弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

賞与込みの想定年収の記載は信用できるか?

1.賞与の権利性

 賞与が支給されることを見込んで生活設計を立てている方は、少なくないと思います。

 しかし、法律上、賞与は当然に支給されるわけではありません。

 多くの就業規則・賃金規程で、賞与は「会社の業績等を勘案して定める。」などと記載されています。こうした定めがされているのみである場合、「賞与請求権は、・・・各時期の賞与ごとに、使用者が会社の業績等に基づき算定基準を決定して労働者に対する成績査定したとき、又は、労使で会社の業績等に基づき金額を合意したときに、初めて具体的な権利として発生する」と理解されています。つまり、使用者による業績等の算定基準の決定、労働者に対する成績査定がされない限り、労働者は賞与請求をすることはできません。使用者の決定を待たずに賞与を請求できるのは、就業規則や労働契約書等で、支給金額が具体的に算定できる程度に算定基準が明確である場合に限られます(佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務』〔青林書院、初版、平29〕28頁参照)。

 それでは、採用条件通知書等に賞与込みの金額として、具体的な想定年収が書かれていた場合はどうでしょうか?

 この場合、支給金額が明確であるとして、使用者の査定がなくても、賞与を請求することができるのでしょうか? それとも、一般的な場合と同じく、使用者が査定を行わない限り、やはり賞与の請求は認められないのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令2.12.15労働判例ジャーナル110-34 日産自動車事件です。

2.日産自動車事件

 本件で被告になったのは、自動車の製造、販売等を目的とうする株式会社です。

 原告になったのは、被告会社の元従業員です。被告から採用された時、次のような記載のある採用通知書の交付を受けました。

(採用条件通知書の記載事項)

基準賃金(月額) 480,000円

※時間外労働の有無に関わらず、固定残業代として30時間分の時間外手当115,110円を、基準賃金に加え翌月の給与にて支給

賞与

有り 時期、金額等についてはその都度、労使で交渉を行い決定する。

想定年収[月次給(固定残業代含む)×12か月分+賞与(目安値)]

10,363,620円

※賞与は、前年度(4月~3月)の業績と直近半期(4月~9月又は10月~3月)の出勤率に応じて支給。上記に示す額はそれぞれ100%勤務した場合の理論値であり、実際に支給される年収とは異なる。

 この記載事項に従えば、年間賞与額は、

10,363,620-(480,000+115,110)×12

=3,222,300

円となるはずです。

 原告は、平成30年8月16日から働き始め、平成31年2月28日に被告を退職しました。上記の年間賞与額と6か月半で案分すると、その金額は、174万5412円になります。

 しかし、被告は労働組合との事務折衝日に在籍していなかったとして、原告に対し33万7600円の賞与しか支払いませんでした。

 これを受け、原告は、被告に対し、期待権侵害を侵害されたと主張して、不法行為に基づく損害賠償金140万7812円の支払いを求める訴えを提起しました。ダイレクトに賞与を請求する構成をとらなかったのは、使用者の査定がないままでは、賞与を具体的な権利として構成するのが難しいと判断したからではないかと思われます。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、期待権の侵害を否定し、原告の請求を棄却しました。

(裁判所の判断)

「原告は、本件雇用契約の内容をなす本件採用通知書から年間の賞与額が322万2300円と算定されるから、6か月半の労務を提供した原告には合計174万5412円の賞与を受給することに対する期待権があると主張する。」

「しかし、原告が主張する賞与額は、本件採用通知書における本件条項(「・・・想定年収」)を根拠とするものであるところ、前提事実・・・のとおり、本件条項において示されている年収は、月次給12か月分に賞与の『目安値』を加えたもので、『上記に示す額はそれぞれ100%勤務した場合の理論値であり、実際に支給される年収とは異なる』と明記されているのであって、その標題である『想定』の域を出るものではなく、これにより一定の給与を支給することを確定的に表示したしたものということはできない。原告は、本件記載が賞与の減額事由として業績及び出勤率を定めるのみで、労働組合との事務折衝日に在籍していることを条件としていない以上、被告が原告の賞与を定めるに当たり、事務折衝日に在籍していないことを理由として金額を決定する裁量を有していない旨を主張するが、前示のとおり、本件条項が原告に対し一定の賞与を支給することを確定的に表示したものとはいえない以上、その一部である本件記載に何らかの拘束力があるとはいえず、原告の主張は採用することができない。

「そして、本件採用通知書においては、賞与が『時期、金額等についてはその都度、労使で交渉を行い決定する』旨が定められており、認定事実・・・のとおり、被告の給与規定(就業規則の一部をなすものと認められる。)においても、『賞与、その他臨時に支給する賃金に関しては、その都度これを定める』とされているのであるから、本件採用通知書の記載から原告に法律上保護されるべき具体的な賞与額に対する期待が認められるということは困難である。

「以上に加え、認定事実・・・のとおり、被告においては、本件訴訟で問題とされている平成31年度より前の年度(平成29年度及び平成30年度)の賞与についても、本件組合との交渉により事務折衝日に在籍していることが支給の要件とされ、その旨が本件組合の機関紙により組合員に周知されており、原告においてかかる賞与支給の状況を知ることについて特段の困難があったことを窺わせる証拠もないことに照らすと、原告主張の賞与受給に対する期待権があるということはできない。」

3.想定年収の記載は信用できない

 本件のように具体的な想定年収の記載のある書面が交付されていた場合、請求が認められたとしても、それは耳触りの良いことを言って求職者を誘引した使用者側の自業自得だという見方もできるのではないかと思います。

 しかし、裁判所は、原理原則に忠実に、賞与の具体的権利性を否定しました。

 このような判断を見ると、使用者側から提示される賞与込みの想定年収の記載を安易に信用するのは危険であるように思われます。少なくとも、賞与を当て込んだ生活設計を立てるのは、慎重になった方が良さそうです。

 

休憩時間に労働していたという主張-休憩時間がやたら長い場合

1.休憩時間に労働していたという主張

 フルタイムの労働者が時間外勤務手当等(残業代)を請求するにあたり、休憩をとらずに労働していたと主張することがあります。

 しかし、休憩時間も労働していたことの立証が成功する事件は、それほど多くはありません。個人的な実務経験の範囲でも、なんだかんだ理屈をつけては、裁判所は一定の休憩時間の存在を認定する傾向にあります。

 それでは、この傾向は、労働契約で設定されている休憩時間がやたら長い場合にも妥当するのでしょうか?

