弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

固定残業代の合意-2年以上前の導入の経緯であっても争える

1.古い事件

 一般論として言うと、相手方から一方的に言い渡された法律関係であったとしても、それを前提に年単位の既成事実が積み重なってしまうと、

「〇年前の件で、合意した覚えはない。」

と言ったところで、それを裁判所に認めてもらうことは困難です。

 しかし、労働条件の不利益変更が問題になるケースは、その例外で、相当古い事件でも掘り起こせることがあります。近時の判例集に掲載されていた、大阪地判令2.3.4労働判例1222-6豊和事件も、その一つです。

2.豊和事件

 本件は、原告労働者が、長時間労働によって心身の健康の健康を害したとして安全配慮義務違反に基づく損害賠償を請求するとともに、時間外勤務手当等の支払いを請求した事件です。

 時間外勤務手当等の請求の場面で、固定残業代の有効性が問題になりました。

 被告会社は、

平成26年12月15日に各従業員に対し、「新・人事制度について」と題するファイルを添付し、「説明会の資料です。参加する前に必ず1度は読む事!!」とのメッセージを記載した電子メールを送信し、

平成26年12月16日に「新・人事制度」の説明会を開催し、残業代見合いとして業務手当を支給することについて説明しました。

 また、

平成27年4月1日頃、原告に対して同年5月27日以降の原告の賃金内容を記載した給与辞令を交付し、

平成27年5月20日以降に、原告と個人面談して、パソコン画面に表示させた表を用いて、支給名目ごとの金額を示すなどして、説明を行いました。

 こうして既成事実が積み重ねられた後、平成30年2月26日に本件訴訟が提起されれました。

 この事案で、裁判所は、次のとおり述べて、固定残業代の有効性を否定しました。

(裁判所の判断)

「被告が根拠とする『人事制度の概要』と題する文書は、『2014年12月3日案』とされており、そもそも同文書を就業規則の一部と見ることは困難である。また、このことを措くとしても、同文書には、『給与体系』の項中に、業務手当につき、『総合職(営業、施工、開発及びその兼務者)であって、所属グレードがアシスタント職、レギュラー職、リーダー職の者については、業務手当を支給し、時間外手当は支給しない。』との記載があるにとどまり、業務手当が固定残業代の性質の手当であることについて、明確に定めたものとは認められない。加えて、証拠・・・によれば、賃金表には、業務手当が固定残業代の性質の手当であることを示す記載はない。

「そうすると、被告において、業務手当が固定残業代であることについて定めた就業規則が存在するとは認められない。」

「次に、業務手当を固定残業代として支給することにつき、被告と原告との間で個別の合意が成立したか否かにつき検討するに、上記・・・のとおり、被告は、平成27年5月分の給与から給与体系を全面的に改定し、従業員の給与につき、年齢給、勤続給、資格給(平成27年12月分からは『グレード級』)、職位手当、資格手当、業務手当、特別手当、地域手当、調整手当、通勤手当、時間外手当等に区分した上で、一義的に各区分に基づき定められた給与額を算定するという給与体系を導入することを決定したものであるが、従前の原告に対する給与において、固定残業代として支給される手当はなかったこと、業務手当の導入により原告の給与が増額となったわけではないこと・・・からすると、新たな給与体系において従前の給与の一部に固定残業代としての性質を有する業務手当を設けることは、従前の給与体系からの不利益変更に当たるものというべきである。

「この点に関し、被告は、業務手当を残業代見合いとして支給することを記載した資料を配布した上、説明会においてこれに言及したこと、個別の面談時にも給与の支給名目と金額を示して説明したこと、その上で業務手当の額等も明記された給与辞令を交付したことが認められるが、他方、原告がかかる給与体系の変更に同意したことを示す文書等は存在せず、原告は、平成27年10月30日、業務手当に関する疑問も含めた質疑要望書なる書面を提出しているところ、被告が明確な応答をしなかったことも踏まえると、原告が自由な意思に基づいて被告による給与体系の変更に同意したものとは認められない。

「よって、業務手当を固定残業代として支給することについての個別の合意が原告と被告との間に存在したとも認められない。」

「以上によれば、原告に支給されていた業務手当について、被告が予め残業代の支払に充てる趣旨で支給していた固定残業代であったと認めることはできない。」

3.なし崩し的な固定残業代の導入に泣き寝入りをする必要はない

 私の感覚では、新たに固定残業代の導入がされるときに、固定残業代部分に相当する手当が付加・積み上げられるということは稀です(そんな導入はしても使用者側にメリットがないからだと思います)。概ねのケースでは、従前の賃金の一部が固定残業代の名目に置き換わる形で導入されているように思われます。

 このような方式での固定残業代の導入は、裁判所が指摘するとおり、労働条件の不利益変更に該当します。

 労働条件の不利益変更は、そう簡単には認められません。

 就業規則を変更するにしても、

「業務手当を支給し、時間外手当は支給しない。」

みたいな説明では不十分ですし、賃金規程に明確に固定残業代であることを定めておく必要があります。

 それが欠けている場合、合理性審査(労働契約法10条に基づいて就業規則の変更による労働条件の不利益変更が可能かどうかの判断を行うこと)にすら行き着かず、そもそも就業規則上の労働条件になっていないと理解されることになります。

 また、労働条件の不利益変更に対する個別合意が認められるかどうかも慎重に認定されます。

 幾ら説明が塗り重ねられていたとしても、また金額まで明確にした説明されていたとしても、それに明確な反対をしなかったというだけで合意を認定されることはありません。二年以上の既成事実が積み重なったとしてもです。

 一般論として、古い事件は、それだけで弁護士から扱いにくい事件だという先入観をもたれがちです。それは概ねの紛争類型では正しいのですが、固定残業代の効力をめぐる紛争は例外です。かなり昔の導入の経緯でも、争えることが少なくありません。

 固定残業代は随所で紛争の火種となっている問題の多い仕組みです。釈然としない思いをお抱えの方は、ぜひ一度、ご相談頂ければと思います。上述の一般論との関係で、弁護士によって見解が変わる可能性があるため、セカンドオピニオン、サードオピニオンのお問合せも歓迎します。