弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

退職の意思表示が心裡留保で無効とされた例

1.心裡留保

 民法93条は、

「意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方がその意思表示が表意者の真意ではないことを知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。」

と規定しています。要するに、

その気もないのにその気があるかのように喋ってしまったことは、基本的に有効、

ただし、その気がないことを相手方が知っていたり、知ることができた時には、喋ったことを無効にできる、

という仕組みです。これを法律用語で「心裡留保」といいます。

 退職の意思表示も、民事上の意思表示には違いないため、民法93条の適用を受けます。ただ、退職の意思表示を否定するにあたっては、

① 慎重な認定が必要/確定的な退職の意思表示がない、

② 自由な意思の法理

③ 錯誤(民法95条)、詐欺・強迫(民法96条)、

といった法律構成がとられることが多く、心裡留保という法律構成がとられることは、あまりありません。

 しかし、近時公刊された判例集に、退職の意思表示を心裡留保で無効とした裁判例が掲載されていました。長野地松本支判令3.4.26労働判例1310-139、東京高判令4.1.26労働判例1310-131 アイウエア事件です。

2.アイウエア事件

 本件で被告になったのは、教育に関するカリキュラム・教材の作成及び販売業務等を目的とし、学習塾を運営している株式会社です。

 原告になったのは、平成25年5月20日に被告との間で雇用契約を締結し、同年6月1日付けで入社した方です。6月12日まで被告本社で勤務していたものの、同月13日から平成29年1月26日まで、中国上海市に赴任して、上海に海外赴任している日本人の子女に英語や国語を教える講師として働いていました。

 労働時間の管理等に関する被告の対応に改善を申し入れていたところ、平成28年12月27日、「雇用期間終了についてのご連絡」と題するメールを送信され、平成29年1月26日付けでの雇用契約の終了を告げられました。これに対し、雇用契約の終了の効力は生じていないと主張し、再就職するまでの未払賃金等を求める訴えを提起しました。

 しかし、原告の方は、上海赴任後、平成25年9月1日付けで、

「私事この度一身上の都合により、平成二十五年九月三十日をもちまして退職いたしたく、ここにお願い申し上げます。」

と記載された退職願を提出していました(本件退職願)。

 そのため、この事件では、本件退職願を提出した時点で既に被告との雇用契約が終了していたのではないかが争点となりました。

 裁判所は、次のとおり述べて、心裡留保の主張を認め、本件退職願の効力を否定しました。結論としても未払賃金の請求を認める判断をしています。

(裁判所の判断)

「前記・・・で認定したところによれば、①平成25年5月17日から同年6月20日までインターネット上に掲載されていた求人情報における募集要項には、中国上海市を勤務地とする海外・帰国生向けの学習塾の講師を被告の正社員として募集し、海外の現地法人への転籍があることを前提とした求人を行っているものの、福利厚生・待遇欄の各記載は、被告のA海外赴任規定の内容と一致し、上海浦東校が被告の事業所であると読み取れる記載も複数見られること、②原告は、平成25年5月20日、被告との間で、雇用期間の始期を同年6月1日とする期間の定めのない雇用契約を締結し、同日から同月12日まで東京の被告本部に勤務し研修を受けた後、同月13日から上海浦東校で講師として勤務を開始したが、雇入通知書においては、就業場所欄で『その他 上海浦東校』にチェックが付され、就業時間や休日については『任地異動後は現地にしたがう』と手書きで付記されている一方、短期の出向期間を経て転籍となるまでの間の数か月の契約期間で被告との契約が終了することや、雇用期間の終期について特段の記載はなく、雇用契約の締結に当たって、上記の点及び転籍後の労働条件について、被告が原告に説明を行ったとは認められないこと、③被告経理総務部のP2は、出向形態に関する原告とのメールのやり取りの中で、在籍出向と転籍出向の相違点につき、海外赴任手当の支給、海外旅行傷害保険の保険料の負担、労働災害保険の海外特別加入等について言及した上で、『帰任の際、転籍社員は、在籍と変更します。一度、転籍したら、帰任(帰任とは、帰国して、勤務を続けていただくことです。)まで籍の変更はありません。』と説明し、これを受けて原告は、最終的には転籍を選択したこと、④被告は、原告に対し、退職日欄等が空欄となっている退職願のひな型をメールで送付し、退職日欄は同年9月末日とした上で、記入日付欄には退職日より14日以上前の日付を記入するよう指示し、原告はこれらの指示に従い、退職日欄に『平成25年9月30日』と記入し、これに署名押印した上で、P2に対し、本件退職願をPDFファイルで送信して提出したことの各事実が指摘できる。」