 業種によっては早朝と夕方以降に業務が集中していて、昼にやたら長い休憩時間が設定されていることがあります。こうした場合に、休憩時間中も稼働していたことの主張、立証を試みる場合にも、やはり休憩時間の切り崩しは難しいのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。大阪地判令3.1.12労働判例ジャーナル110-24 フーリッシュ事件です。

2.フーリッシュ事件

 本件は、いわゆる残業代請求事件です。

 被告になったのは、菓子の製造販売等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、被告との間で雇用契約を締結し(本件雇用契約)、被告が経営する洋菓子店(本件店舗)において、パティシエとして勤務していた方です。

 洋菓子店という業態を反映し、本件雇用契約で定められていた所定労働時間は、

午前6時30分から午前11時まで 及び 午後3時から午後6時30分まで

とされていました。

 そして、休憩時間は、

午前6時30分から午前11時までの間に30分

午後3時から午後6時30分までの間に30分

とされていました。

 こうした労働時間制のもと、原告は、次のとおり、午前11時から午後3時までの間も本件店舗で勤務していたと主張しました。

(原告の主張)

「本件店舗の営業時間は原則午前10時から午後8時までの間であり、出勤している製造スタッフは平均3、4人程度であった。そのため、仮に、1人当たり5時間休憩時間を取得すれば、店舗業務に多大な支障が出ることは明らかである。」

「しかも、午前11時から午後3時までの間は昼休みの時間帯であり、繁忙となりやすく、その間に固定して4時間もの時間を取得できるはずがない。」

「仮に、所定労働時間のとおり、午前11時に退勤し、午後3時に改めて出勤するのであれば、その旨をタイムカードに記載させるとともに、労働時間から差し引く旨を記載させれば足り、そうした措置を講じることは容易であるのに、被告がそうした措置を講じていないのは、原告ら被告の従業員が午前11時から午後3時までの間も勤務していたからに他ならない。」

 これに対し、被告は、

「午前11時から午後3時までの間は休憩時間である」

と反論しました。

 裁判所は、次のとおり述べて、1時間30分の限度でのみ休憩時間を認定しました。

(裁判所の判断)

「原告の陳述書には、始業時刻から終業時刻までの間につき、午前11時から午後3時までの間を含めて業務に従事しており、休憩時間は1時間程度であった旨の記載があるところ、その内容に特段不自然な点はないものの、これを裏付けるに足りる他の客観的な証拠はないことからすると、直ちにはこれを採用できないが、被告が原告の労働の具体的な状況について何ら主張していないことなど弁論の全趣旨をも考慮し、原告は、午前11時から午後3時までの間についても業務に従事していたと認めるものの、始業時刻から終業時刻までの間に少なくとも1日につき1時間30分の休憩時間を取得していたものと認めるのが相当である。」

3.やたら長い休憩時間は切り崩しが容易?

 裁判所は、上述のとおり、1日の休憩時間を1時間30分と認定しました。午前の勤務で30分、午後の勤務で30分の休憩時間が設定されていたことからすると、午前11時から午後3時までの間に30分休憩したのと同じ労働時間が認定されたことになります。

 ここで注目すべきは、休憩時間を切り崩せた理由として、

「被告が原告の労働の具体的な状況について何ら主張していないことなど弁論の全趣旨をも考慮し」

と使用者側の労働時間管理の問題を指摘している点です。

 休憩時間がやたら長い場合、なし崩し的な長時間労働を抑制するため、通常よりも強く労働時間管理の要請が働き、これを懈怠した場合には、比較的広範に休憩時間の切り崩しを認めることを示唆しているのかも知れません。

 本件は、長時間の休憩時間が設定されている職場で残業代を請求するにあたり、参考になるように思われます。

会社のナンバー3でも管理監督者には該当しないとされた例

1.管理監督者

 管理監督者には、時間外勤務手当(残業代)を支払う義務がありません(労働基準法41条2号)。俗に、管理職には残業代を支払う必要がないと言われているルールです。

 この管理監督者への該当性は、

① 職務内容、権限および責任の程度、

② 勤務態様-労働時間の裁量・労働時間管理の有無、程度、

③ 賃金等の待遇、

を総合的に考慮して判断されています(白石哲『労働関係訴訟の実務』〔商事法務、第2版、平30〕154頁参照)。

 会社の側が、管理監督者であるという認識のもとで残業代を支払っていなかったとしても、上記①~③の観点から考察して、管理監督者には該当しない場合、残業代の不払いは違法だと評価されます。この場合、管理監督者扱いされていた労働者は、残業代の支払いを請求することができます。

 ここで注意しなければならないのは、管理監督者への該当性は、あくまでも上記①~③を考慮要素として判断されることです。会社内での職制上の位階は関係がありません。会社内で高位の序列に位置付けられていたとしても、上記①~③を検討して管理監督者とは認められないことは十分にありえます。

 近時公刊された判例集にも、そのことが明示的に判断された裁判例が掲載されていました。東京地判令2.12.9 労働判例ジャーナル110-48 ファミリーライフサービス事件です。

2.ファミリーライフサービス事件

 本件は、いわゆる残業代請求事件です。

 被告になったのは、貸金業等を業とする株式会社です。日本料理店である吉祥C本店、吉祥D店を運営する株式会社吉祥の完全親会社でもあります。

 原告になったのは、被告に雇用されたうえ、C本店の調理スタッフ(総料理長ないし統括料理長)として就労していた方です。期間満了により被告を退職し、残業代の支払いを求める訴えを提起しました。

