弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

診断名が違っていたことから適切な治療を受けていなかったとして、症状固定には至っていないとされた例

1.症状固定

 治療をしても医療効果がそれ以上期待しえない状態を「症状固定」といいます。

 例えば、腕を切断した場合に、幾ら治療を継続したところで、腕が生えてくるわけではないことを想像していただくとイメージしやすいのではないかと思います。

 この「症状固定」は、損害賠償や損失補償の場面で、しばしば登場する概念です。

 例えば、労災に関していうと、療養補償給付が支給されるのは症状固定までで、あとは障害補償給付の守備範囲になるといったようにです。

 この「症状固定」との関係で、近時公刊された判例集に興味深い判断が示された裁判例が掲載されていました。東京高判令6.1.31労働判例1316-22 国・土浦労基署長事件です。何が興味深いのかというと、精神疾患の症状固定時期について、正しい診断名のもと適切な治療を受けていなかったとして、症状固定時期の認定が誤っているとされた点です。

2.国・土浦労基署長事件

 本件は労災の不支給決定に対する取消訴訟です。

 原告(控訴人)になったのは、不動産会社での業務に起因して軽症うつ病エピソードを発病したとして労働者災害補償保険法に基づく給付を受けていた方です。

 平成31年3月31日時点で症状が固定したとして、同年4月1日以降の休業補償給付の不支給処分をされたことを受け、症状はまだ固定していないと主張し、処分の取消を請求する訴えを提起しました。

 一審が請求を棄却したため、原告側が控訴したのが本件です。

 控訴審裁判所は、次のおとり述べて、原告の疾病はうつ病エピソードではなく双極性障害(双極Ⅱ型障害)であったとして、平成31年3月31日当時、症状は固定していなかったと判示しました。結論としても、一審判決を変更し、原告の請求を認容しています。

(裁判所の判断)

「労災保険法上の休業補償給付が支給されるには、業務上の疾病の療養のために労働することができないこと、つまり当該疾病が治癒(症状固定)に至っていないことを要するところ(労災保険法12条の8第1項2号、14条1項、労基法76条、77条)、この治癒(症状固定)とは、完治を意味するものではなく、その症状が安定し、疾病が固定した状態にあるものをいい、急性症状が消退し、慢性症状は持続していても、医学上一般に認められた治療を行ってもその効果が期待し得ない状態となった場合には、治癒(症状固定)したというべきである。」

(中略)

「J意見書やQ意見書がその判断の根拠とした上記出来事については、その多くが、前記認定事実に沿うものであり、また、控訴人に『マシンガントーク』がみられていたことや控訴人がプロサッカーチームの試合の観戦等へ行っていたことについては、J医師の診療録にも控訴人の供述として記載されており・・・、控訴人が提出した書証・・・によっても、控訴人が、平成28年から平成30年までの間、毎年複数回にわたりコンサート等に行っていたことが認められる。そして、その余の事実は、控訴人の陳述書・・・以外に裏付けはないが、H医師は、控訴人の疾患はうつ病であると考え、双極性障害の可能性を念頭に置いていなかったことが明らかであり・・・、これによれば、H医師は、控訴人から軽躁病エピソードに関する聴取を十分に行っていなかったとも考えられるのであるから、H医師の診療録に記載がないことは上記出来事の存在を疑わせるものとはいえない。一方、J医師は、令和元年9月の初診当初から、双極性障害の可能性を念頭に置きながら診察に当たっていたものであるが・・・、そもそも医師が患者の発言を全て逐語的に診療録に記録することは現実的ではなく、医師は、患者を直接診察し、言語化されていない情報も含めて患者に関する様々な情報を感得し、これを踏まえて患者が語るエピソードの信用性を吟味するものであり、J医師がこのようなプロセスを経ていないことを疑わせる事情も見当たらない。」

「また、Q医師は精神神経科を専門とする医師であり・・・、控訴人と特段の利害関係があることはうかがわれず、控訴人の主治医ではないものの、あらかじめ控訴人代理人から診療録、J意見書、Oら意見書、H医師の意見書・・・等の資料の提供を受けた上で控訴人を約60分にわたり診察していること・・・などに照らすと、Q医師も、控訴人から聴取した出来事について、その信用性を吟味し、信用できると考えられるもののみを判断材料に取り込んでいるものと推認される。」