「転籍の法的性質は、企業間の労働契約上の地位の譲渡、又は転籍先企業との新たな雇用契約の締結を停止条件とする、転籍元企業との従前の雇用契約の合意解約であると解される。本件では、募集要項や雇入通知書において、海外の現地法人への転籍があることについて言及されているものの、被告との雇用契約が短期間で終了し、被告とは業務提携関係があるにすぎない海外の現地法人との間で新たに雇用契約が締結されることが、被告との雇用契約の前提となっているとまでは読み取れないし、同募集要項等に記載された雇用条件が、正社員であるという点を除き、新たな雇用契約の下でどの程度維持されるかも明確ではない。さらに、日本とは異なる海外の法制度の下で、どのような労働条件で海外の現地法人により雇用されることになるかは、原告の雇用契約上の地位に関わる重要な点であるが、原告は、本件退職願の提出に当たって、これらの点について被告から説明を受けた形跡はなく(説明書を用いた事前説明かあったとは認められないことについては後記イのとおりである。)、かえって、被告からは、転籍出向後も被告の海外赴任規定の適用を前提とした手当の支給等が行われることや、転籍出向後も被告への帰任が前提となっているかのような説明がされており、原告において、被告との雇用契約が存続するとの認識を有していたとしても不自然ではない。」

「これらの点を含め、前記認定のとおりの本件退職願作成までの経緯や、被告を退職することについて、原告自身が特に積極的な希望を有していたわけではないことに照らすと、原告においては、確かに、転籍出向を自ら選択し、本件退職願に署名押印して提出しているものの、海外の現地法人との新たな雇用契約の締結を前提とした上で、真に被告との雇用契約を終了させる意思に基づいてこれを提出したものではないと認めるのが相当である。」

(中略)

「前記・・・によれば、①被告のA海外赴任規定には、Aの海外校が所在する国ごとに、給与計算で用いる物価調整指数や為替レートのほか、海外赴任手当や住宅手当、給与の支払方法の定めがあり、赴任・帰任にかかる費用や、福利厚生として社会保険及び海外旅行傷害保険等に関して出向形態ごとの相違点についても規定が置かれているが、原告の給与の支給金額及びその計算方法並びにその他の待遇は、同海外赴任規定の定めと一致していること、②被告は、上海浦東校における日本人講師の出退勤状況について把握しており、時間外・休日労働申請書は、上司の承認を受けた上で、被告の経理総務部に提出することになっていたほか、被告は、日本法及び被告の就業規則に基づき、原告が被告に入社した平成25年6月を勤続年数の起算点として年次有給休暇日数を管理し、その取得について被告の許可が必要とされていたことが認められる。」

「そうすると、原告が被告を真に退職し、被告との雇用関係が一切失われていたとすれば、原告の給与の支給及び労務管理等につき、被告の従業員に適用されるべき海外赴任規定や就業規則又は日本法に基づいて、被告による決裁処理が行われていたことの合理的な説明がつかない。そして、被告がこのような処理を行っていたとの事実は、原告による退職の意思表示が形式的なものにすぎず、同意思表示後も、原告と被告との雇用関係が継続しているとの認識を被告自身も有していたことを示すものであって、その他前記・・・で認定した被告とB及び上海浦東校との関わり方についての各事実を併せて考えると、被告は、原告による退職の意思表示が真意に基づくものでないことについて、悪意であったというべきである。」

(中略)

「以上によれば、原告による退職の意思表示は、海外の現地法人との新たな雇用契約の締結を前提とした上で、真に被告との雇用契約を終了させるとの意思に基づくものではなく、かつ、被告は、原告による退職の意思表示が真意に基づくものではないことについて悪意であったと認められるから、原告による退職の意思表示は、心裡留保によって無効である。」

3.珍しい法律構成が認められた例

 上記の地裁の判断は、高裁でも維持されています。

 冒頭で触れたとおり、心裡留保という法律構成がとられることは、実務上、あまり目にすることはありません。一体どういう場面で活用できるのかなと思っていたのですが、本件のような事案では奏功するようです。本裁判例は、心裡留保の活用例として、実務上参考になります。