 本件では、原告の管理監督者性が争点の一つになりました。

 被告は、

吉祥の職制上、総料理長より上位者は吉祥の代表取締役及び取締役の2名であるが、飲食業と関係しない事業の経営者であって、吉祥の事業場に出勤することはなく、吉祥の労務管理は一切していない。総料理長は、C本店運営の最高責任者として、C本店に属する全ての従業員の労務管理についての権限と責任を有しており、事業場における労務管理を取締役に代わって行う者、すなわち、労務管理について経営者と一体的な立場にある者である。」

などと述べ、原告の管理監督者性を主張しました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、原告の管理監督者性を否定しました。

(裁判所の判断)

「労基法41条2号は、管理監督者に該当する場合、労基法で定める労働時間、休憩及び休日に関する規定を適用しないものとしているところ、これは、管理監督者については、その職務の性質や経営上の必要から、経営者と一体的な立場において、労働時間、休憩及び休日等に関する規制の枠を超えて活動することが要請されるような重要な職務と責任、権限を付与され、実際の勤務態様も労働時間等の規制になじまないような立場にある一方、他の一般の従業員に比して賃金その他の待遇面でその地位にふさわしい優遇措置が講じられていることや、自己の裁量で労働時間を管理することが許容されていることなどから、労基法の労働時間等に関する規制を及ぼさなくてもその保護に欠けることがないと考えられることによるものである。」

「そうすると、管理監督者該当性の判断に当たっては、〔1〕当該労働者が実質的に経営者と一体的な立場にあるといえるだけの重要な職務と責任、権限を付与されているか、〔2〕自己の裁量で労働時間を管理することが許容されているか、〔3〕給与等に照らし管理監督者としての地位や職責にふさわしい待遇がなされているかという観点から判断すべきである。」

(中略)

「以上によれば、原告は人事関係業務の一つである採用面接のうち調理スタッフの採用について面接を行い、採否や待遇について具体的に決定し、E支配人を通じて被告代表者の承認を求めていたことが認められるが、使用者の人事権の一部に過ぎず、その業務内容に照らしても、基本的には調理業務を行っていたものであり、労働時間規制の枠を超えた活動を要請されざるを得ない重要な職務や権限を有していたとか、その責任を負っていたとまでは評価できず、また、原告がこのような実質的な決定権限を行使するにあたって労働時間に関する裁量を有していたとも認められず、被告において原告の処遇が高水準であると評価できる点を最大限斟酌するとしても、原告が労基法41条2号の管理監督者であったと認めることはできない。」

「なお、被告は、吉祥の職制上、総料理長より上位者は代表取締役及び取締役の2名であり、総料理長である原告が労務管理について経営者と一体的な立場にある旨主張するが、前記・・・のとおり、労基法上の管理監督者に該当するか否かは具体的に検討すべきであり、職制上の位置づけによって直ちに決まるものではないから、被告の主張は採用できない。

3.職制上の位置づけは必ずしも管理監督者性を肯定しない

 会社で職制上の地位が高い方の中には、自分のことを管理監督者だと思い込んで、残業代が支払われない待遇に疑問を有していない方が、少なからず存在します。

 しかし、ワンマンな会社などでは、上記①~③の要素を検討してみると、管理監督者性に疑義があることも珍しくありません。

 管理監督者扱いされている場合、会社から残業代の支給を受けていることは、極めて稀です。管理監督者扱いされている人は高額の給与を受けている方も少なくないことから、管理監督者生を争点とする事件は、請求金額・認容金額が膨らみがちです。本件でも、431万2966円の残業代が認容されてます。

 管理監督者の概念は、決して広くはないため、気になる方は、弁護士のもとに相談に行ってみると良いと思います。もちろん、当事務所でも、随時、法律相談をお受け付けしています。

 

心理的負荷「弱」「中」「中」で業務起因性が認められた例

1.精神障害の認定基準

 精神障害であったとしても、業務上の疾病である限り、労災認定の対象になります。

 ある精神障害が、業務上の疾病と認められるか否かについては、

平成23年12月26日 基発1226第1号「心理的負荷による精神障害の認定基準について」(最終改正:令和2年8月21日 基発0821第4号)

という基準に従って判断されています。

精神障害の労災補償について|厚生労働省

https://www.mhlw.go.jp/content/000661301.pdf

 この認定基準では、

対象疾病の発病前おおむね6か月の間に、業務による強い心理的負荷が認められること

を業務上の疾病として取り扱うための要件にしています。

 それでは「強い心理的負荷が認められる」場合とは、具体的には、どのような場合をいうのでしょうか?

 この問題に答えるため、認定基準は、出来事毎に心理的負荷の強弱の目安を規定しています。例えば、

重度の病気やケガをした 強

悲惨な事故や災害の体験、目撃をした 中

といったようにです。

2.出来事が複数ある場合

 心理的負荷を生じさせる出来事が複数ある場合、その中に一つでも「強」とされるものが含まれていれば、業務起因性の判断に、それほど迷うことはありません。

 しかし、いずれの出来事も単独では「強」にならない場合、業務起因性の判断は不安定なものになります。

 この場合、認定基準は、

「出来事が関連して生じている場合には、その全体を一つの出来事として評価することとし、原則として最初の出来事を『具体的出来事』として別表1に当てはめ、関連して生じた各出来事は出来事後の状況とみなす方法により、その全体評価を行う。

具体的には、『中』である出来事があり、それに関連する別の出来事(それ単独では『中』の評価)が生じた場合には、後発の出来事は先発の出来事の出来事後の状況とみなし、当該後発の出来事の内容、程度により『強』又は『中』として全体を評価する。

「一つの出来事のほかに、それとは関連しない他の出来事が生じている場合には、主としてそれらの出来事の数、各出来事の内容(心理的負荷の強弱)、各出来事の時間的な近接の程度を元に、その全体的な心理的負荷を評価する。

具体的には、単独の出来事の心理的負荷が『中』である出来事が複数生じている場合には、全体評価は『中』又は『強』となる。また、『中』の出来事が一つあるほかには『弱』の出来事しかない場合には原則として全体評価も『中』であり、『弱』の出来事が複数生じている場合には原則として全体評価も『弱』となる。」