「そうすると、J意見書及びQ意見書に記載された控訴人に関する出来事については、実際に控訴人が経験した事実であると認めるのが相当である。」

「したがって、J意見書及びQ意見書は、控訴人が実際に経験した出来事を基礎に、これをDSM-5又はICD-10DCRの各基準に当てはめて結論を導き出したものであって、その推論の過程にも不自然、不合理な点はないから、上記両意見書は信用できるというべきであって、平成31年3月31日当時の控訴人の精神疾患(本件疾病)は双極性障害(双極Ⅱ型障害)であったと認めるのが相当である。

「これに対し、被控訴人は、本件疾病は双極性障害ではなく軽症うつ病エピソードであったとして種々の主張をしているが、以下のとおり、いずれも採用することができない。」

「被控訴人は、令和元年9月まで控訴人の主治医を務めていたH医師は、控訴人について、『うつ病(うつ病エピソード)』と診断しているところ、Oら意見書も、控訴人に軽躁病エピソードが認められないことなどから、『軽症うつ病エピソード』との診断は適切であり、控訴人が双極性障害であったとは認められないとしているから、H医師の上記診断は妥当であると主張する。」

「しかし、上記・・・のとおり、控訴人には軽躁状態を示す出来事が認められていたのであるから、H医師の『うつ病』との診断は、上記出来事を十分に考慮したものとはいえないし、Oら意見書も、H医師の診療録に記載されていない出来事を判断の基礎から除外した結果、上記出来事を十分に考慮していないといわざるを得ない。また、後記・・・のとおり、控訴人は、令和元年9月以降、I病院に転院してJ医師の下で双極性障害の治療に用いられるラモトリギンの投与を受け、改善の効果が見られているところ、これを踏まえてH医師は、『患者の抑うつ症状は双極性障害の症状の一部だったと考えられる。』との令和4年7月26日付け意見書・・・を作成し、従前の診断を改めるに至っている・・・。」

「そうすると、平成31年3月31日当時に控訴人がうつ病を発症していたとのH医師の上記診断や、これを支持するOら意見書を採用することはできない。

(中略)

「平成31年3月31日当時の控訴人の精神疾患(本件疾病)は、うつ病(軽症うつ病エピソード)ではなく双極性障害であったと認められる。しかし、控訴人が同日までにH医師から受けていた治療は、抗うつ薬と抗不安薬を組み合わせるという、うつ病を前提としたものであったところ・・・、これは双極性障害に対する治療としては不適当なものであり、かえって病態を悪化させるおそれのあるものであったと認められる・・・。」

「一方、控訴人は、令和元年9月以降、I病院において、双極性障害を前提とした治療(ラモトリギンの投与、デイケア等)を受けたところ・・・、①主治医が労基署に提出する『非器質性精神障害の後遺障害の状態に関する意見書』中の『能力低下の状態』欄において、『できない』、『しばしば助言・援助が必要』と判定された項目が減少した・・・、②運転免許停止処分が解除され、運転免許の継続可能期間が延長された・・・、③デイケアプログラムに意欲的に取り組むようになり、参加回数、参加時間、参加中の作業の質のいずれにおいても改善効果が見られた・・・、④上記転院前は就労できない状態であったところ、上記転院後は就労移行支援を受けて訓練等給付費支給決定を受け支援プログラムを目的とする契約を締結し、一般就労を実現した・・・など、その病状は顕著に改善していることが認められる。」

「以上によれば、控訴人は、平成31年3月31日当時、双極性障害を前提とした適切な治療を受けておらず、令和元年9月以降、適切な治療を受けた結果、その病状の改善がみられているのであるから、同日時点で、医学上一般に認められた治療を行ってもその効果が期待し得ない状態となったといえないことは明らかである。

3.診断名が間違っていたという論法

 精神疾患に関しては、診断名が揺れ動くことが少なくありません。

 本件のように誤った診断のもと、症状固定と判断され、労災の保険給付を打ち切られている例は、おそらく相当数あるのではないかと思います。

 本件の裁判所は、単純化して言うと、

当初診断が適切になされていない、

当初診断が誤っていた以上、医学的一般に認められた治療が行われたとはいえない、

実際、正しい診断のもと治療が行われて病状が改善している、

という論法のもと、原告に不利な症状固定の時期に係る認定を取り消しました。

 この論法は労災民訴や労災の場面で被害者救済のため広く活用して行ける可能性があり、実務上参考になります。