するため、法適合性に欠ける固定残業代の定めを法に適合する形に取り繕ったり
する動きが広がりつつあります。
この固定残業代の廃止や整理のために使われる方法に、
労働者と個別に同意する方法、
就業規則を変更する方法、
があります。
労働契約法3条1項が、
「労働契約は、労働者及び使用者が対等の立場における合意に基づいて締結し、又は変更すべきものとする」
と規定しているとおり、労働契約の内容は、労使間の合意によって変更することができます。固定残業代の廃止や整理も労使間の合意によって行うことが可能です。
また、労働契約法10条1項本文は、
「使用者が就業規則の変更により労働条件を変更する場合において、変更後の就業規則を労働者に周知させ、かつ、就業規則の変更が、労働者の受ける不利益の程度、労働条件の変更の必要性、変更後の就業規則の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況その他の就業規則の変更に係る事情に照らして合理的なものであるときは、労働契約の内容である労働条件は、当該変更後の就業規則に定めるところによるものとする」
と規定しています。これは、周知性と合理性を要件に、就業規則の変更によって、使用者が労働条件を一方的に変更することを認める仕組みです。固定残業代は、個別合意に基づかなくても、この就業規則の変更によって廃止、整理することができます。
このように固定残業代の廃止や整理には、二つのルートがあるのですが、それぞれのルートの関係性はどうなっているのでしょうか?
より具体的に言えば、個別同意が無効と理解されるような場合でも、就業規則変更によって固定残業代の廃止や整理が有効になるような場合はあるのでしょうか?
昨日ご紹介した、東京地判令6.2.19労働経済判例速報2561-3 ビーラインロジ事件は、この問題を考えるうえでも参考になる判断を示しています。
2.ビーラインロジ事件
本件は、いわゆる残業代請求事件です。
本件で被告になったのは、一般貨物自動車運送事業及び貨物利用運送事業等を営む株式会社です。
原告になったのは、被告との間で雇用契約を締結し、トラック運転手として働いていた方です。
被告は、平成29年3月に説明会を実施したうえ、順次、労働者から個別同意を取得し、給与体系を変更しました(旧給与体系⇒新給与体系)。これは、旧給与体系のもと有効性に疑義のあった固定残業代(時間外職能給、夜勤・長距離手当、特別手当、特務手当(固定/変動)等)を整理しようとしたものでした。
加えて、被告は、平成29年9月1日に旧給与体系を改定する就業規則の変更を行いました。
本件では、個別合意の効力のほか、就業規則の変更による給与体系の改定の効力が問題になりました。
裁判所は、次のとおり述べて、個別合意の効力を否定するとともに、就業規則の変更の効力も否定しました。
(裁判所の判断)
・個別合意の効力
「旧給与体系の時間外職能給、夜勤・長距離手当、特別手当、特務手当(固定又は変動)及び無事故手当が基礎賃金に含まれることを前提に、平成28年11月度から新給与体系に切り替わるまでの間において、原告らに対し実際に支給された旧給与体系の賃金をベースに基礎賃金(平均額)及び時間単価・・・を算定した結果は下表の『旧』欄に各記載のとおりである。他方で、請求対象期間中に原告らに実際に支給された新給与体系の賃金をベースに定額残業代を除いて基礎賃金(平均額)及び時間単価・・・を算定した結果は次項の表の『新』欄に各記載のとおりであり、旧給与体系と新給与体系を比較すると、時間単価については後者が前者の約69%から約81%の幅で減縮され、基礎賃金(平均)についても前者に比して校舎は約3万円から約7万円の幅で減少していることが認められる。」
(中略)
「このような基礎賃金及び時間単価の減額幅からすれば、日給月給制から月給制に変更されたこと、基本給が増額されたこと、過去の残業の実情を踏まえて設定した定額残業代がされていることなど原告に有利な変更点を合わせて考慮しても、新給与体系への変更は原告らにとって著しい不利益を含むものであったというべきである。」
「被告は・・・新給与体系への変更に関する説明会が実施された時点においても、仮に未払賃金請求訴訟が提起された場合には、時間外職能給、夜勤・長距離手当、特別手当及び特務手当について、裁判所により基礎賃金に含まれる可能性があることを認識し又は認識すべきであったといえる。無事故手当についても、本件訴訟で基礎賃金に含まれることを争っていないこと、元顧問社会保険労務士の見解に従っていたというほかに的確な根拠はなかったことからして同様である。」
「そして、新給与体系への変更による不利益が前期のようなものであることを考慮すると、被告従業員が新給与体系の変更について自由な意思に基づいて同意したといえるためには、被告従業員が新給与体系の変更に関する同意に先立って、新給与体系への変更により労働基準法37条等が定める計算方法により時間単価を算定した時間単価が減少するという不利益が発生する可能性があることを認識し得たと認めることができることが必要であったというべきである。しかしながら、本件では、平成25年労働条件通知所の控えは原告らに交付しておらず、新給与体系への変更に関する説明会における説明内容、本件説明会資料の記載は前記のとおり旧給与体系における基礎賃金の範囲すら正確に把握することが困難であったと認められ、原告らが新給与体系の変更に同意した際、時間単価が旧給与体系に比して約69%から約89%の幅で減縮されるという不利益が発生することが認識し得たとは到底認められない。そうすると、原告らが自由な意思に基づいて新給与体系の変更に同意したと認めるに足りる合理的な理由が客観的にあるとは認められない。」
「以上によれば、新給与体系が原告らの同意により原告らの労働条件になったものと認めることはできない。」
・就業規則変更の効力
「使用者が就業規則の変更により労働条件を変更する場合において、変更後の就業規則が定める労働条件が労働契約の内容になったと認められるためには、変更後の就業規則を労働者に周知させ、かつ、労働者の受ける不利益の程度、労働条件の変更の必要性、変更後の就業規則の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況その他の就業規則の変更に係る事情に照らし、就業規則の変更が合理的なものであると認められる必要がある(労働契約法10条)。」
「平成29年給与規程への変更についてみると、分かり易い給与体系に改善する必要性があったことは否定できないが、旧給与体系における時間単価を労働契約法37条等が定める方法により算定した場合には最低賃金法違反の問題は発生せず、この点で新給与体系に変更する必要性があったとは認められない。そして、新給与体系に変更することにより従業員の不利益の内容及び程度は前記・・・で検討したとおり、時間単価が旧給与体系に比して約69%から約81%の幅で減縮するというものであり、新給与体系の変更に関する説明会は実施されているものの、原告らにおいて当該不利益の内容及び程度を十分に把握し得るだけの情報提供が行われたとは認め難い。これらの事情を考慮すると、平成29年給与規程への変更が合理的なものであったとは認められない。」
「そうすると、周知性について検討するまでもなく、平成29年給与規程は原告らと被告との労働契約における労働条件になったものとは認められない。」
3.結局、似たような事情が指摘されて、いずれも消極に理解された
個別同意を規制する法理として、自由な意思の法理があります(最二小判平28.2.19労働判例1136-6山梨県民信用組合事件等参照)。
この「自由な意思」と「合理(性)」は概念的には異なるものですが、裁判所は、結局、似たような事情を指摘して、いずれも消極に理解しました。
労働者に必要十分な情報が提供されていないことから自由な意思が否定される場合、同じような情報提供しかないのに就業規則変更は認められるという場面は、なかなか想定しがたいように思われます。
個別合意と就業規則変更はセットで行われることが多く、本裁判例は、両者の関係性を理解するうえで、実務上参考になります。