と述べています。

 つまり、心理的負荷「中」の出来事が複数ある場合、全体的な心理的負荷は「強」になる場合と「中」のままである場合に分かれることになります。

 この「強」になる場合と、「中」のままである場合が、どのように振り分けられているのかは、今一良く分かっていません。ただ、個人的な経験・観測範囲においては、「弱」や「中」の事実は、幾ら集めても、なかなか「強」にはならない傾向があるように思われます。

 しかし、近時公刊された判例集に、心理的負荷が「弱」「中」「中」の組み合わせであるにもかかわらず、精神障害とそれに続く自殺の業務起因性が認められた裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介した、札幌地判令2.10.14労働判例1240-47国・札幌東労基署長(カレスサッポロ)事件です。

3.国・札幌東労基署長(カレスサッポロ)事件

 本件は、吃音の看護師Cの自殺が、業務による心理的負荷が原因となって発症した精神障害に起因するものなのかが争われた事件です。

 原告になったのは、Cの父親です。労災保険法に基づいて遺族補償給付及び葬祭料を請求したところ、処分行政庁から不支給決定を受けました。その後、審査請求、再審査請求が棄却されたことを経て、取消訴訟を提起しました。

 この事件では、心理的負荷を生じさせる出来事として、三つの項目が検討の対象になりました。

 具体的には

ア.本件説明練習を含む指導担当者によるCに対する指導等

イ.Gとの面談において、課題を指摘され、また、試用期間が延長となったこと

ウ.患者からの苦情を受けていたこと

の三項目です。

 裁判所は、各項目の心理的負荷について、次のとおり「弱」「中」「中」と評価しました。

(項目ア)

「本件説明練習は、口頭での説明やコミュニケーションを苦手とする新人看護師(C)が、上司(H等の指導担当者)の指導の下、患者への説明を正確かつ分かりやすくできるよう、これに先立って事前に練習を行うものであり、職務上必要なものである。また、その他の指導担当者によるCに対する指導及び叱責も、業務上のミス等に対するものであって、職務上必要なものであるといえる。したがって、そのような説明練習や指導等を行うこと自体が不合理なものではない上、これまで認定説示してきた本件説明練習や指導等の態様及び内容等に照らしても、新人看護師に対する業務指導の範囲内のものであったと認められる。そして、本件説明練習を含めた指導担当者によるCに対する指導等が行われたことにより、CとH等の指導担当者との間に、客観的な対立が生じていたとまでは認められないことからすれば、Cと同種の労働者を基準として、心理的負荷の程度は『弱』と認める

(項目イ)

「Cは、第4病棟に配属されて以降、他の新人看護師と比べて、他の看護師に対する報告や調整をきちんと行うように指導されることが多かったところ・・・、報連相は、新人看護師に対して通常求められる事柄であり、また、Cのきつ音の症状は、主に緊張する場面や初対面の者に対応する場面で現れており・・・、日常的に接している他の看護師への報告等の場面はこれとは異なると考えられ、きつ音を有することが報連相を行うに当たって直ちに支障となるものとまではいえないことをも踏まえると、報連相の実施については、Cと同種の労働者にとって達成可能な課題を示されたものということができる。」

「また、採血や注射等の技術の習得についても、新人看護師に対して通常求められる以上の高度な水準を求められていたものでもないから、Cと同種の労働者にとって達成可能な課題というべきである。」

「さらに、患者とのコミュニケーション問題についても、Cは、患者への説明の際、緊張することがなければ言葉が突っかかることはなかったし、緊張が強いられるような患者についてはCの担当としないといった対応も取られていたこと(同前)、や、本件説明練習の目的は、Cがきつ音の症状を全く出すことなく、説明板の文章を滞りなく読めるようになることではなく、Cに対してそのようなことは求められていなかったこと・・・からすると、やはり、Cと同種の労働者であれば達成可能な課題を示されたものといえる。」

「そうすると、客観的にみて、Cと同種の労働者にとって、Gとの面談で示された各課題の達成に向けて従事しなければならない業務内容が質的に重大であるとまではいい難いところである。他方、これらの課題は、Cが当初の試用期間である3か月の間に求められる水準に達しなかったものであるところ、延長された試用期間は、その3分の1である1か月間であり、Gから、どの程度課題が達成されれば本採用されるかなどの具体的なことは示されておらず、Cにおいて、これが達成できなかった場合には解雇(解約)もあり得ると考えられる状態であったところ、Cと同様の立場に置かれた同種の労働者を基準としても、上記のような課題が示された不安感等による心理的負荷はある程度強いものであったといえる。」

「また、Cは、正規社員として本件法人に雇用され、雇用契約上、留保解約権の存在が明示されていたところ、2回目の面談において、Gから、延長された試用期間終了後の自己の処遇についての明言はなく、不安定な状態に置かれたといえる。また、Cは、本件病院への採用時34歳と新社会人としてはやや高齢であることからすれば、本件病院での勤務が継続できなくなった場合の再就職に対する不安は大きかったとも考えられる。そして、上記のとおり、Cは、当初の試用期間である3か月の間に、通常の新人看護師であれば到達すべき水準に達していない事項があったことも踏まえると、試用期間の延長により、示された課題につき水準に達することができずに解雇(解約)される可能性が、ある程度現実的に認識できる状態になったと認められるところ、このことは、Cと同種の労働者を基準としてその心理的負荷の程度を考えてみても、別表1において『弱』とされている『非正規社員である自分の契約満了が迫った』よりも強いものというべきである。」

「以上を踏まえると、Gとの面談において、課題を指摘され、また、試用期間が延長となったことを全体としてみると、心理的負荷の程度は『中』と認める

(項目ウ)

