弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

退職金(退職手当)の金額が何となく誤っているかもしれないという可能性を想起した職員に差額返還を申し出るべき義務はあるか?

1.複雑な退職金(退職手当)の計算

 大企業や公務員の退職金(退職手当)の計算は、複雑であることが少なくありません。例えば、人事院は、退職手当の計算例として、下記のような例を挙げています。

 

【定年退職で在職中に休職期間のある例】

生年月日:昭和38年(1963年)6月20日(61歳定年)

退職日の俸給月額:行(一)5級73号俸 388,500円

定年退職日の俸給月額:行(一)5級73号俸 272,000円(388,500円×0.7)

在職期間:(採用年月日) 昭和61年(1986年)4月4日

                                     (月の途中での採用:1月として算定)

                (昇格年月日)  令和4年(2022年)4月 1日(5級昇格)

                (旧定年退職日) 令和6年(2024年)3月31日

      (退職年月日)  令和7年(2025年)3月31日

私傷病による休職期間:除算対象期間 7月間(※休職期間は、調整額の算定の基礎となる期間の計算に影響がなかったものとする。)

除算期間:7月÷2=3.5月

勤続期間:(2025年3月)-(1986年4月)-除算期間(3.5月)

              = 39年-3.5月

              = 38年8.5月 → 38年(1年未満端数切捨て)

退職理由別・勤続期間別支給割合:47.709(退手法5条適用)

退職手当支給額:基本額(退職日の俸給月額 × 支給割合(47.709))+ 調整額

              = 388,500円 × 47.709 +(32,500円×36月+27,100円×24月)

                  (調整額は退職日までの期間で計算する)

              = 20,355,346.5円

              = 20,355,346円 (1円未満端数切捨て)

https://www.jinji.go.jp/seisaku/kyuyoshogaisekkei/top/taite1-4.html

 

 これを見たところで、どれだけの人が正確に計算式を理解できるのかは疑問に思います。

 それでは、誤って過大に計算された退職手当を受け取った受給者は、正当な金額との差額の返還を申し出るべき義務を負うのでしょうか?

 近時公刊された判例集に、この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が掲載されていました。神戸地判令7.3.5労働判例ジャーナル162-40 神戸市事件です。

2.神戸市事件

 本件で原告になったのは神戸市です。

 違法な取り決めに従って本来よりも高額に退職手当が算定されていたとして、退職した元職員ら複数名に対し、

「主位的に、本件退職手当受給者らは、違法な取決めに従って退職手当が支給されることを意図して原告に対して退職手当の請求を行い、原告に本来の支給額を超える退職手当の支給をさせたと主張して、

予備的に、本件退職手当受給者らは、退職手当支出明細書を受領した際、本来受給すべき退職手当の額を越えて退職手当を受給したことを知りあるいは容易に知り得たのであるから、原告に対して、本来受給すべき額との差額の返還を申し出るべきところ、これを怠ったと主張して」

過払い額相当額のを損害と構成し、不法行為に基づく損害賠償請求を行ったのが本件です。

 裁判所は過大な退職手当が支給されていたことを認めながらも、主位的請求、予備的請求の双方を棄却しました。本件で目を引いたのは、予備的請求を棄却する結論を導く中で行われている次の判示です。

(裁判所の判断)

「原告は、本件退職手当受給者らが本件取決めの内容及びその違法性を認識していたことを前提として、予備的に、本件退職手当受給者らは、退職手当支出明細書を受領した際、本来受給すべき退職手当の額を越えて退職手当を受給したことを知りあるいは容易に知り得たのであるから、原告に対して、本来受給すべき額との差額の返還を申し出るべきところ、これを怠ったと主張する。」

「しかし、本件退職手当受給者らが本件取決めの違法性を認識していたとは認められないことは前記のとおりであり、原告の主張はその前提を欠く。なお、仮に本件退職手当受給者らが、退職手当支出明細書の除算期間の記載を見て、その退職金の額が誤っているかもしれないという抽象的な可能性を想起したとしても、そのことのみをもって、本件退職手当受給者らに、原告に対して、本来受給すべき額との差額の返還を申し出るべき義務が生じるとも認められない。

「したがって、原告の予備的主張には理由がない。」

3.何となくおかしい程度で返還を申し出る義務はなさそう

 神戸市側がなぜ不当利得ではなく、わざわざハードルの高い不法行為という構成をとったのかは分かりません。また、特定の義務を前提としない不当利得の構成で請求されていたらどのような結論になっていたのかも不明です。不当利得が成立する場合、過払受給分は返還する必要が生じるため、義務がないと判示されたところで、純民事的には結果に直結するような判断がなされているわけではありません。

 しかし、退職手当の金額については、何となくおかしい程度の疑義(抽象的な可能性の想起)に留まる場合、これを黙って受給し、返還を申し出なかったとしても、義務違反が生じることはないとの判示は重要な指摘だと思います。作為義務があるとなると、これを黙って受給した場合、詐欺として民事的な損害賠償責任だけではなく、刑事責任まで負うことに発展しかねないからです。

 裁判所の判断は、公務員が退職手当を受給するにあたり、どの程度、感度を高くしておかなければならないのかを考えるにあたり、実務上参考になります。