「患者が、Cによる説明に関して苦情を申し入れた際には、そのときCを指導している看護師が患者に対して説明するなどの対応や、Cを当該患者の担当から外すようにし、Cには、Cが緊張するような威圧的な患者を避け、比較的温厚な患者や、同じ患者を担当させるという対応が取られていた・・・。C自身が、患者からの苦情への対応のために困難な調整に当たることはなかったものの、苦情の内容は、看護業務を遂行に当たって非常に重要な患者への説明内容や患者との信頼関係に関するもので、その数も少なくなかった上、Cの業務にも、患者の担当を外されたり、対応可能な患者が限定されたりするなどの影響があったほか、他の新人看護師は行っていない本件言換練習が必要となったことにも関係しているということができ、患者の苦情を受けて、Cの業務内容や業務量には相応の変化が生じていたというべきである。以上を踏まえると、Cと同種の労働者を基準として、患者からの苦情を受けていたことについて、その心理的負荷の程度は『中』と認める

 そのうえで、裁判所は、次のとおり総合評価し、精神障害及び自殺の業務起因性を認めました。

(裁判所の判断)

「上記ア~ウで説示した出来事は、一つの出来事のほかに、それとは関連しない他の出来事が生じている場合に当たるから、主としてそれらの出来事の数、各出来事の内容(心理的負荷の強弱)、各出来事の時間的な近接の程度を元に、その全体的な心理的負荷を評価することになる・・・」

本件においては、3か月程度の期間内に、別表1における心理的負荷の強度が『中』と認められる上記イ(Gとの面談関係)及びウ(患者からの苦情関係)の各出来事が存するところ、上記ウの出来事による相応に重い心理的負荷が生じていた状況において、さらに、患者とのコミュニケーション問題を含む課題を提示され、これを改善しなければ本件病院での勤務を継続できなくなるかもしれず、その時期も迫っているという上記イの出来事による心理的負荷が加わったものである。そして、これらの出来事と重なる時期に、上記ア(指導担当者による指導等関係)による心理的負荷があったと認められることにも鑑みると、上記ア~ウの出来事に係る全体的な心理的負荷の程度は、Cと同種の労働者にとって、精神障害を発病させる程度に強度のものであったと認めるのが相当である。

(中略)

以上によれば、Cの精神障害の発病は、Cの業務に内在又は随伴する危険が現実化したものと評価できる。そして、業務によりICD-10のF0からF4に分類される精神障害を発病したと認められる者が自殺を図った場合には、精神障害によって正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、あるいは自殺行為を思いとどまる精神的抑制力が著しく阻害されている状態に陥ったものと推定できるから・・・、Cの死亡(自殺)も、Cの業務に内在又は随伴する危険が現実化したものと評価でき、業務起因性が認められる。

4.「強」がなくても業務起因性が認められることはある

 上述したとおり、個人的経験・観測の範囲内では、「弱」や「中」の出来事は、幾ら集めても、なかなか「強」のレベルには達しません。

 しかし、本件は、「弱」「中」「中」という組み合わせであったにもかかわらず、精神障害の発症及び自殺との業務起因性を認めました。

 Cは障害者(流暢性障害・吃音)でしたが、昨日紹介したとおり、心理的負荷は通常の新人看護師を基準に評価するとされています。そのため、「弱」「中」「中」という組み合わせでも業務起因性が認められたのは、被災労働者が障害者であったからだというわけではないように思われます。

 本件は「強」になる出来事がないとして労災が認められなかった方が、労災認定を勝ち取ってゆくにあたり、参考になります。

 

障害者の労災-基準とすべき労働者をどうみるか?

1.精神障害の認定基準

 精神障害であったとしても、業務上の疾病である限り、労災認定の対象になります。

 ある精神障害が、業務上の疾病と認められるか否かについては、

平成23年12月26日 基発1226第1号「心理的負荷による精神障害の認定基準について」(最終改正:令和2年8月21日 基発0821第4号)

という基準に従って判断されています。

精神障害の労災補償について|厚生労働省

https://www.mhlw.go.jp/content/000661301.pdf

 この認定基準では、

対象疾病の発病前おおむね6か月の間に、業務による強い心理的負荷が認められること

を業務上の疾病として取り扱うための要件にしています。

 それでは、この「強い心理的負荷」は、誰にとって強い心理的負荷であることを意味するのでしょうか?

 認定基準では、

同種の労働者が一般的にどう受け止めるかという観点から評価されるものであり、『同種の労働者』とは職種、職場における立場や職責、年齢、経験等が類似する者をいう。」

とされています。

 しかし、「同種の労働者」というのも多義的な概念です。

 例えば、元々障害を抱えている労働者が精神障害を発症した場合、基準になるのは障害を持っていない健常な平均的労働者になるのでしょうか、それとも、障害を持っている人の中での平均的な労働者になるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。札幌地判令2.10.14労働判例1240-47国・札幌東労基署長(カレスサッポロ)事件です。

2.国・札幌東労基署長(カレスサッポロ)事件

 本件は、吃音の看護師Cの自殺が、業務による心理的負荷が原因となって発症した精神障害に起因するものなのかが争われた事件です。

 原告になったのは、Cの父親です。労災保険法に基づいて遺族補償給付及び葬祭料を請求したところ、処分行政庁から不支給決定を受けました。その後、審査請求、再審査請求が棄却されたことを経て、取消訴訟を提起しました。

 この裁判の中では、誰を基準として、強い心理的負荷が生じたかどうかを判断するのかが争点の一つになりました。

 原告は、亡Cと同種の障害を有する労働者、すなわち、重度の吃音を有する労働者(亡一郎本人)が基準とされるべきであると主張しました。

 これに対し、被告国・労基署長側は、あくまでも平均的な労働者、すなわち、日常業務を支障なく遂行できる労働者を基準とすべきであると主張しました。

 裁判所は、この論点について、次のとおり述べて、基準になるのは、特段の労務軽減なしに、通常の新人看護師としての業務を遂行できる者だと判示しました。ただし、結論としては、業務起因性を認め、原告の請求を認容しています。

(裁判所の判断)

「労災保険制度が、使用者が労働者を自己の支配下において労務を提供させるという労働関係の特質に鑑み、業務に内在又は随伴する危険が現実化した場合に、使用者に何ら過失はなくても労働者に発生した損失を填補する危険責任の法理に基づく制度であることからすると、当該業務が精神障害を発生させる危険の程度を判断する際には、同種の業務において通常の勤務に就くことが期待される一般的、平均的な労働者、すなわち、何らかの素因(個体の脆弱性)を有しながらも、当該労働者と職種、職場における立場、経験等で同種の者であって、特段の労務の軽減までは要せず、通常の業務を遂行することができる程度の心身の健康状態を有する労働者を基準とすべきである。

「原告は、労働者が障害者という属性を有している場合においては、当該労働者と同種の障害を有する労働者を基準にして業務起因性を判断すべきであり、Cはきつ音という障害を有していることを前提として雇用されていたのであるから、本件では、きつ音を有する同種の労働者を基準に業務の心理的負荷を評価すべきであると主張する。確かに、身体的障害又は精神的障害があることを理由として労務軽減が必要とされているような場合においては、当該障害を有する者とそうでない者とでは、業務に内在又は随伴する危険が現実化する可能性の程度が異なる以上、当該障害の存在を考慮せずに業務の危険性を評価することは相当でなく、当該障害については、年齢、経験等に準ずる属性として考慮し、同様の労務軽減を受けている労働者を平均的労働者と捉えて基準とすることが考えられる。しかしながら、Cについては、きつ音を有する者であることを理解し、そのことに対する配慮がされるべきことは前提にしつつも、きつ音を理由とした労務軽減が必要な者であったわけではなく、きつ音を有しながらも他の看護師と同様の勤務に就くことが期待できた者であったといえる。そうすると、Cに係る業務起因性を判断するに当たっては、きつ音を有する労働者を基準とする必要はなく、Cの有していたきつ音については、業務上の出来事を評価するに当たり、必要な限度でこれを考慮すれば足りるというべきである。

「以上からすれば、Cに係る業務起因性を判断するに当たっては、特段の労務軽減なしに、通常の新人看護師としての業務を遂行できる者を基準とすることになる。

3.国・豊橋労基署長(マツヤデンキ)事件との整合性をどう考えるか

 障害者の労災認定にあたり、どのような労働者を基準に心理的負荷の強弱を判断するのかについては、名古屋高判平22.4.16労働判例1006-5 国・豊橋労基署長(マツヤデンキ)事件という著名裁判例があります。

 この事件で、名古屋高裁は、心疾患障害の労働者の死亡が過重労働に起因するものかを判断するにあたり、

「労働基準法及び労災保険法が、業務上災害が発生した場合に、使用者に保険費用を負担させた上、無過失の補償責任を認めていることからすると、基本的には、業務上の災害といえるためには、災害が業務に内在または随伴する危険が現実化したものであることを要すると解すべきであり、その判断の基準としては平均的な労働者を基準とするのが自然であると解される。しかしながら、労働に従事する労働者は必ずしも平均的な労働能力を有しているわけではなく、身体に障害を抱えている労働者もいるわけであるから、仮に、被控訴人の主張が、身体障害者である労働者が遭遇する災害についての業務起因性の判断の基準においても、常に平均的労働者が基準となるというものであれば、その主張は相当とはいえない。このことは、憲法27条1項が『すべて国民は勤労の権利を有し、義務を負ふ。』と定め、国が身体障害者雇用促進法等により身体障害者の就労を積極的に援助し、企業もその協力を求められている時代にあっては一層明らかというべきである。したがって、少なくとも、身体障害者であることを前提として業務に従事させた場合に、その障害とされている基礎疾患が悪化して災害が発生した場合には、その業務起因性の判断基準は、当該労働者が基準となるというべきである。何故なら、もしそうでないとすれば、そのような障害者は最初から労災保険の適用から除外されたと同じことになるからである。

「そして、本件においては、Bは、障害者の就職のための集団面接会を経て本件事業者に身体障害者枠で採用された者であるから、当該業務による負荷が過重なものであるかどうかを判断するについても、Bを基準とすべきであり、本件Bの死亡が、その過重な負荷によって自然的経過を超えて災害が発生したものであるか否かを判断すべきである。

と述べ、死亡した労働者Bを基準にすべきだと判示しました。

 国・豊橋労基署長(マツヤデンキ)事件は国から上告受理が申し立てられました。しかし、最高裁の第一小法廷は、受理しないという決定をしたため、名古屋高裁の判断が確定しています(最一小判平23.7.21LLI/DB判例秘書登載)。

 本件は国・豊橋労基署長(マツヤデンキ)事件との整合性が問題になります。この問題については、健常者枠で採用されているのか/障害者枠で採用されているのかが、結論に影響を与えたという説明が可能だと思われます。健常者枠の中での平均的な労働者は健常者である一方、障害者枠の中での平均的な労働者は障害者だからです。

 障害を持っている方が、健常者枠で働くのか、障害者枠で働くのかは、一長一短があり、難しい選択です。この選択にあたっては、万一、被災してしまった場合の補償のされやすさという観点も、加味してみてよいのではないかと思います。

 

大学教授の地位保全の必要性

1.地位保全の仮処分

 解雇や配転を受けると、それまでの日常生活・職業生活が一変してしまうことも少なくありません。しかし、解雇や配転の効力を争って法的な手続をとっても、裁判所の終局的な判断が得られるまでには、一定の時間がかかります。近年では労働審判という迅速な手続が活用されることにより改善が図られていますが、全ての事件が労働審判で解決するわけではありませんし、労働審判での解決に適しているわけでもありません。

 裁判所の終局的な判断を待つことができない場合、仮処分という手続を検討することになります。仮処分とは、争いがある権利関係について債権者に生ずる著しい損害又は急迫の危険を避けるため、暫定的な措置を求める手続です(民事保全法23条2項参照)。

 しかし、解雇された場合に申し立てる賃金仮払いの仮処分はともかく、それ以外の類型の仮処分は容易には認められない傾向にあります。裁判所に仮処分を認めてもらうためには、「保全の必要性」が必要だからです(民事保全法23条2項参照)。解雇されて生活が困窮している場合はともかく、それ以外の局面では、裁判所の終局的な判断を待てないような事情は認めがたいという発想が根底にあります。

 例えば、以前このブログでも紹介した、仙台地決令2.8.21労働判例1236-63 センバ流通(仮処分)事件では、賃金仮払いの仮処分とともに、地位保全の仮処分も申し立てられました。裁判所は、賃金仮払いの仮処分は認めましたが、地位保全の仮処分は、

「保全すべき権利の中核である仮払い仮処分の必要性が認められるところ、これを超えて、地位保全仮処分の必要性を認めるべき特段の事情があるとはいえない。」

などと述べて、申立を却下しています。

 こうした状況のもと、近時公刊された判例集に、薬学部教授の地位にあることを仮に定めるという内容の仮処分命令の申立てが認められた裁判例が掲載されていました。昨日、一昨日とご紹介させて頂いてる、宇都宮地決令2.12.10労働判例1240-23 学校法人国際医療福祉大学(仮処分)事件です。

2.学校法人国際医療福祉大学(仮処分)事件

 本件は配転命令の効力が争点となった仮処分事件です。

 本件で債務者になったのは、国際医療福祉大学を開学した学校法人です。債務者は、同大学の附属病院として、A病院も設置していました。

 債権者になったのは、債務者との間で、「国際医療福祉大学薬学部教授及びA病院薬剤部長」として有期雇用契約を締結していた方です。従業員等に対してハラスメントを行ったとして、債務者から薬学部教授等の地位を解任されたうえ、国際医療福祉大学病院において勤務することを命じられました(本件配転命令)。これに対し、本件配転命令の無効を主張して、薬学部教授の地位にあることを仮に定める処分を求める申立を行ったのが本件です。

 この事件では、本件配転命令の効力のほか、保全の必要性が認められるか否かも争点になりました。

 債務者は、

「債権者の主位的申立てに係る上記主張は、就労請求権を前提とするものであって、いわゆる任意の履行を求める仮処分命令であるが、このような申立てには原則として保全の必要性は認められない。そして、債権者は、本件主位的申立てが認められないことで研究活動が阻害される旨を主張するが、具体的な研究活動の内容は定かでなく、また、各種国家試験委員の地位を喪失しうる旨の主張についても、研究活動そのものではなく、研究活動との関連性も定かではない上、債権者が債務者において担当した講義は、昨年7月1日から同年12月までにおいて、『臨床薬学Ⅲ』をわずか1回だけ担当したのみであるから、薬学部教授として後進を育成するという観点からみても、何ら支障が生じていないことは明らかである。債権者の主位的申立てには、保全の必要性が認められるべき例外的な事情がないことは明らかであり、保全の必要性につき疎明されていないから、却下されるべきである。」

と主張し、保全の必要性を争いました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、保全の必要性を認めました。

(裁判所の判断)

「債権者と債務者との間には本件職種限定合意の成立が一応認められ、本件配転命令は、この合意に反するものとして無効であるが、ただ、その場合、債権者が薬学部教授として地位にあることを仮に定めるのでなければ、その結果として、上記1(1)ウで認定した重要な研究課題に関する研究助成金の交付を受けられないなど、債権者の研究活動等に重大な支障が生じることが高度の蓋然性をもって予測されるところである。そうすると、債権者は、かかる研究者にとって致命的ともいえる不利益を回避するため、現実に債務者に対して薬学部教授として就労をすることを求める特別の利益を有するものと解するのが相当であるから、この点に関する債権者の主位的申立てには保全の必要性が認められるものというべきである。

 ※ 上記1(1)ウ

「債務者は、所属する教員各位に対し、人事評価の一環として、大学教育の質を上げるため、教員が自らの大学に対する貢献を客観的に把握し、各人が更に上を目指し努力を重ねることを目的とする『教育研究活動報告書』の作成・提出を求め、1年間における担当科目数・コマ数、執筆した論文・著書数、研究助成金の獲得数、学会発表回数等を報告させた・・・。」

「債権者は、平成31年度において、臨床薬学Ⅲの授業を1回担当し、論文を16本、著書を1冊それぞれ執筆し、公的研究費を1件支給され、また、国際学会での発表を5本、国内学会での発表を17本担当した・・・。」

「令和2年度においては、研究助成金を3件獲得した。助成金の内訳は、20万円、20万円及び80万円である・・・。」

「ちなみに、債権者は、債務者の薬学部教授に就任した後も、債務者課題『I』として、平成30年から令和2年を期間とする研究助成金を受け、△△大学付属病院が収集したデータの解析、評価及び論文化を担当し、助成金の規模は、平成30年が689万円、令和元年及び同2年がいずれも520万円であった・・・。」

3.大学教授の法的地位の特殊性

 大学教授の法的地位の特殊性は、本ブログでも、

大学教授の就労請求権 - 弁護士 師子角允彬のブログ

大学教授会への出席・参加に権利性が認められた事例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

大学教授の特殊性-名誉教授の称号授与の可能性と戒告・譴責の無効を確認する利益 - 弁護士 師子角允彬のブログ

など記事で紹介してきました。

 本件は広い意味で就労請求権を認めた事例の一つとして位置付けられる裁判例であると思われます。

 裁判所は、大学教授の研究活動を進める利益を、かなり重視しています。通常の労働者には認められない請求・申立が認められる可能性もあるため、労働問題でお困りの方は、ネットでの一般論の収集に留まらず、知見のある弁護士に相談してみることを、お勧めします。

 

職種限定合意を解除する配転合意と「自由な意思」

1.職種限定合意と配転合意

 職種限定の合意とは、

「労働契約において、労働者を一定の職種に限定して配置する(したがって、当該職種以外の職種には一切つかせない)旨の使用者と労働者との合意」(佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務』〔青林書院、初版、平29〕203頁参照)

をいいます。

 職種限定の合意は、使用者の配転命令に対し、抗弁として機能します。つまり、職種限定の合意が認められる場合、配転命令を拒否することができます。

 しかし、職種限定の合意も、合意である以上、別の合意によって上書きすることができます。職種限定の合意があったとしても、別途、配転合意が成立した場合、使用者は、新たに成立した配転合意により、異動を命じることができます。

 それでは、一旦配転合意を成立させてしまったら、職種限定合意のある労働者であったとしても、最早異動を拒否することはできなくなってしまうのでしょうか?

 職種限定合意のある労働者にとって、配転を受け入れることは、不慣れ・不本意なキャリアを歩まされることを意味します。このような不利益性の強い合意についても、錯誤、詐欺、強迫などの瑕疵がない限り、一旦合意してしまった以上は、有効なものとして取り扱われてしまうのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。昨日もご紹介した、宇都宮地決令2.12.10労働判例1240-23 学校法人国際医療福祉大学(仮処分)事件です。

2.国際医療福祉大学(仮処分)事件

 本件は配転命令の効力が争点となった仮処分事件です。

 本件で債務者になったのは、国際医療福祉大学を開学した学校法人です。債務者は、同大学の附属病院として、A病院も設置していました。

 債権者になったのは、債務者との間で、「国際医療福祉大学薬学部教授及びA病院薬剤部長」として有期雇用契約を締結していた方です。従業員等に対してハラスメントを行ったとして、債務者から薬学部教授等の地位を解任されたうえ、国際医療福祉大学病院において勤務することを命じられました(本件配転命令)。これに対し、本件配転命令の無効を主張して、薬学部教授の地位にあることを仮に定める処分を求める申立を行ったのが本件です。

 昨日言及したとおり、本件では職種限定の合意が認定されました。

 しかし、債権者は本件配転命令の後、債務者との間で、労働条件の変更された「雇用契約書兼労働条件通知書」を取り交わしていました(本件配転合意)。債務者は、本件配転合意が認められる以上、病院勤務を命じる配転は有効だとも主張しました。

 この問題について、裁判所は、次のとおり述べて、合意の成立を否定しました。

(裁判所の判断)

本件配転合意は、前記・・・に記載のとおり、本件職種限定合意の効果を排除し、これに反した配転をすることに同意することを内容としたものであって、これにより労働者たる債権者は一定の不利益を被ることになるのであるから、このような合意の成否については、当該不利的変更を受け入れる旨の記載がある書面等に署名・押印するなどといった労働者の行為だけでなく、労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供または説明の内容等に照らして、当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと一応認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点を踏まえて判断することが相当である(最高裁平成28年2月19日第二小法廷判決・民集70巻2号123頁参照・上記のとおり『一応』を付記した理由は本件が保全事件であることによる。)。」

「債権者は、本件ハラスメント認定以前からこれに対する債務者の対応(特に自宅待機命令)に代理人弁護士を通じて異議を表明していたものであり、実際に本件ハラスメント認定を理由に本件配転命令を受けた後も、本件ハラスメント認定を含め、その配転の内容それ自体に異議を述べ、本件配転命令の無効を主張して当庁に対し本件申立てを行い、法的な救済を求めていたことに加え、本件配転合意書の署名・押印時においても、本件配転命令の効力を争わないことを明示的に確認した事実はなく、むしろ、わずか10分程度でその手続が終了したというのであるから、本件配転合意書の上記内容を認識しつつ異議を述べずに署名・押印を行ったからといって、その署名・押印が債権者の自由な意思に基づいてされたものであるとはいい難く、むしろ、上記のとおり病院職員証の返却やY1大学病院への着任等につき債務者からの要望に応じたのと同様、無用な混乱等を避け、給与や手当の支給手続が円滑に進むよう、とりあえず本件配転合意書への署名・押印に応じたものであって、それは飽くまで債務者との無用な軋轢を回避するための暫定的な取決めに過ぎなかったものとみるのが合理的である。」

「そうすると、債権者が、令和2年9月9日、債務者の担当者から本件配転合意書を示され、これに格別異議を述べることなく署名・押印し債務者に提出しており、その際、債務者の担当者は、その内容について本件配転命令時に交付した通知書と同じであると説明していたというのであるから、債権者は、本件配転合意書が本件配転命令に同意することを内容とする書面であることを認識しつつ同書面に署名・押印したことが一応うかがわれるほか、病院職員証の返却やY1大学病院への着任等本件配転命令を前提とした債務者からの要望にも応じていた事情等を踏まえても、本件配転合意書への署名・押印が債権者の自由な意思に基づいてされたものと一応認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するものとはいえず、本件配転合意の成立は一応も認められないものというべきである。

「なお、債務者は、本件配転合意書の記載内容は一見して明白であることや、上記・・・のとおり、本件配転合意書の署名・押印に先立ち、債権者代理人弁護士からは、人事的な事項に関する連絡等について直接債権者本人に連絡してよいと言われたことを指摘するが、上記のとおり、債権者は、本件配転命令に対し、一貫して異議を述べている上、本件配転命令に従わないことで生じる混乱を防ぐために、債務者からの種々の要求に暫定的に応じていたと認められるから、本件配転合意書の署名・押印についても、それらと同様に、債権者は、本件配転命令の効力が確定するまでの間の暫定的な勤務状態を受け入れる意図で署名・押印したものというべきであるから、債務者の上記指摘は上記結論を左右しない。」

3.配転合意にも「自由な意思」が必要

 上述のとおり、裁判所は、配転合意にも「自由な意思」が必要であるとの理解を示しました。「自由な意思」が必要であるとする考え方は、従来、賃金や退職金減額の場面で採用されてきた議論です。その適用範囲は徐々に拡張されてきましたが、職種限定合意のある労働者との間での配転合意にも妥当すると判示した裁判例は、おそらく本件が初めてではないかと思います。

 本件のようにハラスメントの嫌疑をかけられていたり、整理解雇を含意した退職勧奨を受けたりした場面では、職種限定の合意が認められる場面であっても、不安に駆られて配転合意を交わしてしまう例が散見されます。

 そうした労働者が事後的に合意の効力を争うにあたり、本裁判例は有力な武器になることが期待されます。